2016年6月26日「主は避けどころ」

 

 2016626日 主日礼拝

聖書箇所:詩編2

「主は避けどころ」

 

 

 

主は避けどころ

 

花巻教会では今年度から、月に一度、旧約聖書から説教をすることになりました。本日はご一緒に、旧約聖書の詩編の2編を読んでみたいと思います。

 

詩編2編《なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。/なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。/「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。/

天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り/憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。/「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」/

主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。/「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。/求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。/お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」/

すべての王よ、今や目覚めよ。/地を治める者よ、諭しを受けよ。/畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。/子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。/

いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて》。

 

 本日の詩編2編は、冒頭の1編と共に、詩編のプロローグとなっている詩です。最後に、《いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて》という言葉がありました。詩編の1編の冒頭も、《いかに幸いなことか》という言葉で始まっていました。詩編のプロローグは「いかに幸いなことか」という言葉をもって始まり、同じく「いかに幸いなことか」という言葉をもって締めくくられていることが分かります。悲しみでもなく、苦しみでもなく、「幸い」という言葉で詩編が始まってゆくことが印象的ですね。

 

 では、どのような人が幸いである、と語られているでしょうか。

 

 先月ご一緒にお読みした詩編の1編では、神さまの言葉をしっかりと心にとどめ、その言葉を昼も夜も口ずさんで生きる人の幸いが謳われていました。

 本日の2編では、《主を避けどころとする人》の幸いが謳われています。《いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて》――。

 

《避けどころ》、という独特な言葉が出てきました。この言葉(の動詞)は原語のヘブライ語ではもともとは「悪天候を避ける」とか「敵から逃れる」という意味で使われる言葉であるそうです(J・L・メイズ『現代聖書注解 詩編』、左近豊訳、日本基督教団出版局、2000年)。困難に遭遇したとき、逃げ込むことができる場所、そうして自分を守ってくれる場所というイメージですね。

 

この《避けどころ》という言葉は、詩編全体に繰り返し出てくる言葉です。今後お読みしてゆく他の詩編の中にも《避けどころ》という表現がたくさん出て参ります。詩編の中で、特に大切な言葉の一つであるということができるでしょう。詩編では、神さまご自身が、私たちの《避けどころ》であることが謳われています。

 

皆さんは《避けどころ》と聞いて、どのような場所やイメージを思い浮かべられるでしょうか。詩編の中でもさまざまなイメージをもって表現されています。たとえば、「岩」。大きな、砦のような岩ですね。それが《避けどころ》の一つのイメージであったようです(詩編183節)。他にも、「翼の陰」のイメージをもって表現されることもあります(詩編368節)。親鳥が翼で雛を覆うように、神さまが自分たちを覆い、守って下さるという想いが込められている表現なのでしょう。「岩」が男性的・父親的なイメージであるとすると、「翼の陰」は女性的・母親的なイメージですね。詩編ではこのようにさまざまな豊かなイメージをもって主が《避けどころ》であることが表現されています。

 

 

 

《避けどころ》は「避難所」

 

新生釜石教会の柳谷雄介先生が、この《避けどころ》という言葉についてお話されたことが心に残っています。雄介先生は震災後の大変な状況の中で、詩編のこの《避けどころ》という言葉を読んで、それを「避難所」という言葉をもって受け止められたそうです。《避けどころ》とは、「避難所」のことなんだ、と実感をもって理解することができたという雄介先生の言葉を、私は時折想い起こします。震災の大変な状況の中で、避難所がいかに大切な場所であったか。自分たちの命を守ってくれる場所であったか。柳谷雄介先生のおっしゃるように、《避けどころ》を「避難所」と言い変えてみると、皆さまもよりこの言葉を実感をもって受け止めることができるのではないでしょうか。

 

私自身は東日本大震災の際、避難するという経験をしたわけではありませんが、雄介先生の言葉を通して、詩編の《避けどころ》という言葉が、自分にとってより具体的な言葉、また重みのある言葉になったような気がいたします。

 

 

 

教会が一人ひとりの《避けどころ》となるように

 

神さまは私たちの《避けどころ》であること、「避難所」であること。私たち教会はそのことを伝える役割を担っています。また私たち教会も、集う一人ひとりにとって《避けどころ》になることができるよう、努力することが求められています。

 

花巻教会では、今年度の祈りの一つとして、「教会が一人ひとりの《避けどころ》となりますように」という言葉を掲げています。集う一人ひとりにとって、教会が「安全」な場所になるように、魂の《避けどころ》となるように、共に祈り求めてゆきたいと願っています

 

私たちの生きる社会は、残念ながら、一人ひとりにとって必ずしも安全な場所ではない、という現状があります。「ここは安全だ」「安心だ」と思って集うことができるというのは、むしろ私たちにとって数少ないことであるかもしれません。むしろ私たちが出会う多くのものは、敵意であったり、無関心であったりします。

 

詩編を読んでいて思わされるのは、イスラエルの人々もまたいかに数多くの敵意に囲まれていたか、ということです。自分たちが敵意や無関心に囲まれていると、絶えず感じていたか、ということです。今日の詩編2編にも、イスラエルが敵対する国々に囲まれているという状況が描かれています。

 

