2017年10月1日「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」

2017101日 花巻教会 召天者記念礼拝

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二41618

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」

 

 

 

コリントの信徒への手紙二41618だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。/わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。/わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです》。

 

 

 

召天者記念礼拝 ~天に召された愛する方々を覚えて

 

本日はご一緒に召天者記念礼拝をおささげしています。

私たち花巻教会は昨年の召天者記念礼拝から1年の間に、愛する方々を天にお送りしました。

昨年1019日、花巻教会を長らく牧会くださった𠮷川文子先生が神さまのもとに召されました。84歳でした。𠮷川先生は1973年から1995年まで主任担任教師として、1995年から1997年までは担任教師として教会をお支え下さいました。1022日、高幡教会にてご葬儀が執り行われました。

1210日、花巻教会の教会員である奥山ツタさんが天に召されました。数え年で99歳でした。1213日に花巻教会にてご葬儀が執り行われました。

今年の14日、教会員である上野裕子さんが天に召されました。61歳でした。17日に花巻教会にてご葬儀が執り行われました。

417日、教会員である三田照子さんが天に召されました。99歳でした。 429日に私の司式により花巻葬祭センターにてご葬儀が執り行われました。

51日、教会関係者である照井本實さんが天に召されました。85歳でした。57日に、私の司式により花巻葬祭センターにてご葬儀が執り行われました。

 

𠮷川文子先生、奥山ツタさん、上野裕子さん、三田照子さん、照井本實さんのご遺族の皆様の上に、つながりのあるすべての方々の上に、主よりの慰め、お支えをお祈りしております。

 

 また本日、天に召された愛する方々を覚えてこの礼拝に集われたお一人お一人の上に、主よりの慰め、お支えがありますようお祈りいたします。

 

                                                                         

 

讃美歌「主よ、みもとに」

 

 先ほどご一緒に讃美歌434番「主よ、みもとに」を賛美いたしました。愛唱賛美歌されている方もいらっしゃることでしょう。1番の歌詞《主よ、みもとに近づかん。/十字架の道 行くとも、/わが歌こそ、わが歌こそ、/「主よ、みもとに近づかん」》。

 

三田照子さんも生前、この讃美歌をご自分のご葬儀のときに歌ってほしいとおっしゃっていました。ご存じのように、タイタニック号が沈没するときにこの讃美歌が歌われたという伝承があります。そのこともあって、照子さんはこの歌がお好きであったようです。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出て来ることで、花巻市民の方々にもこの讃美歌は広く知られていることと思います。

 

この讃美歌が作られたのは19世紀の半ば、作詞者はサラ・アダムス18051848年)という方、作曲家はローウェル・メーソン17921872年)という方です。詞のもととなっているのは、旧約聖書『創世記』のヤコブの夢の場面(創世記281022節)です。

 

それはこのような物語です――逃亡の旅の途中、ヤコブは一つの石を枕にして眠ります。ヤコブはそこで不思議な夢を見ます。それは、先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、そこを天使たちが上り下りしているという夢でした。

見ると、ヤコブの傍らに神ご自身が立っておられ、彼に祝福と約束の言葉を語りかけられました。

《…見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない》15節)

眠りから覚めたヤコブは、夢を通して神さまが自分に出会ってくださったことを知ります。その記念として、枕にしていた石を記念碑とします。そうしてその場所を「べテル(神の家)」と名付けました。

 

この物語を踏まえて、改めて2番からの歌詞を味わってみたいと思います。

 

2番《さすらう間に 日は暮れ/石にまくら するとも、/夢にもなお、夢にもなお、/主よ、みもとに近づかん》。

3番《天よりとどく かけはし、/われをまねく みつかい。/恵みうけて、恵みうけて、/主よ、みもとに近づかん》。

4番《目覚めてのち、ベテルの/石を立てて 捧ぐる/祈りこそは、祈りこそは、/「主よ、みもとに近づかん」》。

5番《天翔けゆく つばさを/与えらるる その時/われら歌わん、われら歌わん、/「主よ、みもとに近づかん」》。

 

 

 

天の階段のビジョン ~あなたは独りではない

 

 逃亡の旅を続けていたヤコブは、夢の中で、天と地を結ぶ階段のビジョンを見ました。印象的であるのは、創世記のこの箇所において、「天から地に向かって伸びる階段」として描かれていることです。それは、天の方から私たちに向かって伸ばされた階段であるのですね。

 

 私たちが神さまのもとに近づくより先に、まず、神さまが私たちのもとに近づいてくださっているのだ、と受け止めることができます。私たちのすぐそばにまで。神さまはこの天の階段の幻を通してヤコブに伝えます、「私はいつもあなたと共にいる。あなたは独りではない」と。

 

 天と地とをつなぐ架け橋――それは終わりの日に私たちが上ることができるものであるだけではなく、日々の生活の中で、いつも私たちと共にあるものである、と受け止めることができるのではないでしょうか。目には見えないけれども、この架け橋はいつも私たちの傍に存在しているのです。

 

 ヤコブは、その階段を天のみ使いたちが上り下りしているのを見ました。天と地上に生きる私たちとの間には、絶えず何らかのメッセージの行き来があることが示されています。このみ使いたちの幻も、孤独感にさいなまれていたヤコブに対する神さまからのメッセージであったのはないでしょうか。この地上で独りで生きているように思っていたヤコブに対し、「私たちはいつもあなたと共にいる。あなたは独りではない」と主はお語りになりました。

 

夢を通してヤコブがそのことに気づいたとき、横たわっていた何でもない場所が、特別な場所となりました。枕にしていた何でもない一つの石が、大切な記念碑となりました。何でもない場所が、ヤコブにとってかけがえのない「ベテル(神の家)」となりました。

 

 

 

決して過ぎ去ることのない「愛のきずな」

 

 天と地を結ぶ階段――このビジョンを、本日は神さまと私たちを結ぶ「愛のきずな」として受け止めてみたいと思います。私たち一人ひとりに対して結ばれている「愛のきずな」です。このきずなは目には見えませんが、いつも私たちと共にあり、私たちを支え続けてくれているものです。

 

新約聖書のコリントの信徒への手紙二はこのように語ります。コリントの信徒への手紙二41618節《だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです》。

 

最後の部分で、《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです》と記されています。

 

 私たちが目を注ぐ、目には見えないけれども、決して過ぎ去らないもの――。それは、愛です。聖書はこの決して過ぎ去らない愛を私たちに伝えています。聖書はこのように語ります。《それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である》(コリントの信徒への手紙一1313節)。時に私たち自身はこの愛のきずなを見失っても、神さまご自身はこのきずなをお忘れになることはありません。

 

また、聖書はこのようにも語ります。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》(コロサイの信徒への手紙314節)

 

 

 

天にいる人々も、地上に生きる私たちも

 

私たちがこの愛に立ち返るとき、いまこの瞬間、目の前に、かけがえのないきずなに結ばれた世界が現れ出ます。神さまと私たちとを結び合わせるきずな、天と地とを結び合わせるきずな、私たちを互いに結び合わせているきずなです。

 

このきずなは、死をもってもなお、失われることはありません。この愛のきずなは、天に召された愛する人々と私たちとを結び合わせています。このきずなに結ばれ、天にいる人々も、地上に生きる私たちも、共に神さまの大いなる命の中を生きています。ですので、私たちは独りなのではありません。

 

どうぞこの礼拝を通して、私たちが天と地を結ぶ愛のきずなを心に刻むことができますようにと願います。