2017年11月5日「洗礼者ヨハネの最期」

2017115日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書14112

「洗礼者ヨハネの最期」

 

 

 

マタイによる福音書14112節《そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、/家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」/実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。/ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。/ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。/ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。/それで彼は 娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。/すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。/王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、/人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。/その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。/それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した

 

 

 

洗礼者ヨハネ

 

新約聖書にはヨハネという名前の人物が何人も登場します。聖書を初めて読んだ方はヨハネが何人もいて混乱してしまうかもしれません。洗礼者ヨハネ、12人の弟子の一人であるヨハネ(ゼベダイの子ヨハネ)、ヨハネによる福音書を記したとされるヨハネ(福音記者ヨハネ)、ヨハネの手紙を記したヨハネ(長老ヨハネ)、ヨハネの黙示録を記したヨハネ。他にもパウロの旅に同行していたマルコ・ヨハネという人物もいます。これらヨハネは全員別々の人物であるのか、何人か重複しているのかははっきりと分かっていません。これだけ何人もヨハネが出てきたら、確かに混乱してしまいそうですね。

 

ヨハネはヘブライ語表記ではヨハナン、英語表記ではJohn(ジョン)です。イギリスやアメリカではジョンはとてもポピュラーな名前ですね。私はビートルズが大好きですが、ジョン・レノンも「ヨハネ」なのですね。フランス語ではヨハネは、Jean(ジャン)です。ルターと並んで代表的な宗教改革者ジャン・カルヴァンも「ヨハネ」。ちなみに、私が牧師館で飼っているネコの一匹の名前は「ジャン」と言います。

 

先ほどお読みした聖書箇所に登場しているのは、洗礼者ヨハネです。この人物ははっきりと、他のヨハネたちと別の人物です。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが公の活動を開始するより前に、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼(バプテスマ)」を授ける活動をしていた人物です。当時、多くの人々がヨハネのもとに熱心に集い、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。主イエスもこのヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられました。

 

ヨハネは人々から「預言者」とみなされ、熱烈な支持を受けていました。彼の活動は次第に権力者たちから危険視されるようになり、ついにはガリラヤ領主ヘロデによって捕らえられ、命を奪われることとなりました。本日の聖書箇所で回想されているのはそのヨハネの最期の場面です。昔から絵画や文学の題材にもなってきた場面ですね。よく知られている作品としてオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』があります。

 

 主イエスはヨハネが捕らえられた後、ヨハネと入れ替わるようにして、公の活動を開始されました。まるでヨハネから大切なバトンを受け取るようにして――。

 

 

 

ヨハネの主イエスとの間の深いつながり

 

本日の聖書箇所の冒頭では、主イエスの評判を聞いた領主ヘロデが、ヨハネが死者の中から生き返ったのではないかと不安を感じる場面が記されていました。12節《そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、/家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

 

不安の中で、奇しくもヘロデは本質を言い当てたのだということができるでしょう。もちろんこれは、ヨハネが生まれ変わってイエス・キリストになったということではありません。ヨハネと主イエスは同時代の人ですから、生まれ変わるということはそもそも不可能なことです。そうではなく、ここではヨハネの「精神」とでも呼べるものが、主イエスの内で息を吹き返したように活き活きと働いていることが言われているのでしょう。ヘロデは直感的に、ヨハネと主イエスとの間の深いつながり、連続性を感じ取ったのです。

 

福音書は、洗礼者ヨハネをイエス・キリストの「先駆者」として位置づけています。これから到来されるまことの救い主の「道」を整え、その道筋をまっすぐにするため(マタイによる福音書33節)に遣わされた人物として位置づけられています

 

主イエスはヨハネからバトンを受け取るようにしてその精神を受け継ぎ、そしてさらにそれを完成させるために私たちのもとに来られました。

 

 

 

ヨハネが体現する預言者の精神

 

 では、洗礼者ヨハネの精神というものはどのようなものであったのでしょうか。

 

洗礼者ヨハネが登場した時代というのは、多くの人々が生きづらさを感じていた時代でした。社会が硬直化し、排他的になっている時代でありました。だからこそ、ヨハネの運動は一部の人々の心を捉えたのだということができます。ヨハネは社会が抱える問題点から目を逸らすことなく、その問題を鋭く指摘し続けました。

 

洗礼者ヨハネが批判したことの一つに、「エルサレム神殿を中心とする社会の体制」がありました。

 

当時、権力者たちは民衆から搾取して、多大な利益を得ていました。その構造の中心にあるのが、都市エルサレムであり、その中心にあるエルサレム神殿でした。指導者たちはエルサレム神殿にこもって熱心に祭儀(礼拝)を執り行う一方、神殿の外で苦しんでいる貧しい人々には目を向けませんでした。神殿で熱心に焼き尽くす献げ物などの神への献げものをささげているけれども、神殿の外で起こっていることにはほとんど無関心であったのです。

 

洗礼者ヨハネは都エルサレムから離れ、独り荒れ野で生活をしていました。中央と距離を置いた荒れ野での生活というスタイル自体が、「エルサレム中心主義」への批判となっているということができるでしょう。

 

