2016年6月12日「荒れ野の誘惑」

2016612日 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書4111

 

「荒れ野の誘惑」

 

 

 

荒れ野の誘惑

 

 お読みしました聖書箇所は、イエス・キリストが荒れ野で悪魔から誘惑を受ける場面です。悪魔の誘惑に対して、イエス・キリストがおっしゃった「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は大変有名ですね。

 

 本日の聖書箇所は悪魔が出てきたり、映画のように舞台が次々と変わったりして、現代を生きる私たちにはファンタジーのように感じられるかもしれません。しかし一方で、この場面において悪魔が提出している問いは私たちにとって極めて現実的なものです。

 

悪魔は主イエスに三つの提案をしました。

一つは、「神の子なら、石をパンに変えてみたらどうか」という提案。二つ目は「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りてみせたらどうか」という提案。三つ目は、「自分にひれ伏すなら、この世のあらゆる権力と繁栄とを与えよう」という提案です。

主イエスはこれら誘惑をすべて、聖書の御言葉をもって、斥けられました。

 

 

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 ~「人間の自由」という主題

 

 ロシアの小説家ドストエフスキーは、代表作『カラマーゾフの兄弟』の中でこの荒れ野の誘惑の箇所を取り上げています。ドストエフスキーは荒れ野の誘惑の場面に、「人間の自由」という主題を読み取っています。もしも私たちが悪魔の提案を受け入れるなら、そのとき私たちが悪魔の足元に差し出してしまうものが「自由」である、としているのですね。イエス・キリストは人間の自由を奪わないために、悪魔の提案を斥けられました。

 

 少し簡単に、『カラマーゾフの兄弟』のその場面をご紹介したいと思います。『カラマーゾフの兄弟』の中でも特に名高い「大審問官」という場面です。登場するのはイワンとアリョーシャという若い兄弟。兄のイワンは神の存在を否定している無神論者、弟のアリョーシャは熱心に神を信じる修道僧です。神の存在を否定する兄イワンは、修道僧である弟のアリョーシャに「大審問官」という自分の作った長編詩を物語ります。

 

 詩の舞台は15世紀のスペインのセヴィリア。カトリック教会による恐ろしい異端審問が日夜行われていた時代です。異端審問を取り仕切る一人の枢機卿の前に、ある日、イエス・キリスト御自身が現れます。詩の中で、年老いた異端審問官はその方がどなたであるかを知りつつ、イエス・キリストを逮捕し、尋問します。大審問官がイエス・キリストに投げかけた言葉は驚くべきことに、「今更、何をしに来た?」というものでした。イエス・キリストを前に、大審問官はイエス・キリストを非難する言葉を投げかけます。

 

 大審問官がその際に取り上げるのが、荒れ野の誘惑の場面です。

イエス・キリストは悪魔の「石をパンに変えてみろ」という提案に対して、『人はパンだけで生きるものではない。/神の口から出る一つひとつの言葉で生きる』/と書いてある》という聖書の言葉(申命記83節)をもって斥けました。大審問官は、イエス・キリストのその選択は間違っていると主張するのです。

 

石をパンに変えれば、人々は感謝にあふれるおとなしい羊のようにイエス・キリストについてきたであろう。《ところがおまえは、人間から自由を奪うことを望まずに、相手の申し出をしりぞけてしまった。なぜなら、もしもその服従がパンで買われたなら、何が自由というのかと考えたからだ。で、おまえは、人間はパンだけで生きているのではないと反論したわけだ》(亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟 2』光文社古典新訳文庫、267268頁)

 

 石をパンに変えるという奇跡を起こせば、人間はイエス・キリストにすぐにでも服従するであろう。けれどもイエス・キリストは「奇跡」によって人を信じさせることを拒否した。天上のパン、すなわち、本人の「自由な信仰」「自由な良心」によって生きる道を切り開こうとされたのですね。

 

 それに対し、大審問官は異を唱えています。イエス・キリストは天上のパンを与えようとしたが、人間が実際に求めているのは地上のパンであるのだ、と。それがほとんど大多数の人間の真実なのだ、と大審問官は語ります。

 

確かに一握りの人は地上のパンではなく天上のパンを求めて生きることができるかもしれない。しかしそれは本当に一握りの人である。それら人々の以外の、圧倒的多数の人々は違う。圧倒的多数の弱い人びとは、地上のパンが確保されないと平安でいられない。まず第一に地上のパンが確保されることをこそ、圧倒的多数の人々は求めている。それが現実であり、人間の本性である。あなたは、これら圧倒的多数の人々の存在をどう考えているのか。自分たち教会はこの1500年間、これら憐れな迷える羊たちのために地上のパンを与え続ける役割を担ってきたのだ、と大審問官は告白します。

 

《彼らが自由であるあいだは、どんな科学もパンをもたらしてくれず、結局のところ、自分の自由をわれわれの足もとに差しだし、こう言うことになる、『いっそ奴隷にしてくれたほうがいい、でも、わたしたちを食べさせてください』》(同、269頁)

 

 

 

自由であることの重さ

 

『カラマーゾフの兄弟』のこの個所を読むと、「人間の自由」ということについてさまざまに考えさせられます。

 

 イエス・キリストは私たち人間の自由のために、悪魔の誘惑を斥けてくださったわけですが、と同時に、その自由が人間にとって重荷ともなるという現実があります。大審問官の言葉の中に、《なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ!》というものもあります(同、267頁)

 

 考えてみれば、確かに、私たちにとって、「自由である」というのは大変なことです。一つひとつ、自分で考え、自分で選択し、決断してゆかねばならないからです。私たちが自由であるためには、大変なエネルギー、労力、また勇気が必要とされるでしょう。

