2016年8月21日「信実の言葉」

2016821日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書53337

「信実の言葉」

 

マタイによる福音書53337節《「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。/地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。/また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。/あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 

 

 

自分の決意のはかなさ

 

 嘘をついたわけではないのだけれど、結果的に嘘をついてしまったことになる、ということがあります。

 

たとえばお正月に今年一年の目標を立てて、でもそれが結局実行できなかったというのは多くの人が経験のあることですよね。「今年は毎朝ウォーキングをする」とか「今年は毎日日記をつける」とか、人によって目標はさまざまですが、私たちはそのように何かを思い立っても、継続してそれを実行してゆくというのはなかなかできません。「三日坊主」とはよく言ったもので、確かに私たちの決意とは、大抵は三日くらいしか続かない(!?)ものなのかもしれません。その瞬間は自分では本気のつもりであり、嘘をついたわけではないのですが、結果的に実行できなかったとしたら、少なくとも自分の言葉は信実なものではなかった、ということになります。

 

 私自身、これまでの自分の人生を振り返ってみて、恥ずかしくていたたまれなくなるような思い出がたくさんあります。そのときは自分は本気でそう思って行動し、周りの人にもそれを公言していたのに、それをやり遂げることができていない、ということがさまざまにあります。その決意が自分一人だけで完結していればまだ良いのですが、その決意によって周りの人を巻き込んだり、迷惑をかけてしまったり、ということが幾つもありました。そのような過去の恥ずかしい記憶が次々とよみがえってくる夜などは、どうも寝付きが悪くなってしまいますね。

 

 その瞬間は自分なりに一生懸命行動していたのであり、別に恥じる必要はないのだ、と受け止めることもできますが、しかし自分自身の経験を振り返ってつくづく思うことは、人間の決意というのはいかにはかないものでもあるか、ということです。自分自身に限って言えば、そのように思います。自分が決意したことをその言葉の通りに行うこと、そして継続して行ってゆくことは難しいことです。

 

 現在はオリンピックが盛り上がっており、日本の選手たちの活躍が報道されています。オリンピックに出場できた選手たちは、自分の決めたことをまさに毎日、継続的に行うことができている方々です。それら方々の強靭な精神力は本当に素晴らしいものです。一方で自分自身を顧みてみれば……とも思ってしまいますね。心のどこかでかすかに自分自身のふがいなさも感じつつ、オリンピックの選手たちの活躍に感動を覚えている日々です。

 

 

 

「誓ってはならない」

 

 そのような私にとっては、本日の聖書の言葉は、耳の痛い箇所です。本日の聖書箇所には、「誓ってはならない」という言葉が記されています。一切誓いを立ててはならない。ただその都度の状況に応じて、「然り、然り」または「否、否」とだけ言うべきことが述べられています。

 

 イエス・キリストがそのようにおっしゃったのは、まず第一に、やはり私たちが誓いをなかなか果たすことができないからでありましょう。

 

当時のイスラエルの人々の間では、「誓うこと」そのこと自体は否定されていませんでした。むしろ、神さまに対して誓願を立てることは、信仰の一つの在り方として大切にされていました。新約聖書でも、パウロが誓願を立てていたことが記されています(ナジル人としての誓願。使徒言行録1818節)

 

当時否定されていたのは、「偽りの誓いを立てること」、または「誓ったことを果たさないこと」でした。本日の聖書箇所の冒頭でも、《偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ》という言葉が引用されていますね33節)

 

そのような考え方が一般的であったところで、主イエスは、そもそも「誓いを立ててはならない」とおっしゃいました。当時としては斬新な、また見方を変えれば、過激な言葉であったということになります。

 

 

 

誓うこととその責任

 

本日の聖書箇所を読みますと、当時のイスラエルの人々がどのような誓い方をしていたのが伺われます。34節には「天にかけて誓う」という表現が出てきます。「天」というのは「神」という表現の言い換えです。ユダヤ教の人々の間では神さまの名前を直接的に用いることを控える伝統がありましたので、「天」という言葉で言い換えられているのですね。

 

 35節では「地にかけて誓う」「エルサレムにかけて誓う」という表現も出てきます。面白いのは、「自分の頭にかけて誓う」という表現ですね36節)。髪の毛は頭を保護する大切な役割をもっているものですから、その大切な頭髪にかけて誓うということなのでしょう。

 

旧約聖書では、誓いの実行を遅らせたり、それを果たさなかった場合は、「罪」を負う、また神さまから「裁き」を受けるという考え方がありました。「自分の頭髪にかけて誓った」場合の「裁き」がどのようなものであるかは少々語弊がありますのでご想像におまかせしますが(!)、イスラエルの人々にとって「誓い」というのはそれだけ責任が伴うことであったのです。現代の日本に生きる私たちは「誓い」をする際、神さまの裁きということは考えませんね。そういう意味では、古代イスラエルの人々において、誓うというのは現代の私たちよりはるかに厳粛な行為であった、ということになります。

 

「誓い」というのは大きな責任を伴うのだから、そもそも誓ってはならない、という本日の言葉は理解のできるものです。新約聖書のヤコブの手紙にも同様の言葉が記されています。《わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかのどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい》(ヤコブの手紙512節)

