2017年11月26日「主が捕われ人を連れ帰られるとき」

20171126日 主日礼拝・収穫感謝日・謝恩日

聖書箇所:詩編14

「主が捕われ人を連れ帰られるとき」

 

 

詩編1417節《指揮者によって。ダビデの詩。/

 

神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。/

 

主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。/だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。/

 

悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/主を呼び求めることをしない者よ。/そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。/貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても/主は必ず、避けどころとなってくださる。/

 

どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう

 

 

 

収穫感謝日、謝恩日

 

本日は、日本キリスト教団の暦では「収穫感謝日」にあたります。教会によっては、お米や野菜、果物を会堂の前に並べて礼拝をささげるところもあります。本日は、講壇のお花も野菜になっていますね。

 

先日行った夕礼拝では、収穫感謝を主題として礼拝を行いました。東和町で農園(わらしべ農園)を営んでいる柳谷励子さんに証しをしていただきました。スクリーンに映しているのは、そのときの様子です(←)。励子さんが持ってきてくださった穫れたての作物を聖餐卓の上に並べ、礼拝をおささげしました。

 

神さまの豊かな恵みによって、日々の私たちの生活が支えられていることへの感謝をご一緒に新たにしたいと思います。

 

また本日は、日本キリスト教団の暦で「謝恩日」にもあたります。謝恩日は牧師を隠退された先生方のこれまでのお働きを感謝する日のことを言います。私たちの教団ではその感謝の思いを具体的に「謝恩日献金」というかたちで表し、隠退された先生方とご家族の生活をお支えするということをしています。謝恩日献金は退職年金の財源となるもので、現職の牧師の隠退後の生活を支えるためにも用いられます。お祈りにお覚え下さい。

 

 

 

賛美歌『主の恵みゆたかなり』

 

先ほどご一緒に『主の恵みゆたかなり』(388番)という収穫感謝の賛美歌を歌いました。1番《主のめぐみ ゆたかなり。/冬の雪、春の風、夏の雨 めぐる間に/実りゆく 秋の幸》。こちらは中国でつくられた賛美歌の一つです。私もこの度、はじめてこの曲を選んでみました。作詞は趙 紫宸(チャオ・ツーチェン)という方、メロディは儒教の賛歌から取られているそうです。メロディの雰囲気がヨーロッパやアメリカでつくられた賛美歌とはまた違っていますね。

 

3番の歌詞はこのようなものでした。《大いなり、主の恵み。/この土に いま立ちて、/米粒に宿る愛 手に受けて、主をたたえん》。

《米粒に宿る愛》という表現も、アジアでつくられた賛美歌ならではのものですね。私たち日本に住む者にとっても、共感できる表現となっています。

 

 日本語訳においては、1番と3番の間に新たに2番の歌詞が付け加えられています(参照:『讃美歌21略解』、日本キリスト教団出版局、1998年、244245頁)2番《涙もて 蒔く人の/苦しみを 主は祝し、/喜びの歌をもて 刈り入れのときは来ぬ》。

 

旧約聖書の詩編126編の言葉に基づいた歌詞です。詩編12656節《涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。/種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる》。

 

涙と共に種を蒔いた人は、喜びの歌と共に刈り入れる――古代イスラエルの人々の神さまへの信仰が美しく表現されています。この詩編126編の言葉を人生の支えとしてこられた方もたくさんいらっしゃることでしょう。詩編126編に基づいたこの2番が付け加えられることによって、1番と3番の歌詞の内容がさらに感慨深いものとして感じられてきますね。

 

1番《主のめぐみ ゆたかなり。/冬の雪、春の風、夏の雨 めぐる間に/実りゆく 秋の幸》。2番《涙もて 蒔く人の/苦しみを 主は祝し、/喜びの歌をもて 刈り入れのときは来ぬ》。3番《大いなり、主の恵み。/この土に いま立ちて、/米粒に宿る愛 手に受けて、主をたたえん》。

 

 

 

主が捕われ人を連れ帰られるとき

 

収穫感謝の賛美歌には、私たちの人生を重ね合わせることができます。私たちにはそれぞれ、涙と共に種を蒔いた経験があり、喜びの歌をもって刈り入れる経験があります。

 