 

そうではなく、誰かが代わりに考えてくれたら、誰かが決めてくれたら、楽であるのに、と私たちはついつい考えたくなってしまいます。自分を誰かに預けて生きることへの強い欲求というのも、私たちの内には存在しているものです。

 

私たちは自由でありたいと願いながら、同時に、その自由を自ら放棄したいと願っている。ドストエフスキーはその私たちの現実を描いています。

 

私たちにとって、何か大きなものに自分を委ねて生きるのは、ある意味、楽なことです。それは組織であったり、国であったり、また思想や教義であったりします。またそして、宗教であったりします。自分の頭で考えなくていい、自分で選択しなくていい、自分で決断しなくていい。必要なものは、その「大きなもの」が与えてくれる。必要なことは、その「大きなもの」が指示してくれる。自分はそれに従順に従っていればよい。このような生き方は私たちにとってある意味楽で、快適なものですが、その際私たちが放棄してしまっているのが「自由」というものなのでしょう。

 

 

 

「出エジプト」

 

「自由」は、旧約聖書から新約聖書に至るまで、聖書全体を貫いている大切なテーマです。

 

旧約聖書には最も重要な出来事の一つとして、「出エジプト」という出来事が記されています。英語では「エクソダス」ですね。エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民を、主がモーセを通して解放して下さった出来事です。神による、奴隷状態からの解放。つまり、「出エジプト」においても、「自由」という主題が関わっているということが分かります。

 

 エジプトで奴隷状態になっていたイスラエルの民の叫びを聞き、神はモーセを通して彼らを救い出します。そうして荒れ野の旅が始まります。荒れ野の旅は40年続くことになります。

 

 その荒れ野の旅において印象的なのは、イスラエルの民がだんだんと不平不満を言いだし始めることです。水や食べ物が不足して、激しい空腹に直面する中で、人々はモーセに不満を訴え始めます。

 

《荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。/イスラエルの人々は彼らに言った。/「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」》(出エジプト記1623節)

 

 イスラエルの民は出エジプトによって「自由」を得たわけですが、『出エジプト記』では、その自由を放棄してまでも地上のパンを確保したいという民の心理が描かれています。エジプトでの奴隷状態から解放されたのに、自ら進んで奴隷状態に後戻りしようとするイスラエルの民。『出エジプト記』においても、先ほどの「大審問官」と同じ問いが出て来ているのですね。ほとんど大多数の人にとって、自由というのは実は重荷でしかないのではないか、という問題です。

 

 

 

自由と人間の尊厳

 

 荒れ野の誘惑におけるサタンの第二、第三の問いもやはりこの問題と関わっています。「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りてみせたらどうか」という悪魔の第二の提案。神殿から飛び降りると、天使たちが支えるであろう。この驚くべき「奇跡」を見せつければ、人々はあなたに服従するであろうと悪魔は迫ります。自由というのは人間にとって実は重荷なのではないか、という点を悪魔は突いて来るのですね。

 

「自分にひれ伏すなら、この世のあらゆる権力と繁栄とを与えよう」という悪魔の第三の提案も同様です。人々が求めているのは、自分の自由を足もとにささげることのできる権威である、という点を悪魔は鋭く突いて来ています。人間はむしろ、自由を自ら放棄したがっているのではないか。何か「大きなもの」に自分の自由をささげて、楽になりたいと願っているのではないか。あなたはそのための「救世主」になるべきだ、と悪魔はイエス・キリストに迫っています。

 

 それら誘惑を、主イエスははっきりと斥けられました。主イエスは奇跡的な出来事や圧倒的な権威によって人々を服従させることを拒否されました。そうではなく、個々人の自由な信仰によって、自由な良心によって、主の道を歩む人間が誕生してゆくことを願ってくださったのです。

 

 主イエスはご生涯の最期に十字架の道を歩まれました。その十字架の道行きにおいて、主イエスはあらゆる奇跡的な出来事、あらゆる権威を拒否されました。十字架にかけられた主を取り囲む人びとは、「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と嘲笑しました(マタイによる福音書2742節)。これは、荒れ野の悪魔の誘惑とまったく同じ言葉です。もし十字架から降りるという奇跡を起こせば、人々はあなたに服従するであろう。しかし主イエスはそうすることを拒まれました。主イエスが願っておられたのは、一人ひとりが自由な決断によって神の道を歩んでゆくことであったからです。

自由は、私たち人間の尊厳と関わっている事柄です。主イエスは私たち人間の尊厳を最期の最期まで守ろうしてくださいました。

 

 

 

「新しい出エジプト」

 

 そのことを通して、主イエスは、私たちに尊厳の光を与えるための「新しい出エジプト」を成し遂げてくださいました。私たちが隷属状態から解放され、自由に、人間としての尊厳をもって生きてゆくことができるための「新しい出エジプト」です。

 

 私たちはいまも、その旅の途上にいるのではないでしょうか。その旅はまだ終わっていません。私たちはイスラエルの民のように、日々不平不満をもらしてしまう者です。気が付くと、自ら自由を放棄しようとしてしまう者です。しかし、主イエスはその私たちの内に、尊厳の光をともしてくださいました。決して消え去ることのない光をともしてくださいました。私たちが自らその光を自ら拒もうとしても、その光は自らを拒むことはできません。

 

 主イエスが徹底して守ろうとして下さった人間の尊厳を、私たちもまた第一に守ってゆくことができますよう願います。私たち一人ひとりが、自由に、尊厳をもって、主の道を歩んでゆくことができますように。「新しい出エジプト」はこれから始まってゆくのだと信じます。