2016年5月29日「いかに幸いなことか」

 

 2016529日 主日礼拝

聖書箇所:詩編1

「いかに幸いなことか」

 

 

詩編1編《いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。/その人は流れのほとりに植えられた木。/ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。/その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。/

神に逆らう者はそうではない。/彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。/神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。/

神に従う人の道を主は知っていてくださる。/神に逆らう者の道は滅びに至る》。

 

 

 

詩編のメッセージ ~あるがままの自分を差し出す

 

 今年度から、月に一度、旧約聖書から説教をしてゆきたいと思います。まず取り上げてゆきたいと思うのは、詩編です。

 

 旧約聖書の詩編は、古代イスラエルの人々の神さまへの賛歌が集められたものです。詩編の歌は、これまで無数の人々の人生を支え続けてきました。

 

詩編の特徴は、神さまを賛美する歌、信頼する歌だけではなく、「嘆きの歌」がたくさん含まれているというところです。自分の苦しみ、辛さ、悲しみ、嘆きを率直に神さまに訴える歌もたくさん集められているのですね。詩編においてはおよそ全体の三分の一が嘆きの歌となっています。

 

 詩編の作者たちは、神さまの前に何も隠そうとしません。喜びだけではなく、悲しみも、嘆きも、時には荒々しい怒りの感情さえも、隠すことなく神さまの前に率直に表現しています。「あるがままの自分を神さまの前に差し出すこと」――詩編はこのことの大切さを私たちに伝えてくれているように思います。

 

日々の自分自身を振り返ってみますと、詩編の作者とは正反対に、率直な自分の感情を押し込めてしまうことが多いことを思わされます。ついつい自分の辛さや、弱さを隠そうとしてしまうのですね。神さまと人に、もっと率直に自分の弱さを人に見せられれば、と願っています。

 

これから皆さんとご一緒に、詩編の豊かなメッセージを味わってゆきたいと思います。

 

 

 

「いかに幸いなことか」

 

本日は詩編の冒頭の1編を取り上げます。その始まりの言葉が《いかに幸いなことか》であるというところが印象的です。「幸いだ」という祝福の宣言をもって、詩編は始まってゆくのですね。

 

では、どういう人が幸いであると述べられているのでしょうか。12節《いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人》。

 

「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」という表現が出てきました。《主の教え》とは具体的には旧約聖書の律法を指します。神さまの教えを口ずさみ、その言葉を絶えず思い巡らして生きる人は幸いである、とここでは言われています。主の教えを絶えず心に留める人は、神さまの道を外れて生きる人々と一緒に歩むことはないのだ、と。

 

 3節ではその人にもたらされている祝福が美しいイメージをもって表現されています。3節《その人は流れのほとりに植えられた木。/ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。/その人のすることはすべて、繁栄をもたらす》。

 

 《流れのほとり》とはおそらく灌漑用の水路がイメージされていると思われます。神さまの教えに従う人は、流れのほとりに根を下ろす木のように、ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。

 

 詩編1編が描くこの水辺の木のイメージは、私たちの心を安らかにさせます。心に何かみずみずしいものが喚起されるように感じます。詩編全体の始まりにふさわしい、非常に美しい表現です。

 

 

 

黙想という作業

 

 この詩編1編が語るように、聖書の言葉を私たちは昼も夜も口ずさんでいるかというと、なかなかそうではないでしょう。慌ただしさの中で、今日は一度も聖書の言葉を思い出さず、その教えに想いを巡らすこともなかった、という日も多々あるでしょう。

 

 一方で、そのような日々の中で、何か自分の心が渇いてくると言いますか、潤いがなくなってきているなあ、と感じることもあるのではないでしょうか。神さまの言葉から遠ざかっていると、心のどこかが何か渇いてくるように感じる。そのような中、教会で説教を聴いたり、自分で改めて聖書を開いてみたりして、その言葉に思い巡らす時間を持つと、不思議と心に潤いが戻って来る。そのような経験をされた方も多いのではないでしょうか。神さまの言葉をいつも心に留めていることは、流れのほとりに根を下ろしている状態であるという詩編1編の言葉を、実感をもって受け止めている方も多いことと思います。

