2017年10月22日「「天の国」のたとえ」

20171022日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書134458

「「天の国」のたとえ」

 

 

 

マタイによる福音書134458節《「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。/

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。/高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。/

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。/網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。/世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、/燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」/

 

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。/そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」/

 

イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、/故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。/この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。/姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」/このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、/人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった

 

 

 

「天の国」のたとえ

 

福音書の中には、イエス・キリストが語られたさまざまなたとえ話が記されています。いまご一緒にお読みしたのは、「天の国」についてのたとえです。

 

「天の国」とは、「神の国」と同じ意味の言葉です。マタイによる福音書は「神」という言葉を使うことを控え、かわりに「天」という言葉で言いかえる傾向があります。ですので「天の国」も「神の国」も、意味としては同じです。

本日の短いたとえ話では、「天の国(神の国)」がどのようなものであるかが語られています。

 

改めて、一つ目のたとえを読んでみましょう。44節《天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う》。

 

とても短いたとえ話ですね。あるところに《畑》があって、そこに《宝》が隠されている。見つけた人は踊る心を抑え、そのまま隠しておき、喜びながら帰って持ち物をすっかり売り払ってその《畑》をまるごと買い取る、というお話です。

 

短いですが、どのように解釈すればいいのか戸惑ってしまうものであるかもしれません。そもそも、《畑》は何を意味しているのか。《宝》とは何なのか。また、わざわざいったん家に帰って持ち物を売り払って《畑》ごと買い取るというやり方をしたのか。そんなことをしなくても、《宝》を見つけたとき、すぐにそれだけを持ち帰ればよかったのに、とも思ってしまいます。何だか謎だらけのたとえです。

 

 

 

私たちの内にある《宝》 ~神の愛

 

私もこの度改めてこの不思議なたとえ話を前に、想いを巡らしてみました。さまざまな解釈を引き出せることと思います。正解が一つではないところがたとえ話の良いところであると思いますので、皆さんも自分なりに想いを巡らしつつ、私の解釈を聞いていただければと思います。

 

まず《畑》とは何を意味しているのか。「私たち自身」を意味していると受け止めてみたいと思います。心だけではなく、この体も合わさった、「自分自身」です。その私たち自身の内に、《宝》が隠されている。そのように受け止めてみるといかがでしょうか。ですので、《畑》と《宝》とは切り離せない関係として記されているのではないかと思いました。「私たち自身」と《宝》とは切り離しがたく結びついているので、《宝》だけを取り出すことはできないのではないか、と。

 

では、「私たち自身」の内に秘められている《宝》とは何でしょうか。ここにも、色々な言葉を当てはめてみることができると思います。本日は、この《宝》は「神さまの愛」を意味していると受け止めてみたいと思います。

 

新約聖書にはこのような言葉があります。《それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である(コリントの信徒への手紙一1313節)。「信仰」と「希望」と「愛」。この三つはいずれもかけがえなく大切ですが、その中でも最も大いなるものは愛であると語られています。そして聖書は、その愛は、神の愛から生じているものであることを伝えています。《神は愛です(ヨハネの手紙一416節)――私たち一人ひとりは、この最も大いなるものである愛を内に携える存在であるのです。

 

にも関わらず、普段私たちはそのことを忘れ、別のもので自分自身の内側をいっぱいにしてしまっています。それは不安や恐れであったり、冷たい無関心であったり、怒りや嫉妬、執着であったりします。私たちは自分の内に宿された《宝》に心を向けることなく、それとは正反対のようなもので心を一杯にしまっていることが多いのではないでしょうか。

 

たとえ話で語られている、いったん家に帰って持ち物を売り払うという行動は、これまでの自分自身の生き方を見つめ直し、「愛」とは正反対の感情を少しずつ手放してゆくということを意味しているのでしょう。そして改めて《畑》を買い取る――すなわち、神さまの愛を携える者として、新しい生き方を始めてゆくことができるのだということが語られています。

