2016年9月18日「見えづらいけれども大切なもの」

2016918日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書614

 

「見えづらいけれども大切なもの」

 

 

 

マタイによる福音書614節《「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。/だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。/施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。/あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」》。

 

 

 

『あなたに褒められたくて』

 

本日の聖書箇所では、人に見てもらおうとして、人の前で善行を行わないようにしなさい、ということが言われています。マタイによる福音書61節《見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる》。人からほめられるため、称賛を得るために良いことをしようとしているのだとしたら、それは立ち止まって考える必要がある、ということですね。

 

一方で、誰しもが多かれ少なかれ「ほめられたい」「認められたい」という気持ちも持っています。それは人としての当然の欲求であるということができます。必ずしも、「ほめられたい」「認められたい」という気持ちは全否定すべきものではないでしょう。時にその想いがその人を成長させたり、前進させたりするということもあると思います。

 

「ほめられたい」ということで私が思い出したのは、俳優の高倉健さんが記した『あなたに褒められたくて』(集英社文庫、1993年)というエッセイ集です。高倉健さんの人柄がにじみ出ている素敵な本ですが、その中に、本のタイトルともなっている「あなたに褒められたくて」というエッセイがあります。ここでの「あなた」とは、高倉健さんのお母さんのことです。いまは亡きお母さんに対する深い想いが綴られています。頑固で、優しくて、そして有り難い母だった、と高倉健さんは語っています201頁)

 

 たとえば、高倉健さんが任侠映画のために全身のポスターを作ったとき。かかとにあかぎれが出来ていて、それを肌色の絆創膏で隠していたそうです。すると、お母さんだけが、《アッ、あの子、まだあかぎれ切らして、絆創膏貼っとるばい》って気づいたそうです。ポスターを見ても誰も気づかないのに、お母さんだけが気づいた。《あんたがね~可哀想》198頁)

 

けれども、その最愛のお母さんは、もうこの世にはいない。《肌色のバンドエイドで隠している踵のあかぎれを見つけてくれる、たった一人の人はもういない》203頁)

 

 高倉健さんは、《自分が頑張って駆け続けてこれたのは、あの母(ひと)に褒められたい一心だったと思います》と綴っています201頁)。《お母さん。僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、あなたがいやがっていた背中に刺青(ホリモノ)(い)れて、返り血浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福の黄色いハンカチ』の夕張炭鉱、雪の『八甲田山』。北極、南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年駆け続けてこれました。/別れって哀しいですね。/いつも――。/どんな別れでも――》203頁)

 

 そして《あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきゃね》と記して、エッセイを結んでいます205頁)

 

 この感動的な高倉健さんのエッセイを読みますと、愛する人に「褒められたい」というのは、いかに心の深いところから来る想いであるか、そしてそれが私たちにとっていかに大切な感情であるか、ということを思わされます。また本書のおいては、母への愛を、「あなたに褒められたくて」という言葉で表現しているのだと受け止めることができます。

 

 

 

誰からも称賛を得ようと懸命になってしまうこと

 

 高倉健さんの場合、みんなに褒められたい、というのではなく、愛する母に褒められたい、というのが大切な動機となっていました。そこが、人に褒められたいという一般的な心理と異なっているところであるということができるでしょう。

 

 誰も気がづかない、絆創膏で隠されたあかぎれにも気づいてくれる最愛の人。その母への深い愛情と信頼があるからこそ、「褒められたい」、「自分はまだ頑張れる」という前向きな想いが湧いてくる。

 

 一方で、そのような深い愛情と信頼を見失ってしまったとき、私たちは周囲の皆から過剰に褒められたい、過剰に称賛を得たいと必死になってしまうのかもしれません。それは言い換えれば、それだけ内面に満たされない想い、飢え渇きを感じている、ということでもあるでしょう。

 

 本日の聖書箇所では、誰からも過剰に称賛を得ようとしてしまうことについて注意が促されています。当時のイスラエル社会においては、施しをすることは律法で命じられた義務でもありました。現代のように社会福祉制度がまだ整っていない中、共同体全体で経済的に貧しい人々を支えるべきことが律法で命じられていたのです(たとえば、申命記1511節)。本日の聖書箇所を読むと、公の場で施しをするとき、人の目を引こうと、人から過剰に褒められようとして、わざと目立つようにやる人々がいたことが伺われます。

 

そのような場面を念頭に置きながら、イエス・キリストは注意を促しています。2節《だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない》。施しをするとき実際にラッパを吹き鳴らしていたわけではないそうですが、まるでラッパを吹き鳴らすように、自分の行為を周囲にこれみよがしにアピールする人々がいた、ということでしょう。

 

人から「褒められたい」「認められたい」という気持ちは誰しもが持っているものです。また、先ほどの高倉健さんのエピソードにあるように、愛する人から「褒められたい」というのは大切な想いでもあります。しかし、周囲の誰からも褒められることにばかり意識を向けてしまうことは、確かに何かバランスが崩れてしまっている、ということができます。内面に何か満たされない想いを抱えていることの表れであるということになるでしょう。

 

 

 

根源的な「受容の体験」

 

 私たち人間にとって、最も大切な経験の一つに、「受容の体験」があります。自分の存在がまるごと受け入れられていると感じる経験です。赤ん坊の頃に母の胸に抱かれた経験というのは、まさにその根源的な経験の一つでしょう。

