2016年7月3日「主イエスの弟子となる」

 

 201673日 創立記念礼拝

 聖書箇所:マタイによる福音書41825

 

「主イエスの弟子となる」

 

 

 

マタイによる福音書41825節《イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。/イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。/二人はすぐに網を捨てて従った。/そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、彼らをお呼びになった。/この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。/

  イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。/そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。/こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群集が来てイエスに従った》。

 

 

 

創立記念礼拝

 

本日はご一緒に、花巻教会の創立記念礼拝をささげています。これまでの歩みが神さまと多くの人々によって支えられましたことを感謝するとともに、これからの歩みのために共に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

1908(明治41年)721日を花巻教会は創立の日にしています。この日、内丸教会で開かれたバプテスト東北部会において、花巻教会は正式に伝道所として認められました。それから信仰のともしびがともされ続けて今年で108年になります。

 

 花巻教会はこれまでに、何冊かの記念誌を発行しています。創立70周年の際には『花巻教会七十年史』を、創立80周年の際には『創立八十周年記念誌――一粒の麦から――』を、そして創立100周年記念として『ともしび 創立百周年記念文集』を発行しています。これら信仰の先輩方が残して下さった文章を参考にしながら、本日は創立記念礼拝ということで、花巻教会の創立の歴史をご一緒に振り返ってみたいと思います。

 

 

 

阿部治三郎先生と花巻教会の創立

 

花巻教会が創立される以前にも、花巻の地にはキリスト教は伝えられていました。1880年ころから北部バプテストのジョーンズ宣教師をはじめ、さまざまな教派の宣教師たちによる伝道がなされ、集会も開かれていたようです。ただ、なかなか継続して集会が開かれるまでには至っていなかったようです。

 

そのような中、1904年に、後に花巻教会の母体となる第一回目の集会が開かれました。現在の双葉町にて開かれた、出席者は4名だけの小さな集会です。この集会は、以降場所をいくつか変えながらも、継続して開かれるようになりました。途切れることなく続いていったこの集会が、私たち花巻教会へとつながってゆくことになります。

 

この集会を主催していたのが、花巻教会の初代の牧師となる阿部治三郎先生です。阿部先生は1904年にアキスリング宣教師よりバプテスマを受けられました。それからまもなくしてアキスリング宣教師ご夫妻と阿部先生たちによって開かれたのが、いま述べました第一回目の集会です。

 

1907年には、この集会は一つの場所に定めて開かれるようになります。いまの私たちの会堂の裏側あたりにあった宮沢家の貸家が、その集会所になっていたそうです。

 

阿部先生は受洗後しばらくアキスリング宣教師の助手のような役割をつとめておられましたが、ご自分も伝道者となって花巻の人々に福音を伝えたいという願いのもと、その後横浜バプテスト神学校(現関東学院大学)へ進学されました。そうして4年の学びの後、再び花巻に戻って来られ、花巻教会が伝道所として認められた1908721日に、伝道所の牧師(当初は仮主任者の位置づけ。翌年に正式に承認)として正式に着任されました。阿部先生はそれから1929年までの21年間、花巻教会を牧会されました。

 

花巻教会の創立の頃のことを振り返ってみますと、阿部治三郎先生の存在と切り離し難く結びついていることが分かります。阿部先生がキリスト教と出会い、洗礼を受け牧師になる歩みとまるで並行するように、花巻教会も誕生し、成長をしていっています。

 

 

 

阿部先生とキリスト教との出会い

 

 記念誌の中に、阿部先生がキリスト教と出会った際のエピソードが綴られています。『いづみ 創立70周年記念号』に収められた長原一郎さんの文章を引用してみたいと思います。

 

