2016年5月8日「新しい出エジプト」
2016年5月8日 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書2章13-23節
「新しい出エジプト」
心に暗い影を落とすエピソード
本日の聖書箇所は、幼子のイエス・キリストがヘロデ王の手から逃れ、エジプトに避難する場面です。
ある夜、父ヨセフの夢に天使が現れ、こう告げます。13節《起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている》。夢から覚めたヨセフは起き上がり、夜のうちに幼子とマリアを連れてエジプトへ避難を始めました。
ヘロデ王は、占星術の学者たちがから「ユダヤ人の王となるべき人物が生まれた」ことを聞き(2章2節)、その幼子の命を狙っていたのでした。幼子主イエスは無事にヘロデの手から逃れることができたわけですが、しかしここで悲劇が起こります。ヘロデによる無辜の幼児の虐殺です。ヘロデは王として生まれた幼子を何とかして消し去ろうと考え、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺した、とマタイによる福音書は記します。
16-18節《さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。/こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。/「ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」》。
イエス・キリストの誕生という喜ばしい出来事の直後に、このような悲惨な出来事が記されていることは、福音書を読む私たちにショックを与えるものです。イエス・キリストの誕生後に挿入されているこの幼児虐殺のエピソードは、私たちの心に暗い影を落としています。
本日の箇所をどう受け止めるか
聖書を読んでいると、「この箇所はどう受け止めたらよいのだろう」と戸惑ってしまう箇所がいろいろ出てきますね。このヘロデによる幼児虐殺の箇所もその一つであると思います。
このエピソードは、二歳以下の男の子が皆殺されてしまったけれど、救い主イエス・キリストは助かったので「めでたしめでたし」という話なのか。であるとしたら、読みようによってはずいぶんと理不尽な話のように思えます。殺されてしまった男の子たちには何の罪もないのに、その無辜の子どもたちの命が奪われるというのは、あまりに不条理なことのように思えます。
これまでのキリスト教の歴史においても、このエピソードをどう捉えるかには多くの議論がありました。伝統的な受け止め方に、この罪のない幼児たちの死を「殉教」として受け止める、というものがあります。無辜の幼児たちの死はキリストの苦難に与るものであるという受け止め方ですね。カトリック教会ではこの無辜の幼児たちは聖人として扱われており、12月28日がその祝祭日となっているそうです。
現代では、この幼児虐殺の出来事は史実として考えることは難しいとされています。「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を一人残らず殺した」ということが、マタイが記す通りに、文字通り行われたとは、実際には考えにくいことです。
そう知らされると、ホッとされる方もいらっしゃることでしょう。実際にそのような悲惨な出来事が起こったわけではないと聞いて、少し胸のつかえが取れた気持ちになる方もいらっしゃるでしょう。
一方で、そうなりますと、「福音書に書かれていることは本当のことではないのか」という別の疑問も出て来てしまいます。福音書は嘘を描いているのか、と疑問を感じてしまう方もいらっしゃるでしょう。
マタイによる福音書の著者マタイはもちろん、「嘘」を書いているのではありません。それは必ずしも歴史的な「事実」と合致しないかもしれませんが、マタイにとっての「真実」を記しているのだ、と受け止めることができます。マタイの信仰の目を通して捉えた、この世界の真実を記しているのです。
これは本日の聖書箇所だけに言えることではなく、聖書全体に言えることでもあります。聖書の中には、歴史的な事実と合致しない箇所も多々あります。しかしそれら箇所には、イスラエルの民の信仰の目を通して見いだされた、この世界の真実が刻印されているのだと受け止めることができるでしょう。それら事実を超えた真実こそが、ただ事実のみを記した歴史書よりも世界のまことの姿をよりリアリティーをもって私たちに伝えてくれる、ということがあります。
本日の幼児虐殺の物語が私たちの心に残り続けるのも、私たちの生きる世界の真実を何らかのかたちで伝えているからではないでしょうか。
激しく嘆き悲しむ声
マタイはこのエピソードの締めくくりに、旧約聖書の言葉を引用しています。預言者エレミヤの言葉です。マタイは幼児虐殺の出来事を、このエレミヤの預言の成就として捉えていることが分かります。18節《ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから》。
このエレミヤの預言は、紀元前6世紀に起こったユダ王国の滅亡とバビロンへの捕囚という歴史的な事実を念頭に置かれています。国が滅び、多くの人が異国へと連行されてしまったという悲劇の中で、このエレミヤの言葉は語られているのですね。
「ラケル」というのは創世記に登場する女性で、イスラエル民族の祖ヤコブと結婚した人物です(創世記29章16-30節)。いわば、「イスラエル民族の母」と呼ぶことができる人物です。ラケルが生きていたのは、もちろんバビロン捕囚よりはるかに昔の時代ですが、「母」という存在を象徴する人物として、ここでラケルの名が登場しているのでしょう。