 

 

 

一人ひとりの内に《宝》が

 

二つ目のたとえも、同じことを語っているのだと受け止めることができます。45節《また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。/高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う》。

 

《商人》が「私たち」、《高価な真珠》とは、「神さまの愛」。良い真珠を探し続けて来たけれども、あるとき、最も《高価な真珠》、愛に出会う。すると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。すなわち、「愛」とは正反対のもの――不安や恐れ、無関心、怒りや嫉妬、執着など――を手放し、神さまの愛を携える者としての新しい生き方を一歩一歩始めてゆくことができることが語られています。

 

 ここで確認しておきたいことは、この《宝》は、一人ひとりの内に宿されているということです。「早いもの勝ち」のようにして競争で勝ち取らねばならないものではなく、数が限られた「限定品」としてあるのでもありません。それぞれが自分自身の《畑》を見つめてゆくときに、必ずこの《宝》に出会います。神さまは私たち一人ひとりを、かけがえなく貴い存在として見つめてくださっているからです。

 

 

 

愛に根ざした想いはいつまでも残る

 

では、最後の三つめのたとえ話はどうでしょうか。三つめのたとえ話は、これまでお話しした二つのたとえ話とはまた雰囲気が異なります。何だか恐ろしいようなたとえで、これまでこれまでの二つのたとえと矛盾することが語られているのではないかとも思ってしまうものです。

 

4750節《また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。/網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。/世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、/燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう》。

 

いわゆる「最後の審判」のイメージさせるたとえ話です。ここで、《良いもの》と《悪いもの》を、私たち人間を指し示すものとして捉えてしまうと、とたんに恐ろしいたとえになってしまうでしょう。実際にそのように解釈して、この世界には「良い人間」と「悪い人間」がいて、「悪い人間」は最後に神の裁きに遭い、地獄に落ちる、というような解釈をしてしまう場合もあるかと思います。

 

しかしこのたとえはそのように解釈するのではなく、《良いもの》と《悪いもの》を、私たちの内にある「良い想い」「悪い想い」として受け止めた方がよいのではないかと思います。人の心の内には「良い想い」もあれば「悪い想い」もあります。「良き想い」とは、「愛に根ざした想い」と言いかえることができるでしょう。

 

愛に根ざした想いは、いつまでも残ります。愛に根ざしていない否定的な想いは神さまによってより分けられ、最後には火の中に投げ込まれ消えてしまいます。このたとえ話は私たちが自分の心の中がどのような想いでいっぱいになっているのか、よくよく吟味してゆくべきことを教えてくれているのではないでしょうか。

 

 

 

主の愛があるところ、そこが「天の国」

 

新約聖書に次の言葉があります。《どうか、御父が、/…信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように(エフェソの信徒への手紙31617節)

 

 ここでは、「愛に根ざす」とは、「私たちの内に生きておられるキリストの愛に根ざす」ことであることが語られています。

 

「内住のキリスト」という言葉があります。「内住」というのは「内に住む」と書きます。私たち自身の内によみがえられたキリストが生きておられることを示す言葉です。

 

私たちの心の内の不安や恐れよりさらに深いところに、キリストはおられます。 耳を澄ますと、自身の存在の深みから、キリストの言葉が聴こえてくるでしょう。「わたしは、あなたを愛しています」という声が。 この声こそ、私たち一人ひとりに対する神さまの愛の言葉です。

 

この一言を私たちに伝えるために、イエス・キリストは生前、その生涯をささげてくださいました。そしてその生涯の最後に、御自分の命をささげてくださいました。そしていま、私たち一人ひとりの内に生きておられ、「私の目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛しています」と語り続けてくださっています。

 

私たちはそれぞれ、この愛の言葉を携える者です。この主の愛とつながり、この《宝》を誰かと分かち合ってゆくとき、少しずつ「天の国(神の国)」は実現されてゆきます。主の愛があるところ、そこが「天の国」だからです。