 

 

 

「自分の一方的な都合による誓い」への戒めとして

 

 本日の聖書箇所を読んで、疑問を感じる方もいらっしゃることと思います。本日の聖書箇所では「誓ってはならない」と記されているけれども、教会では誓約をするのではないか、と。たとえば私たち教会では、洗礼式において誓約をいたしますね。また役員就任式や按手礼式でも誓約をします。結婚式でも誓約をしますし、式の中で最も大切な場面がこの誓約です。教会の歴史においては、誓いをすること自体は否定されてはきませんでしたし、むしろ大切なものとして受け継がれてきました。確かに、「一切誓いを立ててはならない」という主イエスの言葉を守っていないとも思えます。

 

 一つ注目してみたいのは、最後の一文です。37節《あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい》。この「然り」または「否」を二回繰り返す表現は、当時の誓約をする際の表現であった、という指摘があります(田川健三氏『新約聖書 訳と註1 マルコ福音書/マタイ福音書』作品社、2008年、572573頁。ただし、ヤコブの手紙512節の表現はまた意味が異なります)。であるとすると、マタイによる福音書においては、誓約そのものは否定されていない、ということになりますね。

 

では「一切誓いを立ててはならない」という34節の言葉はどう受け止めたらよいのでしょうか。マタイによる福音書の文脈の中では、「自分の都合によって、誓いを立ててはならない」という意味の言葉として受け止めることができると思います。「自分の一方的な都合によって誓いを立ててしまうこと」への戒めです。本日の聖書箇所で戒められている誓いの言葉というのは、何か相手が不在という感じを受けますよね。自分の都合で、神さまの名によって誓っているという印象を受けます。その姿勢を本日の聖書箇所は批判しているのでしょう。自分の一方的な都合による誓いというのは信実な言葉になりえず、いつしか力を失って消え去ってしまうものなのでしょう。

 

 

 

教会における誓約のかたち

 

 私たちが教会で行っている誓約のかたちを思い起こしてみたいと思います。たとえば、洗礼式の誓約を思い起こしてみましょう。洗礼式ではまずイエス・キリストの言葉が読まれ、そして司式者の導きにより、誓約がなされます。そのとき、司式者の問いに対して、洗礼志願者が答えるというかたちをとりますね。《司式者『あなたは、イエス・キリストを自分の主また救い主として受け入れ、その恵みと愛に依り頼むことを誓いますか』。志願者『誓います』》(日本基督教団式文(試用版Ⅱ)より)

 

 洗礼式の誓約では、まず初めに神さまからの呼びかけがあり、それに私たちが答える、というかたちを取っています。それは結婚式の誓約も同様ですね。すなわち、神さまからの呼びかけに、「はい(然り、然り)」と答えるというかたちです。これが、教会が大切にしてきた誓約のかたちであるということができます。

 

 

 

神さまの「信実の言葉」

 

 私たちの決意というのはもちろん大切です。しかし、まず初めにあるのは、神さまの決意です。私たちの誓いの言葉も大切です。しかし、まず初めにあるのは、神さまご自身の誓いの言葉です。聖書は繰り返し、この神さまご自身の「信実(誓いに対する誠実さ)」を語ります。《草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ》(イザヤ書408節)。《そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。/それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす》(イザヤ書5511節)

 

たとえ私たちの決意ははかなくても、神さまの決意はお変わりになることはありません。たとえ私たちが道半ばでその決意を見失っても、神さまはその決意をお忘れになりません。その決意とは、私たち一人ひとりをとこしえに「愛する」という決意です。

 

神さまは天地創造の前から、私たち一人ひとりを「愛する」ことを決意されました(エフェソの信徒への手紙14節)。そして私たちを「愛する」という決意ゆえに、誓いの言葉として、御子イエス・キリストを私たちのもとへ送られました。その誓いの言葉は、いまも、私たち一人ひとりと共にあります。

 

私たちはそれぞれ、自分に向けられたこの神さまの愛と信実に応えてゆきます。たとえ道半ばでその誓約を見失っても、何度でも立ち戻ることができます。たとえその誓いの言葉を忘れても、何度でもそこに立ち返ることができます。神さまご自身の愛の誓いは、とこしえに変わることはないからです。

 

 

 

「はい」という応答 ~内なるキリストの呼び声に

 

冒頭で述べましたように、自分自身の決意というのはまことにはかないものです。それは燃え上がったと思ったら、すぐに消えて失せてしまいます。しかし私が少しずつ気づいてきましたことは、神さまが与えてくださった誓いの言葉というのは、完全に消え去ることはないのだ、ということです。たとえ私たち自身がそれを見失ったと思っても、いまだ完全には失われていない。切り倒された木の根から、それでも若枝が芽吹くように(イザヤ書11章)、神さまは私たちの心に、何度でも誓いを新しく芽吹かせてくださいます。主を「愛する」という決意を。大切な隣り人を「愛する」という決意を。神さまの誓いの言葉であるイエス・キリストは、いま私たちの内に生きておられ、働いておられます。

 

「愛するか」という内なるキリストの呼び声に、いま、「はい」と応えたいと願います。