 

 この受容の体験において重要であるのは、それが「無条件のものである」ということです。自分が何か良いことをしたから、素晴らしいことをしたから、受け入れてもらったのではない。「~をしたら、受け入れてもらえる」という条件付きのものではなく、ただ無条件に、「あるがまま」に自分の全存在を受け入れてもらったということが、重要です。

 

この根源的な「受容の体験」は、私たちに深い安心をもたらし、その安心は私たちの心に自分自身と他者に対する信頼を形作ってゆきます。高倉健さんのエッセイを読んで感じるのも、この深い安心と、信頼ですね。この人生の土台になる大切なものは、高倉健さんにおいては、お母さんを通して育まれていったものでした。この安心と信頼があるからこそ、私たちは何度でも立ち上がってゆくことができます。前を向いて、走り続けてゆくことができます。

 

 一方で、この「受容の体験」が見失われたとき、私たちの心は不安的になり、心の中からは自分と他者に対する信頼が失われてゆきます。生きる上で大切な土台が崩れてしまっている状態ですね。そのような時、私たちの心と体は緊張して、硬くなります。心身からは力が失われてゆきます。そして不安ゆえに、周囲から過剰に称賛を得ようと懸命になってしまいます。

 

 

 

パウロの場合

 

 キリスト教が誕生して間もない頃、かけがえのない働きをした人物の一人に、パウロという人物がいます。新約聖書にもたくさんパウロの手紙が残されていますね。パウロの手紙を読んでいると、まさにこの「受容の体験」について語られているということが分かります。そしてパウロにとってその経験とは、イエス・キリストを通して、神から受容されている、という経験でした。

 

パウロは、神さまご自身から、自分が無条件に、「あるがまま」に受け入れられている、ということを、イエス・キリストを通して知らされました。パウロはその後、キリスト教の歴史において大きな働きを成し遂げますが、パウロがそのように走り続けることができたことの力の源に、根源的な受容の体験を通して与えられた安心感と信頼というものがあったでしょう。

 

 イエス・キリストに出会う前のパウロは、他者から称賛を得ようと必死でした。律法を完璧に守り、素晴らしい行いをして初めて、神さまは自分のことを受け入れてくださる、愛してくださるのだと思っていたのです。心身が「もう限界だ」悲鳴を上げてしまうほど、パウロは完璧な人間であろうと努力し続けていました。

 

 しかし、パウロはイエス・キリストとの出会いを通して、神さまに自分は「あるがまま」に受け入れられていることを知らされました。自分がどのような人間であるか、自分がどのような素晴らしい働きをしたかは一切関係なく、自分はあるがままに、無条件に、神から受け入れられているのだ、ということ。これは、まさにパウロにとって「目からウロコが落ちる」(使徒言行録918節)経験でありました。その経験は、パウロの人生を変えてゆきました。

 

 自分が頑張るから、神さまは愛してくださるのではない。神さまが愛してくださっているから、自分は頑張ることができるのだ――。

 

 

 

神は知っていてくださる

 

 主イエスは今日の聖書箇所の終わりに、こう語っておられます。34節《施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。/あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる》。

 

 施しをするときは、右の手のすることを、無理に左の手に知らせる必要はない。無理に自分の行為を人目につかせる必要はない。他ならぬ、神さまが、知っていてくださる、見ていてくださるのだから。主イエスは、《隠れたことを見ておられる父》とおっしゃいます。

 

神さまは見ていてくださる。私が右の手でなすことも、左の手でなすことも。たとえ周囲の人は見ていなくても、神さまが見ていてくださる。絆創膏で隠しているあかぎれも――。

 

 神さまは知っていてくださる。私たちの心の中にあるすべてを。心の奥底に隠された悲しみも。誰も気づいてくれない痛みをも。神さまは知っていてくださる。だから人から称賛を得ようと必死になる必要はないのだ、と主イエスは私たちにおっしゃってくださっているのだと思います。みんなから褒められようと、称賛を得ようと無理に頑張る必要はない。自分以外の誰かになろうとする必要はない。他ならぬ、いま、ここにいるあなたを、神さまは愛しておられるのだ、と。

 

 

 

私たちを深みから支える「福音」

 

 主イエスが私たちに伝えてくださっているこの「良き知らせ」を、私たちは「福音」と呼んでいます。神さまは私たち一人ひとりを、あるがままに受け入れ、「極めて良い」(創世記131節)ものとして愛してくださっているのだということ。

 

 私たちは忙しい生活の中で、気が付くとこの「福音」を忘れてしまいます。気が付くと心が飢え渇き、満たされない想いが自分を苦しめます。満たされない想いを、他者からの称賛によって何とか埋めようとしてしまいます。そのような私たちであるからこそ、立ち止まり、心を静かにして、いま自分に語られている主イエスの声に耳を傾ける必要があるのでしょう。

 

称賛を得ようと無理に頑張る必要はない。自分以外の誰かになろうとする必要はない。他ならぬ、いま、ここにいるあなたを、神さまは愛しておられる――。

 

「福音」は私たちの目には見えません。しかし確かに存在し、いま私たちを深みから支え、生かしてくださっているものです。どうぞいまご一緒に、このイエス・キリストの「良き知らせ」を、心の中のすみずみにまで行き渡らせてゆきたいと願います。