2016年7月31日「主よ、それでも」

2016731日 主日礼拝

聖書箇所:詩編3

 

「主よ、それでも」

 

 

 詩編319節《賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき。/主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。/多くの者がわたしに立ち向かい/多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。/主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。/主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます。/身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。/主が支えていてくださいます。/いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません。/主よ、立ち上がってください。/わたしの神よ、お救いください。/すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。/救いは主のもとにあります。/あなたの祝福があなたの民の上にありますように

 

 

 

はじめに

 

26日の未明に、相模原の障がい者福祉施設で大変痛ましい事件が起きました。皆さんも大変なショックを受けてらっしゃることと思います。この度の事件で亡くなられた方々のご家族、友人の上に皆様、施設の入居者、職員の皆様の上に主の慰めがありますよう祈ります。被害を受けられた方々の回復を祈ります。またこの度の事件を受けて大きな不安、恐れを抱いている方々の上に、どうぞ主からの平安がありますようにと祈ります。

 

この度の事件においては、事件の残虐性とともに、容疑者の若者がいだいていた思想が、社会に衝撃を与えています。「障がい者はいなくなればいい」という彼の言葉を、私たちは決してゆるすことはできません。重度の障がいを持つ方々の安楽死を容認し、むしろそれを進んで遂行することが社会のためになるという思想を、私たちは決してゆるすことはできません。一人ひとりの生命と尊厳を否定する考えを、私たち教会は、決して容認することはできません。

 

私がよく拝見するビデオニュース・ドットコムという動画ニュースサイトがありますが、そこで日本障害者協議会の代表の藤井克徳氏のインタビューが紹介されていました。藤井さん自身も全盲でいらっしゃいます。

 

藤井さんがこの度の事件を受けて真っ先に思い浮かべたのが、ナチスドイツの「優生思想」であったそうです。かつてナチスドイツは優生思想に基づいた「T4作戦」と呼ばれる政策を実施しました。障がいをもつ人々を安楽死させるという政策です。1939年から1941年までの間にナチスドイツは20万人以上もの人を安楽死施設に送り、処刑しました。虐殺の対象となった人々は初めは障がいをもつ人々でありましたが、やがて病人や同性愛者など、当時のさまざまな社会的な弱者とされた人々に拡大されていったそうです。そうしてそれが行き着く先が、ユダヤ人の大虐殺でありました。

 

実際、容疑者がナチスドイツの優生思想の影響を受けていた可能性も報道されていますが、容疑者の思想はまさにナチスドイツの優生思想そのものであり、70年前のドイツで起こった悲劇が、時間と空間を超えて今につながっている、その恐ろしさを強く感じると藤井さんは述べています。

 

 また、藤井さんは、今回の事件はいまの社会の風潮と無関係ではないように思うと語っています。「生産性」や「効率」が過度に重視されているのがいまの私たちの社会でありますが、その考え方は、逆に、生産活動に従事できない人々や効率よく働くことができない人々を「価値のない存在」とする考え方につながる危険性をもっています。事実、そのような考え方というのが、はっきりと文言化はされなくても、私たちの社会に風潮として存在しているのではないか。

 私もこの度の事件は一人の若者が起こした異常な事件というだけではなく、私たちの社会の病理というものと切り離しがたく結びついていると感じています。

 

 有用な働きができる人は価値があり、そうではない人には価値がないという考え方は、現代だけではなく、私たち人間の歴史において一貫して見られるものでもあります。イエス・キリストが生きておられた時代もそうでした。主イエスが生きておられた当時、絶対的な価値を持っていたのは「律法」でありましたが、その社会では、律法を遵守することができる人は称賛され、律法を守ることができない人は無価値なものとされ排除される風潮がありました。そのような社会の風潮に対して、主イエスははっきりと「否」を唱えられました。

 

主イエスは、神さまの目から見て、一人ひとりの存在が無条件に貴いものであるということを伝えられました。神さまは私たち一人ひとりを“あるがまま”に肯定し、よしとしてくださっているという福音を伝えられました。

 

 この度の相模原の事件の容疑者の思想というものは、主イエスが命をかけて伝えてくださったこの福音の真理と真っ向から対立するものです。容疑者の思想を否定すべきことは言うまでもないですが、この思想と遠くでつながっているいまの社会の風潮にも、私たち教会は「否」を唱えてゆく必要があります。

