2016年8月14日「愛は律法を全うする」
2016年8月14日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書5章27-32節
「愛は律法を全うする」
マタイによる福音書5章27-32節《「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。/もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。/もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」/
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》
《人間の戦場》 ~人間の尊厳が奪われている場所
8月に入り、私たちは平和について改めて考える時を過ごしています。明日8月15日は終戦の日です。日本が降伏文書に署名をしたのは9月2日であり、正確には9月2日が終戦の日ということになりますが、今年2016年、私たちは敗戦から71年を迎えます。
平和という言葉を聞いたとき、私たちはまず「戦争がない状態」を思い浮かべます。一方で、たとえ戦闘行為は起こっていなくても、平和でない状態というのはさまざまに起こり得ます。たとえば差別や偏見があるところには平和はありません。貧困の問題が生じているところにも、やはり平和は失われています。そのことを踏まえますと、平和とは、戦争がない状態だけではなく、「一人ひとりの尊厳が守られている状態」を指すのだということができます。私たちは武力による解決の放棄を目指すと共に、私たちの社会で、私たちの身近なところで、平和を作り出してゆくことができるよう、祈りを合わせてゆかねばなりません。
先月、花巻の「おいものせなか」で自主上映された長谷川三郎氏監督『広河隆一 人間の戦場』(2015年)という映画を観てきました。フォトジャーナリストの広河隆一氏を追ったドキュメンタリー作品です。
作品の中で広河隆一さんは《人間の戦場》という言葉を用いておられました。《人間の戦場》とは、戦闘が行われている場所を指すだけではなく、「人間の尊厳が奪われている場所」のことを指しているそうです。この言葉は映画のタイトルにもなっています。
広河氏はこれまで、パレスチナ、チェルノブイリなど世界のさまざまな場所を取材し、人間の尊厳がないがしろにされている状況を目の当たりにしてこられました。そしてその場所を《人間の戦場》と呼んでこられました。
《人間の戦場》は、私たちの生きるこの社会の至るところに出現するものであるということができます。たとえば、原発事故による放射能の健康被害が懸念される福島がそうでしょう。また辺野古の新基地建設、高江のヘリパッド建設が強行に進められている沖縄がそうでしょう。そこでは、人間としての当たり前の権利が抑圧されている現状があります。
また、《人間の戦場》は私たちの身近なところにも出現し得るものでしょう。《人間の戦場》という言葉が「人間の尊厳が奪われている場所」のことを指すのであれば、学校でも、職場でも、そして家庭でさえも、私たちにとって安全ではない場所――《戦場》になる可能性があります。
行為をなさしめる「内面の想い」
私たちは現在、礼拝の中でマタイによる福音書の「山上の説教」と呼ばれる部分を読み進めています。山に登られたイエス・キリストが、群衆と弟子たちにさまざまな教えを説く部分です。その中では、《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》(5章39節)という教えは特に有名ですね。
これら山上の説教の教えは私たちの日々の生活のあり方に鋭い問いを発しているものでもあります。《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》という教えも「復讐の連鎖から抜け出すことができない」私たちの現実に向かって発されている言葉です。先ほどの広河隆一氏の言葉を用いれば、私たちの《人間の戦場》の現実に向かって発されている言葉であるということになります。
山上の説教を読んでいて思わされることは、《人間の戦場》とは他ならぬ私たち自身が作り出し得るものでもあるということです。自分の心の中をよくよく見つめてゆけば、自分自身の内に、《人間の戦場》を作り出してしまう因子があることに気づかされてゆきます。
それは身勝手な怒りであったり(5章22節)、他者を見下す想いであったり(同)、他者のものを渇望する想いであったり(5章28節)、他者を憎む想いであったり(5章43節)、また時に他者の痛みに対する無関心であったりします。これら内になる想いが現実化し、態度・行為となって現れたとき、破壊的な結果をもたらしてしまうことになるのです。山上の説教では、行為をなさしめる要因となっている私たちの「内面の想い」に焦点が当てられています。
渇望する想いへの警告
本日の聖書個所の前半部(5章27-30節)で焦点が当てられているのは、私たちの内にある他者を「渇望する想い」です。他者に対して「渇望する想い」をもって接すること危うさが語られています。内にある渇望が、やがては「姦淫」――現代の言葉で言うと「不倫」――という行為になって現れ出てしまうことへの警告です。
マタイによる福音書5章27-30節《「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。/もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。/もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」》。
旧約聖書には十戒というものがあります。律法の中でも、とりわけ重要な十の掟です。その十戒の第七番目に、《姦淫してはならない》(出エジプト記20章14節)という掟があります。本日の聖書個所の冒頭では、この十戒の第七戒が引用されています。ある人はこの第七戒を《あなたは結婚を破壊してはならない》と訳しています(M.ノート)。このように訳し直すと、この掟の意味するところが分かりやすくなるかもしれません。
本日の聖書個所では、この掟を引用しつつ、さらに、その行為を引き起こした「内面の想い」に焦点が当てられています。28節《「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」》。
