2017年11月19日「主よ、あなたでしたら」

20171119日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書142236

「主よ、あなたでしたら」

 

 

 

マタイによる福音書142236節《それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。/群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。/ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。/夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。/弟子たちは、イエスが湖上を歩いておら                                                                    れるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。/イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」/すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」/イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。/しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。/イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。/そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。/舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。/

こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。/土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、/その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた

 

 

 

♪『ユー・レイズ・ミー・アップ』

 

『ユー・レイズ・ミー・アップ』という曲があります(作詞:Brendan Graham 、作曲:Rolf Løvland。アイルランド/ノルウェーのシークレット・ガーデンという二人組のミュージシャンの楽曲です。日本では、ケルティック・ウーマンというグループによるカヴァーが有名です。2006年のトリノオリンピックで荒川静香さんがこの曲をエキシビジョンで使用したことで、広く日本でも知られるようになりました。皆さんの中にもこの曲が好きな方がいらっしゃることでしょう。

 

「ユー・レイズ・ミー・アップ(You raise me up)」は直訳すると、「あなたは私を起き上がらせてくれる」という意味です。大切な人が一緒にいてくれることでどれほど強くなれるかを謳ったラブソングですが、何か宗教性をも感じさせるような、心打たれる歌詞になっています。

 

《あなたは私を起き上がらせてくれる、だから山の上にだって立てる(You raise me up, so I can stand on mountains)/あなたが私を起き上がらせてくれるから、嵐の海の上も歩ける(You raise me up to walk on stormy seas)/私は強くなれる、あなたの支えがある時(I am strong when I am on your shoulders)/あなたは私を起き上がらせてくれる、私が出来ると思う以上に(You raise me up to more than I can be)》。

 

 あなたは私を起き上がらせてくれる、だから山の上にだって立てる。あなたが私を起き上がらせてくれるから、嵐の海の上も歩ける――力強い歌詞ですね。

 

 この歌詞でいいなあと思うところは、愛する人に全幅の信頼を置きながら、同時に、しっかりと「私」がここにいる、ということです。愛する人に自分をまるごと委ねながらも、決して自分の主体性を失ってはいないのですね。山の上に立つのも、嵐の海を歩くのも、あくまで自分自身です。誰かが自分の替わりに高い山を登ってくれるのではないし、荒ぶる海を渡ってくれるわけでもない。けれども、自分にその強い力を与えてくれるのは、愛するあなた。あなたが一緒にいてくれるからこそ、私は強くなれるし、困難にも立ち向かってゆけるのだ、と。

 

 私の個人的な感じ方ですが、この曲を聴いているとふと、2000年前、復活のイエス・キリストと出会った人々のことを想い起こします。復活の主イエスと出会ったマリアや弟子たちは、このような心境であったのではないか、と想像します。

 

主イエスの悲惨な死を目の当たりにし、絶望のただ中にいた人々の魂は、復活した主イエスとの出会いによって、再び起き上がりました。主イエスのお姿は確かに目には見えなくなったけれど、いつも共にいて、支えて下さっている――このことを知ったマリアや弟子たちの魂は再び起き上がり、新しく歩み出す力を与えられてゆきました。よみがえられた主イエスが共にいてくださるから、私たちは山の上にだって立てる、嵐の海の上も歩ける。そのような心境になることができたのではないか、と想像します。『ユー・レイズ・ミー・アップ』という曲を聴いているとふと頭にこのような情景が浮かんでくるのですが、もちろん、これは私の個人的な感想です。

 

 ちなみに、「復活」を意味するギリシャ語は元々は「起き上がる」「立ち上がる」を意味する言葉です。聖書が伝える復活の出来事とは、イエス・キリストが暗い墓の中から「起き上がった」出来事であると同時に、遺された人々の心が「再び起き上がった」出来事でもありました。復活の主と出会ったことにより、起き上がれないでいた心が、再び起き上がったのです。そうして、「復活の主と共に生きる」という新しい生き方を与えられていきました。

 

 

 

嵐の湖の上を歩く

 

 先ほどお読みした聖書箇所は、主イエスと弟子のペトロが嵐の湖の上を歩くという場面です。いわゆる「奇跡物語」の一つですが、現代を生きる私たちからすると、どう受け止めたらよいのか戸惑ってしまう場面であるかもしれません。このような不可思議な出来事が「あり得るか」「あり得ないか」ということだけにとらわれるのではなく、この物語がいまを生きる私たちにどのようなことを語りかけているのかをご一緒に聴き取ってゆきたいと思います。

 

先ほど『ユー・レイズ・ミー・アップ』の歌詞を聞いて、この場面を想い起こした方もいらっしゃるのではないでしょうか。《あなたは私を起き上がらせてくれる、だから山の上にだって立てる。あなたが私を起き上がらせてくれるから、嵐の海の上も歩ける》。この歌詞を作詞した方も、もしかしたらこれら聖書の描写にインスピレーションを受けていたのかもしれません。

 

本日の場面において、弟子のペトロは嵐の湖の上を歩こうとします。ふと怖くなって沈みかけてしまうのですが、その一歩を踏み出すことができたのも、愛する主イエスが「共にいてくださる」と信じることができたからこそでした。

 

 

 