 

私たちの社会はいま、神の国とは真逆の価値観で動いています。いかに有用な働きができるか。いかに効率を上げ、利益を上げることができるか。そのような価値観が原動力となってしまうことは大変危険です。 私たちはいま一度神の国の福音に立ち返り、そこからいまの現実を見直し、言葉を発し、行動を起こしてゆかねばなりません。生産性や効率ではなく、一人ひとりの生命と尊厳が守られることをこそ、私たちは第一としてゆかねばなりません。

 

簡単にではありますが、まず初めにこの度の事件についての私の想いを述べさせていただきました。

 

 

 

個人の嘆きの詩編

 

本日ご一緒にお読みするのは、詩編3編です。詩編には神さまを賛美する詩だけではなく、「嘆きの詩編」がたくさん収められています。

 

 詩編3編において、作者である「わたし」は、どのような状況に苦しんでいるのでしょうか。23節に、「わたし」がいま直面している状況というのが語られています。23節《主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。/多くの者がわたしに立ち向かい/多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と》。

 

 短いこれら文言だけでは、作者が具体的にどのような状況にいたのか、もはや私たちには分かりません。ただ一つ分かるのは、作者が多くの敵意に囲まれているということ。そしてその中で非常に精神的に追い詰められた状況にいるということです。「わたし」は強者の立場ではなく、弱者の立場に立たされていた人物であることが分かります。

 

 2節に《わたしを苦しめる者》という表現がありますね。これは「私を責める(攻める)者」とも訳すことができる言葉です。これは武力で「攻められている」状態と受け止めることができますし、または、精神的に「責められている」状態と受け止めることもできます。本日は後者の解釈を取りたいと思います。すなわち、作者の「わたし」は何らかの事情によって周りの人々から責め立てられていた、という解釈です。

 

 

 

棘のように突き刺さる言葉

 

 3節には、周囲の人々から「わたし」に対する中傷の言葉が記されています。《彼に神の救いなどあるものか》。この言葉は、古代イスラエルの人々にとって、最も侮辱的な言葉の一つであったでしょう。神さまの救いがその人にないということは、その人は神から見捨てられた存在である、ということです。相手の存在を「無価値なもの」とする言葉です。

 

このような言葉を他者から投げつけられたらいかに傷つくかは想像に難くありません。その言葉は棘となって当人の心の深いところに突き刺さってしまうことでしょう。

 

否定的な意図をもって発された言葉というものは、相手の心に棘のように突き刺されます。そうしてそれは癒えない傷としてその人の心に残り続け、その人から生きるエネルギーを失わせてゆきます。悪意をもった言葉はいかに人を傷つけ、その心と体と魂を損なわせるものであることでしょうか。

 

「彼に神の救いなどあるものか」という悪意をもって発された言葉は、詩編3編の作者の心に「呪い」のように刺さり、作者を苦しめ続けていたようです。またいつしかその言葉は、作者自身が自分に投げかける「呪い」の言葉になってしまっていたのかもしれません。「わたしに神の救いなどあるだろうか」と――。追い詰められた状況の中で、「わたし」はどんどん孤立してゆき、また正常な判断力を失っていったかもしれません。

 

 

 

ネフェシュに深刻な傷を受ける

 

 詩編3編の作者が陥っていた苦境について、少しご一緒に想像をしてみました。程度の差こそあれ、詩編3編の作者が感じていたであろう苦しみというのは、私たちも経験したことがあるものなのではないでしょうか。周囲から一方的に批判される経験や、責め立てられる経験というものを、時に私たちはすることがあります。または、悪意のある言葉を投げつけられるという経験をすることもあるでしょう。

 

 そういう時、私たちの心と体と魂は大変なダメージを受けます。不眠や食欲不振や頭痛などの身体症状が表れることもありますし、倦怠感や抑うつなどの精神的な症状が生じることがあるでしょう。また自分自身に否定的なイメージを抱くようになってしまい、自尊心が低下してしまうこともあります。

 