この28節を、私たちの内にある性欲そのものを否定している言葉であるとする受け取り方がありますが、ここはそういうことを言っているのではないようです。《みだらな思いで》と訳されている言葉は、「他者のものを渇望する」というニュアンスをもっている言葉です。その意味合いを込めて訳し直しますと、「渇望する想いで女性を見る者は」となります。ここでは性欲そのものを否定しているのではなく、その人を自分のものにしたいという内なる渇望に警告が発されているのです。
「右の目をえぐり出せ」とか「右の手を切り捨てろ」というギョッとするような表現は、古代世界特有の誇張表現であり、もちろん実際にそうしろと言っているわけではありません。より印象深くするためにそのような表現がなされているわけですが、これら強烈な表現によって、内なる渇望が時に、いかに私たちの人間関係を傷つけ、平和を壊すことにつながってしまうものであるかを伝えているのだと思います。他者を欲することへの渇望はいつしか何らかのかたちで現実化し、時に他者の尊厳をないがしろにし、そこに一種の「地獄」、または「戦場」を造り出していってしまうのだ、と。
一方で、他者に恋い焦がれる想いというのは、本人の意思で抑制できない事柄でもあります。「頭ではわかっているけれども……」という事柄ですね。相手がもし結婚している場合、それは倫理的、道徳的にゆるされないことだ、ということになりますが、それを頭では分かっていても、自分の内面の想いを消し去ることはできない、ということが起こり得ます。考えてはいけないと思えば思うほど、さらに内面の炎が燃え盛ってゆくということがあるでしょう。駄目だということを理解しているからこそ、内面に激しい葛藤が生じることになります。
たとえば夏目漱石の作品には、「三角関係」が繰り返し登場します。名作『こころ』も一つの三角関係を描いていますね。三角関係に陥りそれに悩む人間の姿を漱石は生涯をかけて描いてゆきました。この主題は漱石にとって、生涯の主題であったようです。このことからも、本日の主題というのは、私たちにとってのっぴきならない問題であり、また重要な主題であるということができます。そしてそれは、いざ自分がそのような状態になると、もはや机上の論理が通用しなくなるという非常に難しい事柄です。
その人を「一人の人間として」尊重できているか
そのような私たちにとって、大切なことを教えてくれている聖書の言葉があります。ローマの信徒への手紙の中の一節です。《「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。/愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです》(13章9-10節)。
ここでは、「姦淫するな」「他者のものを欲するな」などの律法のあらゆる掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に集約されるのだということが語られています。この掟は元来はレビ記19章18節に記されているものですが、この掟を私なりに言い換えますと、「隣人を、自分と同じ『一人の人間として』大切にしなさい」となります。私たちは、常にこの視点に常に立ち返ることが求められています。
「不倫はだめだ」「他人のものを欲してはだめだ」とただ言い聞かせるだけでは、事柄は解決されないでしょう。本人が消し去ろうとしても簡単に消すことができないのが、私たち人間の想いであるからです。私たちにできることは、葛藤の中で、のっぴきならない心境の中で、それでも立ち止まってみること、そして祈りの中で、自らの心に問いかけてみることではないでしょうか。自分は、相手を「一人の人間として」尊重することができているであろうか。自分の内面の想いは、相手を「一人の人間として」大切にする態度・行為につながっているであろうか、と。
相手を一人の人間として大切にするということは、相手を「かけがえのない」存在として大切にするということです。相手の主体性を大切にすることであり、「あるがまま」のその人を大切にすることです。フランスの女性の思想家のシモーヌ・ヴェイユは、《他の人たちがそのままで存在しているのを信じることが愛である》と言いました(『重力と恩寵』、ちくま学芸文庫、田辺 保訳、1995年、109頁)。いま目の前にいる人を“あるがまま”に受け止め、尊重しようとすることが愛である、ということでしょう。
反対に、もしも私たちが相手の主体性を奪ってしまっていたり、相手の意に反して自分の想いを押し付けてしまっているのだとすると、相手を尊厳をもった存在として大切にできていない、ということになります。
これらのことから、「姦淫するな」「むさぼるな」という種々の掟よりも、「その人を一人の人間として愛する」という掟の方がより根本的、本質的なものだということができるでしょう。言い換えれば、私たちが相手に愛をもって接することができたとき、「姦淫するな」「むさぼるな」などの律法の掟も同時に全うされてゆくのです。
悩みや葛藤に押しつぶされそうになりつつ、それでも立ち止まって、より良い生き方はないかと模索して歩む姿にこそ、貴いものがあるように思います。私たちは悩みの中でこそ、大切なものを発見してゆくのではないでしょうか。
神さまからの尊厳をもった存在として見つめる
イザヤ書43章4節に、「私の目に、あなたは値高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という言葉があります。この言葉は、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに語りかけられているものです。
相手を「一人の人間として」愛するということは、その人を神さまの目から見て「かけがえのない一人の人間として」愛するということです。神さまからの尊厳をもった存在として大切にする、ということです。私たちはその想いをもって、他者を見つめることが求められています。
私たちは気づいたら、相手を渇望する目で見てしまっているものです。または、相手を見下す目で、相手を敵視する目で見てしまっているものです。そのとき私たちは、相手が神さまからの尊厳をもった存在であることを忘れています。そのような私たちであるからこそ、繰り返し立ち止まり、祈りの中で、「神さまの目から見て、一人ひとりが値高く、かけがえなく貴い」のだという真実を思い起こしたいと思います。
一人ひとりを尊厳ある存在として見つめてくださっている神さまのまなざしに、私たち自身のまなざしを合わせてゆくことができますようにと願います。平和とは、「一人ひとりの尊厳が守られている状態」のことを言います。私たちがいま生きているこの場所から、まことの平和を造り出してゆくことができますようにと願います。