「エルサレム神殿を中心とする体制」において、特にないがしろにされてしまっていたもの、それは、弱い立場にある人々の生活でした。そこには、一部の人々だけがより豊かになり、弱い立場にある人々はどんどん生活が苦しくなってゆくという社会の構造がありました。

 

旧約聖書の律法には元来、弱い立場にある人々、虐げられている人々こそを大切にしなければならないということが語られています。旧約聖書には祭儀(礼拝)に関する律法だけではなく、「人道的な律法」も記されているのですね。

 

人道的律法の中には、弱い立場にある人々の代表として、「奴隷」「貧しい人」「寄留者」「孤児」「寡婦」と呼ばれる人々が登場します(ゼカリヤ書710節、ヨブ記311323節など)。人道的律法では特にこれら弱い立場にある人々の存在を大切にしています。けれども旧約聖書の時代において、これら教えは権力者たちによって繰り返し踏みにじられました。それら不正義を厳しく批判したのが、アモスやイザヤなどの「預言者」と呼ばれた人々でした。

 

 たとえば預言者アモスは次のように神の言葉を取り次いでいます。《わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。/祭りの献げ物の香りも喜ばない。/たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても/穀物の献げ物をささげても/わたしは受け入れず/肥えた動物の献げ物も顧みない。/お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。/竪琴の音もわたしは聞かない。/正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ(アモス書52124節)

 

このような旧約聖書の預言者の精神を体現する人物として、――いわば旧約の最後の預言者としてヨルダン川のほとりに立った人物が、洗礼者ヨハネでした。

 

 

 

都市中心主義、経済第一主義の問題性

 

当時のイスラエルの状況をそのまま現在の日本の社会にスライドさせることはできませんが、少しイメージがしやすくなるようにあえて申しますと、たとえばそれを現在の「東京を中心とする社会の体制」と重ね合わせてみてはいかがでしょうか。東日本大震災と原発事故という大惨事が起こってもなお、政治において依然として首都圏に重点が置かれ、被災地は置いてけぼりにされているように感じてらっしゃる方は多いのではないでしょうか。2020年に開催される東京オリンピックはまるでその象徴のようにも思えます。

 

 これまで私たちの社会を形づくっていた「都市中心主義」とは、言い換えれば、「経済第一主義」とも言うべきものでした。経済的な発展ばかりを重視し、一部の地域に犠牲を強いる社会の構造が、遂には福島の原発事故を引き起こしたということもできます。原発事故という大惨事が起こってもなお、残念ながら、私たちの社会は方向性を変えることができていません。むしろ一部の人だけがより豊かになってゆき、弱い立場にある人々の生活はより苦しくなってゆくという不平等が加速している印象さえ受けます。一見力強く、かつ華やかに見える政策の背後で、多くの人々が苦しんでいる現状があります。

 

私たちはこれら現実から目を背けることをしてしまってはいないか。また私たち教会も、これら社会の構造がはらむ不正義から目を逸らしてしまってはいないだろうかと自問させられます。

 

 

 

小さく見える存在に目を注ぐことの大切さ

 

主イエスと洗礼者ヨハネを結ぶもの――預言者の精神。主イエスはヨハネから預言者の精神を受け継がれ、のみならず、完成へと導いてくださいました。先ほどアモス書の《正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ》という言葉を引用しました。預言者たちによって、ささやかながらも尽きることなく受け継がれてきたその伝統は、主イエスを通して大河となって私たちの世界に流れ出たのです。

 

主イエスは山上の説教の中で、このようにおっしゃいました。《わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。/はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。/だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる(マタイによる福音書51720節)

 

ここで主イエスは《すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない》とおっしゃっています。《一点一画》の「一点」訳されている部分は、ヘブライ語のアルファベットの一つである「ヨード( y )」という文字がイメージされているそうです。「ヨード」は小さな点のような形をしている、小さすぎて見落としてしまいそうな文字です。 目立つものや華やかなものばかりに目を向けるのではなく、「ヨード」のように私たちの目に小さく見える存在に目を注ぐことの大切さを主イエスは伝えてくださっています。

 

 

 

ご自分が小さな者となられることを通して

 

 旧約聖書の律法の中で、《小さな掟》19節)として見落とされがちであったのが、先ほどご紹介した「人道的な律法」でした。弱い立場にある人々への配慮を教えるこれら律法が《小さな掟》として軽んじられてしまっている中、主イエスはその「ヨード」という文字のように小さく、目立たなくされている教えに光を当ててゆかれました。他ならぬ、ご自身が小さく、弱い立場に立たされた者となられることを通して。神の御子ご自身が、最も小さな者となられることを通して――。

 

主イエスは苦しんでいる人々のところに自ら赴き、その声にならない声を聴き取ってくださいました。大きな声の中でかき消されそうな小さな声を聴き取り、ご自分の声としてくださいました。弱くされ小さくされた人々の痛みを、ご自身の痛みとして共に担ってくださいました。そうして「隣人を愛し、神を愛する」という教えを身をもって体現し、律法を完成へと導いてくださいました。

 

洗礼者ヨハネが指し示し、主イエスが完成してくださった神さまの教えに私たちの心を立ち還らせ続けたいと願います。