 

 教会で用いる言葉で、「黙想」という言葉があります。聖書の言葉を読み、それに思いを巡らすことを意味する言葉です。

 

 黙想の仕方はさまざまにあります。たとえば日曜日に説教で語られた御言葉を一週間思い巡らすことも黙想です。朝起きた時、または夜寝る前、聖書を開いて目に留まった言葉を思いめぐらすことも黙想です。また教会には聖書日課というものがありますので、定められたその共通の御言葉について一日思い巡らすことも黙想です。

 

 黙想とは神さまの言葉に思いを巡らすことであり、また同時に、その言葉に導かれて自分の心を見つめてゆくことでもあります。先ほど、詩編は「あるがままの自分を神さまの前に差し出すこと」の大切さを私たちに教えてくれると申しました。あるがままの自分に気づいてゆくためには、自分の心を見つめる作業が欠かせません。

 

一方で、心というものは複雑に入り組んでおり、自分で自分の心の中のことが分からないということがあります。そのような私たちであるからこそ、聖書の教えが必要であるのでしょう。聖書の教えは混沌とした私たちの心を照らし出すともし火となり、私たちの旅路の指針となってくれるものであるからです。聖書の言葉に導かれながら、私たちは自分の心を見つめ直し、混沌とした内面が少しずつ整えられてゆきます。

 

私自身、自分自身のために聖書を開き、黙想する時間を改めて大切にしたいと思わされました。

 

 

 

対照的な「木(エーツ)」と「もみ殻(モーツ)」

 

 詩編1編は神さまの言葉を口ずさむことの恵みをみずみずしい表現で語っていますが、一方で、神さまの言葉から遠ざかることの悲惨さも強烈な表現で語っています。45節《神に逆らう者はそうではない。/彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。/神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない》。

 

 神さまの教えを心に留める者は「水辺の木」であるのに対し、神さまの教えに逆らう者は「風に吹き飛ばされるもみ殻」であるとここでは述べられています。ここで想定されているのは、収穫した麦を脱穀した際に生じる殻のことです。古代イスラエルでは、脱穀した際に生じるもみ殻を風で吹き飛ばして、麦の粒だけを残すという作業を行っていたそうです。神の教えに逆らう者は、風で吹き飛ばされるもみ殻であると表現されているのですね。まことにはかないと言いますか、無残な印象を私たちの心に残す表現です。

 

 ちなみに原文のヘブライ語では「木」は「エーツ」と言い、「もみ殻」は「モーツ」と言います。原文では「木」と「もみ殻」はごろ合わせになっているのですね。「エーツ」と「モーツ」、語感としては似ているこの二つの言葉ですが、詩を通して両者が喚起するイメージはまことに対照的なものです。

 

 古代イスラエルの詩と特徴として、光と影とを強調して表現するというものがあります。神に従って生きる人の幸いを表現した後、それとは対照的な、神に逆らって生きる人の悲惨さを表現する、という手法です。後者の悲惨さが表現されることを通して、前者の神に従って生きる人の幸いがより際立って伝わるという効果があります。

 

 詩編では、多くの詩がこのような手法を取り入れています。光と闇、善と悪、幸せと不幸せ、救いと滅びなどを対照的に語る手法です。少し難しい言葉ですが、「二元論的」な表現の仕方、ということができます。同様の表現はこれから詩編の中にたくさん出て来ることと思いますが、これら「二元論的」な記述をどう受け止めたらいいのか、ということは課題の一つとなるでしょう。読みようによっては、あまりに世界を単純化して捉えてしまっているのではないか、とも感じられるからです。人をそのように「善人」と「悪人」に分けてしまえるものなのか。周囲から「善人」とされる人の心の中にも悪はひそんでいるでしょうし、「悪人」とされる人の心の中にも善を行おうとする想いがあるでしょう。

