2016年6月5日「あなたはわたしの愛する子」

 201665日 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書31317

 

「あなたはわたしの愛する子」

 

 

 

イエス・キリストの受洗

 

本日の聖書箇所は、イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる場面です。イエス・キリストは30歳になった頃、ガリラヤの村を出て、ヨハネから洗礼を受けられました。

 

洗礼者ヨハネは当時、ヨルダン川で「洗礼(バプテスマ)」を授ける活動をしていた人です。ヨハネが行っていた洗礼は、川の中に全身を沈めるというやり方でした。

 

ここでヨハネが行っていた洗礼には、まだ「クリスチャンになる」という意味合いはありません。ヨハネが行っていた洗礼には、罪を「悔い改める」という意味が込められていました。洗礼者ヨハネが行っていたこの悔改めの儀式は、多くの人々の心をひきつけていたようです。イスラエルの各地から、ヨハネのもとに人々が集まって来ていました。主イエスもその一人として、ヨハネのもとを訪ねられた、ということになります。

 

なぜ主イエスがヨハネから悔い改めの洗礼を受ける必要があったのか、と疑問に思われる方もおられるかもしれません。主イエスがどのようなことを考えのもと洗礼者ヨハネのもとを訪ね、彼から洗礼を受けられたかの理由については、はっきりと福音書には記されていません。

 

 マタイによる福音書は、主イエスの求めに対し、洗礼者ヨハネ自身も戸惑った、という風に記しています。

 

3章の11節において、ヨハネは「自分より優れた方が後から来られる」と予告していました。自分はその方のために道備えをしているのである、と。ヨハネが待ち望んでいたその方が、ついに自分の前に現れたのです。その優れた方が、しかし、悔い改めの洗礼を受けたい、とおっしゃった。

 

ヨハネは主イエスを思いとどまらせようとして、言います。《わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか14節)。しかし、主イエスは《今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです15節)とお答えになりました。主イエスはヨハネの悔い改めの洗礼に心から共感していらっしゃったことが伺えます。ヨハネの内にまことの「正しさ」を見出しておられたのです。

 

 

 

洗礼者ヨハネの批判 ~「人間的な感覚の麻痺」に対して

 

 改めて、洗礼者ヨハネの活動について振り返ってみたいと思います。ヨハネはどのような事柄に対して、人々に悔い改めを迫っていたのでしょうか。

 

それは、イスラエルの人々の「人間的な感覚の麻痺」に対してでした。当時のイスラエルの社会は、そのような状況にあったようです。

 

たとえばそれは、都エルサレムの宗教的な指導者たちの姿に象徴されています。彼らはエルサレム神殿にて、毎日熱心に礼拝をささげていました。しかし一方で、神殿の外で困窮している人々の助けを求める声に耳を傾けることはありませんでした。むしろ、それら人々から搾取している現状がありました。宗教的な指導者たちは確かに宗教的な感覚においては優れていたかもしれません。しかし人間的な感覚は麻痺してしまっている状態でした。

 

「神に栄光を帰す」ことを第一とする姿勢は、尊いものです。けれどもこの姿勢が陥ってしまいがちな落とし穴は、神さまのことを第一とするあまり、目の前にいる人々のことが見えにくくなってしまう、ということです。神さまのことばかり見ようとして、目の前の困難な状態にある人々のことが見えにくくなってしまうのですね。

 

また、宗教的な指導者たちは自分たちイスラエル民族こそが神に選ばれた民族であると自負していました。いわゆる「選民思想」を持っていたわけですが、自分たちの枠組みの外にいる人々を、人格をもった存在として認めないという状況がありました。

 

それら社会に蔓延している「人間的な感覚の麻痺」に対して、ヨハネは怒っていました。それら「人間的な感覚の麻痺」に対して、ヨハネは悔い改めを迫っていました。神殿の中のことにばかり熱心になるのではなく、神殿の外にも目を注ぐべきである、と。そこでどれほど人々の人格がないがしろにされているか。

 

日常の生活において、一人ひとりが尊重される社会の実現をヨハネは願っていました。そのためには、とりわけ、弱い立場にある人々、困窮する人々に目を注ぐべきことが大切になります。同胞に対してだけではなく、血縁を超えて、民族をも超えて互いを尊重し合う姿勢が大切になります。これが、ヨハネの求めた「正しさ」でした。

 

私たちが互いを尊重しようと願って歩むところに、神は共におられるというのがヨハネの考え方でした。ヨハネは、「人間が人間らしく生きてゆくことができる社会」を願っていたのです。私たちが互いを大切にすることが、即ち、「神さまに栄光を帰す」ことにつながっているとヨハネは考えていました。

 

 

 

旧約の預言者たちの精神

 

このヨハネの精神というのは、旧約聖書の預言者たちから受け継いでいるものです。イザヤなど旧約聖書の預言者たちは、イスラエルの民の「人間的な感覚の麻痺」に対して、厳しい批判の言葉を投げかけました。預言者たちは、神さまの方を向くだけではなく、もっと人間に向き合い、人々の声を聴くべきことを語り続けました。