《花巻教会は阿部治三郎先生によって開拓された。先生は元営林署員であられた。たまたま遠野に出張され村千代旅館に投宿された折、後の佐藤卯エ門牧師が当時神学生で夏期伝道に遠野に来られ、同じ旅館の一宿で伝道説教をしていられた。隣室の阿部氏はこの青二才何を語るかと始めは軽蔑を以て聞いた。然し次第にこの神学生によってキリストの福音なるものへ魂を奪われていった。そして遂に信仰の決断しやがて伝道者たるべく一切を捨てゝ献身された。当時阿部氏の月給は二十幾円かだったのにその職を退き、アキスリング師のポケットマネー五円に甘んじ、伝道者の使命に立たれたのである。厳寒の単衣の重ね衣は有名な話である。先生の許に集まったのは、中村豊吉、中村陸郎、戸田政吉、菅原、永田、島、亀田屋、川村、伊藤(重)、その他の信仰に燃えた青年達であった》。

 

 阿部先生は元々は営林署の職員であったそうですが、遠野に出張中、たまたま隣りの部屋に神学生が宿泊しており、その神学生から説教を聴いて衝撃を受けたのがその出会いであったと綴られています。初めは《この青二才何を語るか》と軽蔑をもって聞いていたのに、次第にその内容に魂を奪われていった、そして洗礼を受け、自分も伝道者となってしまった。印象的なエピソードですね。キリスト教との出会いというのは人それぞれですが、中には阿部先生のように劇的な出会い方をし、急激に人生が変化する方もいらっしゃるのですね。

 

 阿部先生が花巻教会の牧師に着任した頃は地域の人々からキリスト教は認知されておらず、攻撃を受けることもあったそうです。

 

《その当時はキリスト教に対する理解も少く、路傍伝道の時などは「ヤソハリツケ」「ヤソハリツケ」などとはやしたてられたり小石を投げられたり、時としては他宗教の者と思われる暴漢に襲われたりした事もあったと聞いている。

 熱血漢であった阿部先生はそのような困難にも負けず熱心に伝道して遂に中村豊吉兄、菅原力三郎兄、戸田政吉兄その他初代の兄姉等が入信して初代の教会の基礎が築かれた》(奥山清さんの文章より。『創立八十周年記念誌――一粒の麦から――』所収)。

 

 

 

信仰の先達たち ~宮沢賢治、斎藤宗次郎とのつながり

 

 大変なご苦労の中で、しかし情熱的に伝道をしていた阿部先生のもとに、花巻の若者が集まってきました。花巻教会の基礎を築いてくださった方々です。

 

 先ほどの長原一郎さんの文章にもお名前が出てきた島栄蔵さんと中村陸郎さんは、お住まいが宮沢賢治さんの生家のすぐ近くで、賢治さんと親しく交流していたそうです。賢治さんは島さんたちから話を聞いたり本を借りたりし、キリスト教について熱心に学ばれていたそうです。

 

皆さんもご存じのように、昨年、『宮沢賢治とクリスチャン 花巻篇』(雜賀編集工房、2015年)という本が出版されました。本書には花巻教会員であった信仰の先達もたくさん登場し、私自身大変参考にさせていただいています。著者の雜賀信行さんは出版前に花巻に取材に来られ、花巻教会にも取材に来てくださいました。

 

この本によりますと、島栄蔵さんに連れられて賢治さんは花巻教会に来たことが少なくとも二度あったそうです(同書、101頁)。また多田ヤスさんは、賢治さんの妹のトシさんと交流がありました。トシさんももしかしたらヤスさんに連れられて花巻教会にいらっしゃったことがあったかもしれません。

 

皆さんもよくご存じのように賢治さんは熱心な日蓮宗の信徒でしたが、花巻教会の信徒とも思いの他、さまざまな接点があったのですね。『宮沢賢治とクリスチャン 花巻篇』を通して私自身、そのことを知ることができ、感謝です。

 

賢治さんの『雨ニモマケズ』のモデルとも言われる斎藤宗次郎さんとも、花巻教会は長らく親しい交流を持っていました。花巻教会は教派がバプテスト、斎藤宗次郎さんは無教会ですが、当時花巻のクリスチャンたちは教派を超えて親しく交流し協力し合っていたそうです(同書、215217頁)。初代牧師の阿部治三郎先生も斎藤宗次郎さんと大変親しくされていたことが分かっています(同書、230232頁)