バビロンとの戦争によって愛する子どもたちが死んでしまった、またはバビロンによって遠い異国へと強制的に連行されてしまった。エレミヤが聴き取っているのはこの母親たちの悲痛な叫びです。母たちは子どもたちのことで泣き、もはや誰からも慰めてもらおうとはしません。愛する子どもたちがもういないからです。わが子を失った悲しみの中で、母親たちは他者から慰められることを拒みます。
かつてエレミヤが聴き取ったこの声は、いまも、私たちが生きる世界のあちこちで湧きあがっています。愛する存在との別れに激しく嘆き悲しむ声が至るところで上がっています。その悲しみのただ中にいる人は、慰めの言葉を拒みます。どんな慰めの言葉も、その人の悲しみに届くことはありません。愛する人がもういないからです。
私たちは生きてゆく中で、何らかのかたちでこの悲しみを経験します。マタイが記す本日の幼児虐殺のエピソードは、これら私たちの生きる悲しみ、嘆きがまるで一つに凝縮されているような箇所であると受け止めることができるでしょう。
母マリアの叫び
福音書の中で、私たちの生きる悲しみ、嘆きが一つに凝縮されている箇所がもう一つあります。イエス・キリストの十字架の死と埋葬の場面です。
主イエスは無実であるのにも関わらず十字架刑に処せられ、悲惨な死を遂げられました。この十字架の死は、歴史的な事実です。無残に傷ついた主イエスのご遺体は石の墓に納められました。母マリアは、愛する息子の死と埋葬に立ち会いました。
埋葬が終わった後、マリアたちが墓の方を向いてぼう然と座っている姿を福音書は記しています(27章61節)。嘆き悲しみの中で、誰の慰めの言葉もマリアたちには届かなかったことでしょう。《ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから》。エレミヤが聴き取った叫びは、マリアの叫びとなりました。
もし唯一の慰めと希望があるのだとしたら、「愛する者が戻って来てくれる」こと以外にはありません。しかしそれは起こり得ないことをマリアたちは知っていました。だからマリアたちは、どんな慰めの言葉も拒み続けるのです。
隠された後半部の預言
マタイが引用しているエレミヤの預言には、続きがあります。マタイが引用しているのは半分だけであり、実際には次のような言葉が続きます。
《主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい。/あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。/息子たちは敵の国から帰って来る。/あなたの未来には希望がある、と主は言われる。/息子たちは自分の国に帰って来る》(エレミヤ書31章16-17節)。
エレミヤ書の預言には、このような後半部があったのですね。私たちに慰めと希望を与えてくれるこの後半部は、本日の聖書箇所においてはあえて隠されています。マタイは意図的に後半部は記さず、あえて前半部だけを記したのでしょう。
19節からは、幼子イエス・キリストがエジプトを出発し、ガリラヤのナザレに向かう場面が記されています。本日の聖書箇所ではいまだ「隠されている」後半部分の預言を実現するために、これから主イエスは、避難していたエジプトから旅立たれるのだということができるでしょう。
旧約聖書には「出エジプト」という大切な出来事が語られています。エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民を、神がモーセを通して解放して下さった出来事です。エジプトから脱出した幼子主イエスのお姿は、これから「新しい出エジプト」が起ころうとしていることを告げています。私たちの悲しみを喜びへと変えるための、「新しい出エジプト」です。マタイによる福音書がこれから記していくのは、その「新しい出エジプト」の出来事です。
「目から涙をぬぐいなさい」
マタイによる福音書を締めくくるのは、復活の朝の出来事です。十字架の死から三日目に、マリアたちはよみがえられた主イエスご自身と出会います。愛する方が、戻ってきた。自分たちのもとに戻ってきたのです。
マリアたちはしっかりと主イエスの足を抱きしめます。そうして、主イエスが確かに生きておられることを確かめました(マタイによる福音書28章8-10節)。マリアたちの悲しみは、喜びへと変わりました。この瞬間、エレミヤの預言の後半部が実現しました。《主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい。/あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。/息子たちは敵の国から帰って来る。/あなたの未来には希望がある、と主は言われる。/息子たちは自分の国に帰って来る》。
私たちが日々の生活の中で出会うほとんどは、エレミヤの預言の前半部だけであるかもしれません。私たちの内にあるのはラケルの嘆きであり、嘆き悲しむ声ばかりであるかもしれません。目の前に見えるのは暗闇だけであるように思えるかもしれません。
しかしマタイによる福音書は、その暗闇の向こうに、確かに、復活の光があることを伝えています。いまは見えなくとも、その光は暗闇の中に輝いています。いつも私たちと共にいてくださるその光は、「死は終わりではない」ことを伝えています。
《主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい》。この主の慰めの言葉にいま、私たちの心を開きたいと願います。