 

イザヤ書5868節《わたしが選ぶ断食とはこれではないか。/悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。/更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。/そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。/あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る》。

 

ヨハネはこの預言者の精神を受け継いでいます。そして主イエスもまた、ヨハネからこの精神を受け継がれました。そのことを象徴しているのが、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を授かった出来事です。主イエスは旧約の預言者たち、洗礼者ヨハネの精神を受け継がれ、そしてさらにそれを完成へと導かれました。

 

 

 

聖霊による洗礼 ~これはわたしの愛する子

 

 主イエスは新しく伝えて下さったこと、それは、一人ひとりの人間が、いかに大切でかけがえのないものであるか、ということです。私たち一人ひとりは、神さまの目から見て、かけがえなく貴いのだということ。この真理に根ざしてこそ、私たちは「人間的な感覚の麻痺」という現状に向かい合うことができます。主イエスが新しく伝えて下さっている一人ひとりの「かけがえのなさ」を、本日は「尊厳」という言葉で呼びたいと思います。

 

改めて、主イエスの受洗の場面に戻ります。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、水の中から上がられると、新しい事態が起こりました。マタイによる福音書31617節《イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。/そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた》。

 

主イエスが水の中から上がられると、天が開き、神の霊が鳩のように降って来たと福音書は記します。神の霊とはすなわち聖霊のことです。

 

そのとき、《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という神さまご自身の声が天地に響き渡ります。主イエスが神に愛される独り子、救い主であるということが公になった瞬間です。

 

この神さまの声は、主イエスお一人にのみ語られたものですが、その後、主イエスがなさってくださったことは、この神さまの声を、私たち一人ひとりに語られている声とすることでした。《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という声が、一人ひとりに語られているものとするため、主イエスはその活動を始められてゆきます。一人ひとりが神さまから愛された存在であること、神さまの目から見てかけがえのない、尊厳をもった存在であることを伝えるため、主イエスは全精力を注がれました。病の床にある人を自ら訪ね、その手を握り、周囲から疎外されている人に寄り添われました。また人間の尊厳がないがしろにされている現状に対しはっきりと「否」とおっしゃいました。そうして一人ひとりの存在の内に、神さまからの尊厳の光をともしてゆかれました。

 

私たち一人ひとりを「神に愛された、かけがえのない個人」として新しく生まれ変わらせてくださる主イエスのお働きを、ヨハネは「聖霊による洗礼」と呼びました。ヨハネは「悔い改めの洗礼」を授けましたが、主イエスは「聖霊による洗礼」を授けて下さいます。神さまからの尊厳が与えられた、かけがえのない「私」として新しく生きてゆく力を、主イエスは一人ひとりに与えてくださろうとしています。

 

 

 

三上智恵監督『戦場ぬ止み』

 

 ヨハネが批判した「人間的な感覚の麻痺」というのは、いまの私たちの社会にも当てはまるものでありましょう。私たちの生きる社会もまた、人間が人間らしく生きるのが難しい社会となっています。

 

昨日は盛岡で、沖縄の現在を描いた三上智恵監督『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』というドキュメンタリー映画の上映会をいたしました。映像を観ながら、沖縄の人々に対してなされている理不尽な政策の根本に、「人間的な感覚の麻痺」があることを思わされました。沖縄の人々は「人間的な感覚が麻痺」した政策によって苦しめられ続けています。沖縄の人々は、人間が人間らしく生きてゆくという、当たり前のことを願っているだけであるのに、それがないがしろにされ続けている状況があることを思い知らされました。

 

「人間的な感覚の麻痺」は一部の政治家の人々においてだけではなく、他ならぬ自分自身の内にもあるのだ、ということも思わせられています。私たちは、気が付くとこの感覚が鈍ってしまっているということが多々起こることでしょう。自分自身はいつの間にか、沖縄の人々に対して、また、いま苦しみの中にある人々の声に耳を閉ざし、人間的な感覚を麻痺させてしまっているのではないかと思わされています。であるからこそ私たちは、絶えず洗礼者ヨハネの呼び声に耳を傾けることが求められているように思います。洗礼者ヨハネの呼び声とは、私たちの内なる「良心の声」ということもできるでしょう。私たちは自分の内の良心の声に絶えず耳を傾け、常日頃の自分のあり方を悔い改め続けることが求められているように思います。そうして、私たちがより人間らしく生きてゆくことができるよう共に願い求めてゆくことが求められています。

 

 

 

神に栄光、人間に尊厳

 

 その私たちの営みの土台となるのが、イエス・キリストが伝えて下さっている福音です。主イエスは私たち一人ひとりが、神に愛された、かけがえのない存在であることを伝えて下さっています。神さまからの尊厳が与えられている存在であることを伝えて下さっています。この「神さまご自身の声」――福音を土台にして、私たちは「人間的な感覚の麻痺」という課題に向かい合ってゆくことができます。頑なになっていた心を、再びやわらかなものとしてゆくことができるでしょう。

 

「神に栄光を帰し、人間に尊厳を帰する」道を、共に祈り求めてゆきたいと願います。