2017年1月1日「見よ、新しいことをわたしは行う」

201711日 花巻教会 新年礼拝

聖書箇所:イザヤ書431620

「見よ、新しいことをわたしは行う」

 

 

 

イザヤ書431620主はこう言われる。/海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方/戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。/初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。/見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている。/あなたたちはそれを悟らないのか。/わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。/野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。/荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ

 

 

 

新年礼拝

 

新しい年のはじめ、ごいっしょに神さまに礼拝をささげることができますことを、感謝いたします。今年一年、皆さんの上に、主の恵みとお守りがありますようにお祈りいたします。

 

 先週の25日の日曜日には、私たちはクリスマス礼拝をおささげしました。年末年始で何かと慌ただしいですが、教会の暦では、16日の公現日(エピファニー)までがクリスマスになります。ちなみに、クリスマスから8日目の今日11日は、イエス・キリストが「イエス」と名付けられた日です《八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である》ルカによる福音書221節)。「イエス」は「主は救い」という意味の名前です。

 

 

 

聖書と鶏

 

日本の暦では、昔から干支というものがありますね。今年は十二支で言うと、「酉(とり)」年です。厳密に言うと2017年は「丁酉(ひのととり)」の年になるようです。本日いらっしゃっている方で、酉年生まれの方はいらっしゃるでしょうか。日本でも鶏は昔からなじみの深い動物ですが、主イエスが生きておられたパレスチナにおいても同様であったようです。鶏は日々の生活の中でとても身近な動物であったのですね。

 

皆さんは、聖書のどのような場面に鶏が出てくるか、思い浮かぶでしょうか。有名な場面で、鶏が出て来ます。ヒントは、「ペトロ」、「3という数字」、「鶏の鳴き声」、です。

 

正解は、弟子のペトロが主イエスのことを3度「知らない」と拒む場面です。主イエスが十字架におかかりなる前、弟子のペトロは主イエスのことを三度「知らない」と拒んでしまう、すると鶏が鳴いた、という場面がありましたよね(マタイによる福音書266975節)。主イエスがあらかじめ予告した通り(マタイによる福音書2634節)、ペトロは主イエスを拒絶し、主イエスを見捨ててしまいました。新約聖書において(雄)鶏が出てくるのは、すべてこのペトロの否認の場面に関してです。そういう意味では、新約聖書において鶏は悲しい場面で登場する、ということができますね。

 

 

 

ペトロの涙

 

キリスト教の聖人伝説などを集めた『黄金伝説』という本には、ペトロについて次のような記述があります。あくまで伝承ですが、心に残る文章です。《ペテロは、いつでも一枚の布を胸に入れておいて、しょっちゅうあふれでる涙をぬぐったということである。というのは、主のやさしいお言葉と主のおそばにいたときのことを思いだすと、大きな愛の気持ちから涙をおさえることができなかったからである。さらに、自分が主を否認したことを思いおこすたびに、はげしく嗚咽した。そのようによく泣いたので、彼の顔は泣きぬれて、ただれたようであった、と聖クレメンスは記している。クレメンスはまた、ペトロは暗いうちににわとりの鳴き声と共に起きて祈り、それからいつもはげしく泣いていたと伝えている》(ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説2』、前田敬作・山口裕訳、平凡社ライブラリー、2006年、380381頁)

 

 これは文章はあくまで伝承ですが、ペトロが辺りがまだ暗いうちに鶏の鳴き声と共に起きて祈り、そして激しく泣いたという文章は、私たちの心を打つものですね。夜明けを告げる鶏の鳴き声を聞く度、ペトロは自分がしてしまった過ちを思い起こし、涙を流していたのかもしれません。

 

 

 

《見よ、新しいことをわたしは行う》

 

新しい年を迎えて、新たな気持ちでスタートをしたい、そう私たちは思います。一方で、私たちには昨年からのさまざまな悩み事、心配事、悲しみや辛い気持ちを引き継いで、こうして新年を迎えています。それらのことを簡単にリセットすることはできません。さまざまな課題を大切に受け継ぎ、抱えながら、私たちはいま2017年を迎えています。