主よ、あなたでしたら ~主が共にいてくださるから

 

本日の物語の舞台となっているのは、ガリラヤ湖という湖です。パレスチナの北部に位置し、上空から見ると楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちをしています。南北に21キロメートル、東西に13キロメートルの大きさです。湖のまわりには町が点在しており、人々は舟にのって町から町へ移動をすることができました。

 

 先週は「五千人の供食」の場面をごいっしょに読みましたが、その出来事が起こった後、主イエスは弟子たちを舟で向こう岸へと先に向かわせました。主イエスご自身は舟には乗らず、祈るために山に登れました。

 

先に舟にのった弟子たちは主イエスの指示通り向こう岸に渡ろうとしましたが、逆風のためになかなか前に進むことができませんでした。ガリラヤ湖は地形の構造上、陸の方から突風が吹きつけて来ることがあったそうです。漁師であったペトロたちといえども、その逆風は如何ともしがたかったようで、長い間舟を漕ぎ悩んでいました。

 

夜が明けるころ、弟子たちは不思議な光景を目にしました。人間のような存在が湖の上を歩いて、自分たちのところへやって来ようとしています。弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。そのときはまだ、その存在が主イエスであるとは分からなかったのですね。

 

すると、主イエスの声がします。《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない27節)。幽霊だと思った存在は主イエスであったことに弟子たちは気づきはじめます。「安心しなさい」という言葉は、「勇気を出しなさい」とも訳すことのできる言葉です。勇気を出しなさい。わたしだ。恐れることはない。

 

主イエスが共にいてくださることを知らされた弟子たち。逆風に悩まされ疲れ果てていた彼らたちの心に、再び力が湧いてきます。ペトロは主イエスに答えました。《主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください28節)

不思議な言葉ですが、何か心が打たれる言葉です。主よ、あなたでしたら――主よ、愛するあなたが共にいてくださるなら、荒ぶる海の上も歩くことができます。逆風のただ中でも、一歩を踏み出すことができます。私に命じて、そちらに行かせてください。そのようなペトロの想いが伝わって来るようです。

 

主イエスはペトロの言葉に応えて、《来なさい29節)とおっしゃいました。ペトロは勇気を出して、舟から水の上へと足を踏み出しました。他でもない、自分の足で。逆風の中を、困難の中を、ペトロは新たな一歩を歩み出すことができたのです。

 

 

 

たとえ私たちが主を見失っても、主は私たちを見失われない

 

 本日の箇所で面白いのは、ペトロの弱さも率直に描いているところですね。そのように主イエスへの信頼をもって歩み出したペトロでしたが、しばらく歩いたところでふと強い風に気づいて怖くなり、水の中に沈みかけてしまいます。勇気をもって歩み出しても、ふと怖くなってしまう。何だかペトロという人が身近に感じられますね。私たちもまた、信頼をもって、勇気をもって、自分の足で歩み出しても、ふと立ち止まって怖くなってしまうことがよくあります。

 

ペトロは思わず、《主よ、助けてください30節)と叫びました。すると主イエスはすぐに手を伸ばしてペトロを捕えてくださいました。主イエスがすぐ近くでペトロを見守ってくださっていたということが分かります。

 

ペトロを抱きとめながら、主イエスはおっしゃいました。《信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか31節)。二人が舟に乗り込むと、すっかり風は静まりました。舟の中にいた弟子たちは、《本当に、あなたは神の子です33節)と言って、主を拝みました。

 

《信仰の薄い者たち》という表現が出てきました。マタイによる福音書独特の表現で、直訳すると「信仰の小さい者たち」という意味の言葉です。否定的な印象も受けますが、見方を変えると、肯定的な表現であるようにも受け取れます。信仰が小さくなってしまったけれども、信仰がないわけではないからです。「あなたは不信仰だ」とは言われていない。あなたは信仰を確かに持っている、しかし一時的にそれを小さくしてしまっているだけだ――。この表現からは、何か私たちをフォローしてくれているような印象も受けます。

 

「信仰」という言葉は、原文では「信頼」という意味ももっています。ここでペトロが一時的に見失ってしまったのは、「主が共にいてくださる」ことへの信頼でした。強い風が吹いてくる中で、恐れの中で、その信頼を見失ってしまった。けれども、そのペトロを主イエスはしっかりと捕まえてくださった。たとえ私たちが主を見失っても、主ご自身は決して私たちを見失われることはないのだということが語られています。

 

 

 

安心しなさい。わたしだ。恐れることはない

 

 私たちは日々の生活の中で、さまざまな逆風に遭うことがあります。広い海の真ん中をさまよっているような不安を覚えることがあります。困難の中で疲れ果て、座り込んでしまうことがあります。 

 

しかしどんなときも、主は私たちを見失うことなく、共にいてくださいます。嵐の湖の上を歩いて、私たちのそばにまで来て下り、《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》と語り続けてくださっています。この主のお姿は、幻でも、幽霊でもありません。主は確かにいま生きておられ、私たちと共にいてくださっています。だからこそ、私たちは強くなることができます。たとえ目の前が荒ぶる水面であっても、自分のこの足で、一歩を踏み出すことができます。

 

主の愛を信頼し、今日という日、それぞれが新しい自分の一歩を踏み出してゆきたいと願います。