2017年1月29日「まっすぐにあなたの道を」

2017129日 主日礼拝

聖書箇所:詩編5

「まっすぐにあなたの道を」

 

 

詩編5113節《指揮者によって。笛に合わせて。/賛歌。ダビデの詩。/

主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。/

わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。/あなたに向かって祈ります。/

主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。/朝ごとに、わたしは御前に訴え出てあなたを仰ぎ望みます。/

あなたは、決して逆らう者を喜ぶ神ではありません。/悪人は御もとに宿ることを許されず/

誇り高い者は御目に向かって立つことができず/悪を行う者はすべて憎まれます。/

主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし/流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。/

しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。/

主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。/わたしを陥れようとする者がいます。/

彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。/

神よ、彼らを罪に定め/そのたくらみのゆえに打ち倒してください。/彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。/彼らを追い落としてください。/

あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。/御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。/

主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます

 

 

 

詩編の「嘆きの歌」

 

今年度から、月に一度、旧約聖書から説教をしています。いまご一緒に読み進めているのは旧約聖書の詩編です。詩編は、古代イスラエルの人々による神さまへの賛歌を集めたものです。今から2千数百年もの前の詩、古いものになると3000年近く前の詩も含まれています。詩編の詩は今日に至るまで、無数の人々から愛され、大切に受け継がれてきました。

 

詩編の中には、さまざまな種類の歌が収められています。神さまを賛美する歌、信頼する歌だけではなく、私たちの嘆き苦しみを率直に表した歌――「嘆きの歌」も含まれています。詩編において、実におよそ全体の三分の一もの分量をこれら嘆きの歌が占めていると言われます。

 

私たちはこれら嘆きの歌を読むとき、そこに自分自身の嘆き苦しみ、辛さ、悲しみを見いだすことがあります。まるで自分自身の苦しみが歌われているように感じるのです。だからこそ、詩編は時代を超えて人々から切実に求められ、魂の慰めの書となり続けてきたのでしょう。

 

先ほどご一緒に詩編の5編をお読みしました。こちらも、嘆きの歌の一つです。歌の歌い手の「わたし」は切実な調子で、神さまの前に自分の苦しみを訴えています。23節《主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。/わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。…》。

 

場所は、ユダヤ教の聖所である、エルサレム神殿の境内がイメージされています。神殿の境内で、「わたし」は、懸命に神さまに自分の苦境を訴えています。この冒頭の言葉から、歌い手の「わたし」がいかに現在切羽詰まった状態にあるかが伝わってきます。もはや祈りの言葉にもならないような、まるで「つぶやき」のような、声にならない呻きを携えて、「わたし」は神さまの前に立っています。

 

 

 

嘘や偽りの言葉によって傷つけられ

 

では、詩編5編の「わたし」は、どのような苦しみを経験していたのでしょうか。それは、「嘘や偽りの言葉によって傷つけられる」という苦しみでした。「根拠のない誹謗中傷を受ける」という苦しみです。7節《主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし/流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます》、910節《…わたしを陥れようとする者がいます。/彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵》……。

 

旧約聖書では、偽りの証言をすることは、厳しく禁じられています。よく知られた十戒の第九戒には、《隣人に関して偽証してはならない》という戒めがあります(出エジプト記20章16節)。この戒めの元来の意味は裁判において、隣人に関して、偽りの証言をしてはならないということでした。古代イスラエルでは、偽証をすることは、神の名によって固く禁止されていました。場合によっては相手の生命を左右し得る事柄であったからです(出エジプト記2312節、レビ記1916節)。しかし、詩編5編の「わたし」は偽りの証言によって、危機にさらされていました。たとえ十戒で禁じられていても、それが実際には守られていないという現状があったのでしょう。

 

新約聖書のヤコブの手紙という書には、次のような辛辣な言葉があります。《…舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。/御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。/舌は火です。舌は「不義の世界」です。…舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。/わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。/同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。…(ヤコブの手紙3510節)

 

 

 