私たちの人生においては、種を蒔くという作業が大半であるのかもしれません。種を蒔いても実りに至ること少なく、刈り入れの時はなかなか訪れないように思えてしまうかもしれません。しかし、いつの日が喜びの歌をもって刈り入れる時が来るのだという信仰と希望を詩編は伝えています。これは、聖書全体を支えている信頼であり、希望であるということができるでしょう。たとえいまは涙を流しているのであっても、涙で風景がにじむ中で、その向こうに喜びの歌をもって刈り入れている様子を仰ぎ見ているのです。

 

先ほどお読みした詩編14編でも、この信仰と希望とが語られていました。詩編147節《どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう》。

 

目の前にある現実はとても喜ぶことができないようなもの。しかしそれでも、いつか喜び祝う日が来るという信頼と希望とが謳われています。主が捕われ人が連れ帰られるとき、悲しみが喜びに変えられるときは必ず訪れるのだ、と。

 

新約聖書のヘブライ人への手紙はこのように語ります。111節《信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです》。

 

 

 

目の前にある現実を直視する中で

 

 聖書が語る希望というものは、私たちのまなざしを目の前にある現実から目を逸らさせるものではありません。そうではなく、現実を直視する中で与えられるのが、聖書が語る希望です。暗闇を見つめる中でなお失われないで輝いている光を聖書は指し示しています。

 

本日の詩編14編においても、私たち人間社会の暗部がこれでもかと見つめられています。詩編1423節《主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。/だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない》。神さまが天から人々を見渡されても、善を行う者を一人も見いだすことがおできにならないであろう、と述べられています。

 

この詩編において直視されているのは、社会的に弱い立場にある人々が搾取されているという現状でした。4節には《…パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/主を呼び求めることをしない者よ》と語られています。パンを食べるかのようにして、弱い立場にある人々をむさぼり、搾取している人々がいることが指摘されています。当時、経済的に富むものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなってゆくという社会の構造があったようです。そしてそれがそのままに見過ごされている現状があった。この悲惨さが見過ごされている限り、《善を行う者はいない。ひとりもいない》のだと詩編は語ります3節)。厳しく現実を見つめるまなざしがここにはあります。

 

 

 

それでも失われない光 ~神は苦しむ者たちの涙を決してお忘れにならない

 

この悲惨さを直視する中で、それでもなお失われない希望の言葉として語られているのが、最後の7節です。《どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう》。

 

この希望の土台となっているのは、主は正しい方であるという信仰です。神は人間の尊厳がないがしろにされることを決してお見過ごしにならない。苦しむ者たちの涙を決してお忘れにならない。神さまは弱く小さくされた人々と共にいてくださる方であることへの確かな信頼が、暗闇のただ中に光を見出すことをなさしめています。

 

 

 

「分かち合うこと」の喜び

 

詩編14編で語られている悲惨さは、「分かち合うことができない」ことからくるものであるということができます。与えられている恵みも、豊かさも、すべて自分だけのものにしようとしてしまう。それどころか、他者のものまで自分のものにしようとしてしまう。それは私たちのいまの社会でも同様ではないでしょうか。私たちのいまの社会もまた、同様の課題を抱えています。周囲と競争する中で何かを「勝ち取る」ことは教えられても、「分かち合う」ことはなかなか教えられる機会がないという現状があります。このような現状の中で私たちの心から平安は失われ、魂はますます空腹と渇きを感じるようになってゆきます。奪いとろうとすればするほど、心が満たされなくなってゆくのです。

 

 冒頭に述べましたように、本日は収穫感謝の日です。収穫感謝日は、神さまの恵みとは本来「分かち合うもの」であることを私たちに思い起こさせてくれます。この大地は、神さまのつくられたこの自然は、一部の人だけのものではありません。それらはすべて神さまのものであり、私たちはその贈り物を互いに分かち合うことによって生かされています。神さまの恵みを私たち人間が奪い合い、互いに傷つけあることは神さまの願っておられることではないでしょう。神さまは私たち一人ひとりが尊厳をもって生きること、喜びと楽しみと感謝の歌声(イザヤ書513節)をもって生きることをこそ願っていてくださいます。

 

 神さまの恵みは「分かち合うこと」によって、より豊かなものとなってゆきます。また喜びも大きくなってゆきます。私たちが互いに分かち合い、互いに支え合うことの中に、生きることの喜びがあります。私たちが互いに主の恵みを分かち合うとするとき、その瞬間、神の国は私たちの間に実現し始めています。

 

 収穫感謝日の今日、分かち合うことの喜びと感謝とを、ご一緒に新たにしたいと願います。