 

本日の聖書箇所のイザヤ書43章にこのような言葉がありました。1819節《初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。/見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている》。預言者のイザヤという人が苦難の中にあるイスラエルの民に語った言葉です。

 

初めからのことを思いだすな。昔のことを思いめぐらすな》――イザヤはそう言って、過去ではなく、今日という日、今という瞬間に心を向けるべきことを語ります。

 

《昔のことを思いめぐらすな》というのは、過去を水に流せ、ということではないでしょう。過去をすべてリセットして、白紙にしろ、ということではないと思います。私たちは過去に起こったこと、過去に自分がしてしまったことに責任があります。

 

 しかし一方で、過去のことをばかり考え続けてしまうのもまた問題です。私たちは時に、過去に囚われてしまうあまり動けなくなってしまうことがあるからです。私たちはすぐに過去に囚われ、後悔や思い悩みを繰り返し、自分の心と体から健やかさを失わせてしまっています。自覚的に、また無自覚に、わたしたちは神さまから与えられたこの大切な心とからだを痛めつけています。それは、神さまの願うことではありません。

 

 イザヤは私たちが心を向けるべき事柄には、順序があるのだということを伝えています。私たちがまず第一にまなざしを向けるべきは、いまこの瞬間私たちに向けられている神さまの言葉であることを伝えています。《見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている》――。

 

 

 

いまこの瞬間の神さまの愛の言葉 ~《わたしの目に、あなたは価高く、貴い》

 

 本日の聖書箇所の少し前に、次の言葉が語られています。4節「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」。いまこの瞬間、あなたという存在に向けられている神さまの愛の言葉です。あなたという存在は、神さまの目から見て、かけがえなく貴い存在である、ということ。この神さまの愛の言葉こそが、本日の聖書箇所の根底を貫いている言葉です。今、私たちの内に芽吹き始めている神さまの言葉です。

 

私たちがまず第一にすべきことは、この神さまの愛の言葉に心を開くことです。いまこの瞬間の神さまの愛に私たちが満たされるからこそ、過去の過ちも率直に受け止めることができるようになってゆくのではないでしょうか。過去の自分に、そして未来の自分に責任をもって向かい合うことができるようになってゆくのではないでしょうか。

 

 

 

まなざしの転換 ~過去から新しい未来へ

 

先ほど弟子のペトロについて少し触れましたが、もしペトロが過去にのみ目を向けていたら、自分自身を責めるあまり、生きてゆくことはできなかったのではないか、と思います。ペトロにとって、愛する主を「知らない」と拒絶してしまった過去は、決して消すことはできないものであったでしょう。思いだす度に激しく泣かざるを得ないほど、辛い記憶であったことでしょう。けれどもペトロは、復活の主に出会い、まなざしが転換する経験をしました。過去の自分の過ちではなく、いまこの瞬間自分に注がれている神さまの愛を知る経験をしたのです。

 

自分では決してゆるされることがないと思っていた過ちを、主イエスはゆるしてくださっていました。主イエスははじめからすべてをゆるし、十字架におかかりになってくださいました。それほどまでに、主イエスは私たちを愛して下さっていた。その真実を知らされ、ペトロは再び、泣き崩れたかもしれません。しかしその涙はもはや後悔の涙ではなく、主の深い愛に心打たれたことによる涙でした。この主の愛に出会い、ペトロは初めて、心から、自分の過ちを過ちとして受け入れることができるようになったのだと思います。そして新しい未来に向かって一歩を踏み出してゆきました。

 

「わたしの目に、あなたは価高く、貴い」――神さまがこう呼びかけてくださっているからこそ、私たちの心は過去に囚われた状態から、新しい未来へと向き直り始めます。神さまは、私たちが喜びをもって生きてゆくことをこそ願ってくださっていると信じます。

 

「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――新しい年のはじめ、いま、私たち一人ひとりに向けられているこの神さまの愛の言葉に、心を開きたいと願います。