相手を貶める「嘘」の情報を流すことは、尊厳を傷つけること

 

先ほど、詩編ははるか大昔に作られた歌であるということを述べました。けれども、このはるか昔に作られた歌が、現代に生きる私たちの苦しみとつながっているように思います。私たちもまた、日々の生活の中で、嘘をつかれて傷ついたり、誹謗中傷を受けて傷ついたりするということがあるからです。陰で悪口を言われて、しかも事実を歪められた形で自分の悪口が言われているのを伝え聞いて、深く傷ついたという経験が皆さんにもおありではないでしょうか。

 

最近はインターネットのSNSの発達により、面識のある人からのみならず、見知らぬ人から誹謗中傷を受けるということもあります。パソコンやスマホの普及により、私たちは以前よりもさらに、言葉によって人から傷つけられる機会、また言葉によって人を傷つけてしまう機会が増えています。

 

また事実ではないニュース、いわゆる「デマ」ニュースがSNSを通して不特定多数の人々に拡散されるということも起こっています。それは不注意による事実誤認によって、ということもあるでしょうし、また意図的に「嘘」の情報が流されるという悪質なケースもあるでしょう。

 

つい最近12日)MXテレビの『ニュース女子』という番組で、沖縄の基地反対運動に対して意図的に虚偽の情報が流された、ということがありました。事実を伝えねばならないメディアが、事実に基づかない「嘘」の情報を伝える番組を作成したという、極めて悪質な事件です。沖縄の基地反対運動をする人々を「貶める」意図をもって、番組を観た視聴者が基地反対運動に取り組む人々に対して「ネガティブな印象を受け取る」ように、情報操作がなされていました。現在、多方面からこの番組に対して抗議の声が挙げられています。

 

番組の中で名指しで誹謗中傷を受けた辛淑玉(シン・スゴ)さんが寄稿された文章を読みました。基地反対運動を支援してきた市民団体「のりこえねっと」のメンバーの方です。文章を読んで、辛さんがこの度の事件によって心身ともにどれほど深く傷つけられたか、ということが切実に伝わってきました。冒頭はこのような文章で始まっています。《1月2日に放送されたTOKYO MX「ニュース女子」は、とにかくひどかった。/見ていて、こみ上げる怒りを抑えるのがこれほど難しかった経験はかつてなかった。胃液があがってきて、何度も吐いた。その後も、何げない会話の中で突然涙が出てきたり、幾日も眠れぬ夜を過ごし、やっと眠れたと思えば悪夢にうなされた。/私が、この番組の放つ悪意に冷静に向き合えるようになるまでには、時間が必要だった。友人や報道陣からの問い合わせに簡単な返信すらできなかったことを、この場を借りておわびしたい。/いま、可能な限り、私の思いを言葉にしてつづりたいと思う。…》(『沖縄タイムスプラス』より、http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/81679。この冒頭の文章からも、この度のテレビ番組がいかに辛さんの心身を深く傷つけたかということが分かります。

 

この度の番組の内容は沖縄の人々、また在日韓国・朝鮮人の人々に対する「ヘイトスピーチ(差別的憎悪の扇動表現)」であり、はっきりとした人権侵害に相当します。このような、人の尊厳を傷つける言動を、私たちは容認することはできません。

 

相手を貶める「嘘」の情報が流されるということは、ネット上で、雑誌やテレビの中で、また私たちの身近なところで、至るところで起こっているということができるでしょう。それら言葉は人の尊厳を傷つけ、魂の深い部分を傷つけます。時に、人の生命を奪うものにさえなり得ます。

 

先ほどの新約聖書のヤコブの手紙の言葉にもありましたように、舌を完全に制御できる人はいません。自分自身もまた、そのような人の尊厳を傷つける言葉を発してはいないか――意図的に、または無自覚に――、また、そのような言動に対して黙認、容認する姿勢をとってしまってはいないか、よくよく吟味する必要があります。

 

 

 

神は「正しい方」 ~尊厳がないがしろにされることを決しておゆるしにならない

 