 ヘブライ語に、「ネフェシュ」という言葉があります。元来は「のど」を意味する言葉です。「魂」「命」「息」などの意味ももつ言葉です。また「人間」「自分自身」という意味で用いられることもあります。ある人は、このネフェシュという語は《生命体としての人間》を指していると述べています(月本昭男氏)。「存在そのもの」ということもできるでしょう。ヘブライ語の原文を見ますと、3節にこのネフェシュという言葉が記されています。「多くの者が私のネフェシュに言い立てます、『彼に神の救いなどあるものか』と」。

 

 詩編3編の作者は、敵意に囲まれ攻撃を受ける中、人間にとって最も大切なこのネフェシュに深刻な傷を受けてしまっていたのです。

 

 

 

神さまの前での「眠り」

 

 本日の詩編3編では、作者の「わたし」は敵対する者たちに「立ち向かう」ということはしません。心身が弱まっているときに、そのようなことはすべきではないでしょう。詩編3編の「わたし」がしたこと、それは「眠る」ということでした。心と体と魂とを「休める」ということでした。67節《身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。/主が支えていてくださいます。/いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません

 

 詩編3編において中心に配置されているのが、「眠り」というモチーフです。睡眠は言うまでもなく、私たちにとって非常に大切なことです。身体的な不調、精神的な不調を回復させるための最大の薬の一つが、よく眠るということです。本日の詩編3編を読みますと、「眠り」ということがただ心身を休めるのみならず、さらに深い次元の営みとして捉えられていることが分かります。心と体だけではない、いわゆる「魂」の領域において、眠りは大切な働きを果たしていることが示唆されています。

 

作者の「わたし」は不安の中で身を横たえ、眠りにつきます。しかし、朝、目覚めたとき、「わたし」は「主が支えていてくださっている」ということに気づきます。不安は和らぎ、安心感が心の中に湧き上がっています。これはおそらく、作者の「わたし」が実際に経験したことであったのでしょう。眠っている間に、傷を受けたネフェシュが癒されるという不思議なことが起こったようです。その眠りとは、神さまの前での眠り、神さまが共にいてくださる眠りでありました。

 

 

 

主よ、それでも

 

 作者の「わたし」は、神さまの前での眠りを通して、新しいビジョンを得ました。それが記されているのが45節です。《主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。/主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます》。

 

 ここでは、再び「わたし」の内に肯定的なイメージが回復されています。自分は一人ではないこと、自分を守り、支えてくれる存在があることを再び思い起こされています。

 

たとえ、いまだ自分の周囲を敵意が取り囲んでいるのだとしても。自分を中傷する人々がいるのだとしても。それでも、主を信頼して歩むことを「わたし」は再び決意します。

 

詩編3編は、最後は次の言葉で結ばれます。9節《救いは主のもとにあります。/あなたの祝福があなたの民の上にありますように》。

 

詩の前半では、作者の「わたし」は「彼に神の救いなどあるものか」という悪意ある言葉に苦しんでいました。しかしこの最後の言葉では、「救いは主のもとにあります」とはっきりと宣言しています。周囲からの「呪い」の言葉に抗して、神さまから来る「祝福」の言葉を述べるのです。

 

 

 

「いる」ことこそが何より尊い

 

 詩編3編が記す、神さまの前での「眠り」。ここにおいて、「わたし」は弱く、無力な存在です。敵に立ち向かうこともなく、何か勇ましい行動を起こすのでもありません。まるで幼な子のように、ただ自分の存在を主にゆだねて、眠りにつくだけです。しかし、一見無力に見えるその姿を通して、神さまの大いなる力が現れ出ました(コリントの信徒への手紙二129節)。私たちの存在そのものを“あるがまま”に受け止め、祝福し、生かしてくださっている神さまの力です。新約聖書は、この神さまの力を「福音」と呼んでいます。

 

 私たちが神さまの目から見て価値があるのは、何か有用な働きやよい行いをすることができるからではありません。私たちの働きを超えて、神さまは私たちを“あるがまま”に「よし」とし、愛してくださっています。

 

主イエスは私たちに語りかけてくださっています。「あなたがいま・ここに『いる』ことこそが尊い。あなたが『存在している』ことそのことが、何よりの価値なのだ」と。

 

 お一人おひとりに、どうか主よりの安息がもたらされますように。傷ついた皆さまのネフェシュが癒され、回復へと導かれてゆきますようにと願います。