危険な状況が絶えず自分たちを取り巻いているというのは、本当に辛いことです。心からは平安が失われ、代わりに恐れが心を支配してきます。また心から信頼が失われ、何事にも疑心暗鬼になってしまいます。詩編を読んでいると、古代イスラエルの人々は日々そのような辛い状況の中に追い込まれていたということが伝わってきます。個人の単位で、また国の単位で。孤立するような状況に追いやられていたのです。

 

「主は避けどころ」という賛美の言葉は、そのような困難な状況の中で謳われている言葉でもあったのですね。穏やかな、平安な状況の中で、謳われているのではなかった。敵意が自分たちを取り囲む中で、それでも自分たちは主に守られているのだと信仰を告白している言葉が、「主は避けどころ」という言葉です。

 

 

 

オーランド銃乱射事件追悼祈祷会

 

私たちが生きている社会は必ずしも私たちにとって安全ではありません。しかしだからこそ、私たちは安全な場所を作ってゆこうと意識的に取り組んでゆくことが必要でしょう。私たち教会は率先して、ここが安全な場所となることができるよう、取り組んでゆくことが求められています。

 

私たち教会にとって大切な課題の一つとして、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字をとったもので、性的少数者を意味する言葉)の人々にとって、教会が安全な場所になるように祈り求めるということがあります。私たちの社会において、また教会の中においても、LGBTに対しての理解は十分ではありません。理解の不十分さから来る偏見や差別が多分になります。私自身、学びをしている最中です。私たちは学び続けることによって、自らの内にある偏見や差別的な態度をなくしてゆくことが求められています。私たちが無知で無関心であり続ける限り、当事者の人々にとってその状況というのは、「敵意」に囲まれている状況に等しいものであり続けるでしょう。私たち教会はまず率先して、教会がLGBTの人々にとって安全な場所となるよう、《避けどころ》となってゆくことができるよう、祈ってゆかねばなりません。

 

 先週の日曜日の夕方に、612日にアメリカのオーランドで起きた銃乱射事件の追悼祈祷会が土沢教会で行われました。皆さまもこの度の銃乱射事件に関して大きなショックを受けられていることと思います。祈祷会の中では、犠牲になった方全員のお名前とプロフィールが読み上げられ、追悼の祈りが捧げられました。

 

この度の事件では同性愛者の方々が集うお店が標的になりました。このことが、世界中の同性愛者の方々に深いショックを与えているということを、私は祈祷会を通して改めて知らされました。この度の事件は自分にも起こり得たかもしれない、殺されたのは「私だったかもしれない」。多くの同性愛者の方々がそのように感じ、深いショックを受け、悲しみや恐れの中にいるのだということを知りました。大きな悲しみと恐れの中を過ごしている人々は、私たちの身近なところにもきっとおられることでしょう。

 

 このような状況の中で、いま私たちははっきりと声を上げ続けてゆく必要があります。差別は時に人を死に追いやることさえあります。かけがえのない命が守られるため、私たちはあらゆる差別の廃絶を目指して、共に取り組んでゆかねばなりません。花巻教会では今年度の祈祷課題の一つとして、「あらゆる差別の廃絶を目指して」という祈りも掲げています。LGBTの方々が、またすべての人が、恐れや悲しみを感じながら生きてゆく必要のない社会を、命が脅かされることのない社会を、私たちは身近なところから共に創ってゆかねばなりません。

 

 

 

かけがえのないあなたが、決して失われることのないように

 

 本日は神さまが私たちにとって《避けどころ》であるということについてご一緒に考えて参りました。

 

 なぜ神さまが私たちの《避けどころ》、「避難所」であるのか。それは、神さまが私たち一人ひとりをかけがえのない存在として愛して下さっているからです。私たちはこの愛の中で、神さまが自分という存在を「よい」ものとして祝福して下さっていること、あるがままに愛して下さっていることを知ります。そこには一切の偏見や差別は存在していません。あらゆる差別というのは、私たち自身が作りだしてしまっているものです。神さまご自身は私たち一人ひとりを、あるがままに、「よい」ものとして祝福して下さっています。この視点に立つとき、差別は決して容認できるものではないということを私たちは知らされます。

 

 この福音を伝えて下さっている方が、イエス・キリストその方です。主イエスは私たち一人ひとりに呼びかけておられます。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)。この言葉こそ、真実の声です。神さまの目から見ると、一人ひとりが、かけがえなく、貴い存在です。だからこそ、決して失われはならない。かけがえのないあなたという存在は、決して失われてはならない。その神さまの切なる想いの中で遣われたのが、御子イエス・キリストその方です。かけがえのないあなたという存在が決して失われることのないようにと、主イエスは私たちのもとに来てくださいました。そしていまも共にいてくださっています。

 

 私たちはこの場所において重荷を降ろし、魂の癒しを得ます。そしてまた私たちはこの場所において、再び立ち上がってゆく力が与えられてゆきます。イエス・キリストの福音は私たちの「避難所」であり、また同時に、共に困難な現実に向かい合ってゆくための「拠点」です。

 

 どうぞここに集ったお一人おひとりの傷が癒されてゆきますように。そしてこの愛の中で、共に再び立ち上がってゆく力が与えられてゆきますようにと願います。