詩編5編の「わたし」も、事実とは異なる虚偽の証言をされ、深く傷ついていました。尊厳を傷つけられ、心身ともに、深い谷の底に投げ込まれているような状態であったのではないかと想像します。しかし、詩編5編の「わたし」は泣き寝入りするのではなく、自分の苦しみを懸命に神に訴えています。神さまは、人間の不正を決して見過ごしにすることはなさらない、自分の嘆きを必ず聞き届けてくださる「正しい方」だと信じていたからです。

 

旧約聖書では、神さまが「正しい方」であることを繰り返し述べています。神さまは、不当な苦しみを受ける人の叫びを決して見過ごしになさらない。本日の詩編5編でも《あなたは、決して逆らう者を喜ぶ神ではありません》との信頼の言葉が述べられています。

 

神の「正義」とは、神さまは「人間の尊厳がないがしろにされることを、決しておゆるしにならない」ということです。この神さまの正義が、旧約聖書と新約聖書全体を貫いています。

 

イエス・キリストは、「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴いということ」という真理を伝えてくださいました。一人ひとりに、神さまからの尊厳が与えられているということを伝えてくださいました。その神さまからの尊厳をないがしろにする行為は決してゆるされない――これが、イエス・キリストが伝えてくださっている「正義」です。

 

一人ひとりが神さまの目からみてかけがえなく貴い。だからこそ、その大切なあなたが偽りの言葉によって不当に傷つけられてはならないし、また、誰かを不当に傷つけてもいけない。「一人ひとりの命と尊厳が守られること」こそ、神さまが何より願ってくださっていることです。

 

 

 

まっすぐにあなたの道を

 

「一人ひとりの命と尊厳が守られること」、そのことを実現するための歩みに、私たち一人ひとりが招かれています。それは「宗教」というより、「道」と呼ぶのにふさわしいでしょう。キリスト教というより、キリストの道です。私たちは共に「この道」を歩むようにと招かれています。

 

 本日の詩編5編には次の一節がありました。9節《主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください》。

《まっすぐにあなたの道を歩ませてください》の「まっすぐに」と訳されている言葉は、でごぼこの地面を「平らにする」という意味も持っています。

 

私たちのいまの社会は、道が見失われた状況にあるように思います。道が見えない――それが私たちのいまの状況です。目の前にあるのは、でこぼこの、砂や泥に埋もれた、どこが道であるかよく分からないような、道なき道です。嘘の言葉、偽りの言葉、人を貶める言葉、差別的な言葉、否定的な言葉が溢れる、道なき道。そのように道が見えない状況にあっても、キリストの道はすでに私たちの間に「まっすぐに」通されています。

 

私たちが嘘偽りの言葉ではなく、真実の言葉に立ち返るとき、その道は再び私たちの目に見えてくることでしょう。そのとき、でこぼこの地面は「平らにされ」、「まっすぐにされ」、次の一歩が見えてきます。私たちがそのように、一歩一歩を歩むことを通して、キリストの道は私たちの目によりはっきりと見えるものとなってゆきます。

 

嘘偽りの言葉、人を貶める言葉の渦の中で、どこに道があるのか分からなくなったときは、また、人々の悪意の中で自分という存在が見失われそうになったときは、次の神さまの言葉を思い出したいと思います。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している(イザヤ書434節)。この神さまの愛の言葉こそ、一切の嘘偽りのない真実の言葉であり、私たちの次の一歩を導く羅針盤であると信じています。

 

神さまの目から見ると、一人ひとりがかけがえなく貴い。だからこそ、あなたという存在は決して失われてはならないのです。あなたが幸福に、喜びをもって生きる権利は、決して奪われてはなりません。かけがえのない一人ひとりが、幸福に、喜びをもって生きる権利は、決して奪われてはなりません。キリストが指し示してくださっているのは、この正義を実現してゆくための道です。

 

キリストが指し示してくださっている「この道」を、ご一緒に歩んでゆきたいと願います。《主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください》。