 

 また、詩編1編の中には、いわゆる「因果応報的」な記述が見られます。神さまの教えに従って生きる人は祝福され、神さまに逆らって生きる人は滅びに至る、という世界観です。しかしこのような記述に対しても違和感を覚える方がいらっしゃることでしょう。このように世界を単純化して捉えることも、やはりできないのではないか、と。神の教えに懸命に従って生きている人が不条理な苦難に遭うこともあるからです。また、神さまの教えに逆らって生きているように見える人々が繁栄を誇っているということも現実としてあるでしょう。

 

 詩編というものは今から2500年ほども昔に書かれたものですので、現代を生きる私たちと価値観や考え方が異なるところがあるのは当然のことです。違和感を覚える箇所や、どのように受けとめたらよいのか戸惑う箇所もあることでしょう。しかし、そのようにとまどいを覚える箇所の前に立ち止まって思い巡らすことも、また黙想という作業の一つです。そのとまどいの中から、何か大切なメッセージが与えられることもあるかもしれません。

 

 

 

自分自身の在り様を映し出すものとして

 

 私自身がこれら言葉の前に立ち止まり、思わされたことは、「水辺の木」も「吹き飛ばされるもみ殻」も、自分自身の在り様を映し出しているものだ、ということです。「エーツ」も「モーツ」も私自身の姿である、ということですね。誰かと比較して、自分は「水辺の木」だ、あの人は「もみ殻」に違いない、などと考えるのではなく、自分自身のこととして両者を受けとめてみたいと思いました。

 

 聖書の御言葉に立ち還った時に取り戻される、あの心の潤い。確かにそれは流れのほとりに根を下ろしていることを実感できるものです。一方で、聖書の御言葉を忘れて生きているときの心の渇き。それは確かに、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、地に足がついていない状態であるでしょう。

 

 私たちは心を忙しくし、地に足がついていない状態になることが多々あります。そのような私たちであるからこそ、立ち止まり、地に足をつけ、さらに大地深くへ根を下ろしてゆくことが大切であるのでしょう。根を下ろしていった先には、尽きることのない水源があります。私たち一人ひとりに、確かにこの水源は与えられています。この水源は、私たち一人ひとりが、「かけがえのない」存在であることを教えています。

 

 

 

福音という水源 ~わたしの目に、あなたは価高く、貴い

 

 私たちが聴くべき教えとは、第一に、「あなたという存在がいかにかけがえなく、貴いものであるか」という神さまの言葉です。私たちはまず第一に、この言葉を聴き、この言葉を思い巡らすことが大切です。そしてこの教えを伝えて下さっている方が、イエス・キリストその方です。

 

主イエスは私たちにお語りになっています。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)

 

私たちは何にもまして、この主イエスの教えにこそ、心を開かねばなりません。この主の言葉は私たちにとって命の言葉となり、私たちの魂に潤いを与え、私たちに生きる力を与えてくださいます。私たちはこの水の流れに根を下ろし、毎日毎日ここから命の言葉を汲み取ることによって生きる力を得てゆくのです。

 

この水脈を、新約聖書は「福音」という言葉で呼んでいます。福音は目には見えませんが、この世界に確かに存在し、川のように、泉のように、絶えず私たちの渇きを癒そうとしてくださっています。この福音という水源に根を下ろしたとき、私たちは「あるがまま」の自分でいて「よい」のだということを知ります。否定的な感情も、嘆きも、弱さも足りなさもすべて含んだ、「あるがまま」の自分で生きて行って「よい」のだということを知ります。神さまにとって何より大切なこと、それはあなたというかけがえのない存在が「生きてくれていること」そのことにあるからです。

 

この福音に根を下ろして生きることの「幸い」を、これからご一緒に、より一層豊かに経験してゆけることを願っています。