 

 

 

「丘の上の教会」

 

多くの信仰の先達たちに支えられ、成長を続けた花巻教会は1922年に、会堂を吹張町に移転しました。万福亭の敷地内の見晴らしの良い、小高い場所です。初めは元三浦医院の一室をお借りして礼拝をささげていたそうですが、2年後の1924年、同じ敷地の中に最初の会堂を建てることになりました。木造二階建ての建物であったそうです。吹張町時代の花巻教会は「丘の上の教会」だったのですね。この会堂に、宮沢賢治さんも訪れたということになります。

 

学生時代にこの会堂の二階の部屋に宿泊をされていたという中嶋ユウさんは次のように綴っておられます。《昭和八年頃の教会は、吹張の今の万福の所にありました。吹張の通りの右が畳屋さん、左が島理髪店の間を入り石段を登ると緑色のペンキ塗りの教会でした。

「花巻バプテスト教会」の看板がかかっていました。小高い所に建っていて、教会らしくていいな、と、とても好きでした》(『創立八十周年記念誌――一粒の麦から――』より)

 

その後、1935年に会堂を現在の仲町に移築します。そうして二度の建て替えを経て、現在に至ります。仲町に移転してからは、花巻教会は「丘の上の教会」ならぬ、「ひゃっこ坂の下の教会」になっています。

 

 

 

主イエスの弟子となる

 

ご一緒に、花巻教会の創立の歴史を振り返って参りました。花巻に蒔かれた神さまの言葉が芽を出し、豊かに成長してゆく様子を振り返ることができました。私たち人間の意図を超えて、神さまの力が働かれていることを改めて思います。《わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。/ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です》(コリントの信徒への手紙一367節)。また神さまの不思議な力は私たち一人ひとりに働いてくださり、今朝、この花巻教会の礼拝に私たちを結び合わせて下さっています。

 

最後に、改めて本日の聖書箇所を見てみたいと思います。イエス・キリストがペトロたちを弟子へと招く場面です。イエス・キリストの一番最初の弟子たちが誕生する、記念すべき場面です。

 

主イエスは湖で漁をしていたペトロたちに、《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》19節)とおっしゃいました。

 

 主イエスがここで二人を招き入れようとしていたその場所とは、「神の国」です。主イエスはペトロたちを神の国に招き入れ、そして、人々を神の国に招き入れるために働く者としようとなさっています。「人間をとる漁師にしよう」という言葉には、「網を投げ魚を網の中に招き入れるように、人々を神の国に招き入れる漁師にしよう」というメッセージが込められています。

 

「神の国」とは、神さまから与えられているかけがえのない生命と尊厳とが大切にされる場のことを言います。主イエスはこの神の国の実現のために、ペトロたちを弟子へと招いてくださいました。またそして、私たち一人ひとりを招き続けて下さっています。

 

 

 

神さまから与えられている生命と尊厳を第一として歩む

 

「わたしについて来なさい」という招きの言葉を原文に即して訳し直しますと、「わたしの後ろについて来なさい」となります。原文では、「後ろに」という言葉が入っています。

 

主イエスの「後ろ」を歩むとは、自分自身の利益のみを求めて生きるのではなく、神の国を第一として生きる、ということを意味しています。言い変えれば、神さまから与えられているかけがえのない生命と尊厳とを第一として歩んでゆくということです。それが主イエスの歩まれるその「後ろ」に従って歩んでゆくということです。

 

イエス・キリストの道は、すべての人の心にともされている祈りと通じています。イエス・キリストの道を歩むことは、思想を超え宗教をも超え、すべての人の祈りと共に歩むということを意味しているのだと信じています。

 

悲しみのあるところに喜びが芽吹くように、争いのあるところに和解と平和が芽吹くように。一人ひとりの心の奥底に、イエス・キリストの愛が響き渡りますように。この花巻の地で、これからも共に神の国のために働いてゆきたいと願います。