2017年12月10日「主の道に立ち帰る」
2017年12月10日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:エレミヤ書36章1-10節
「主の道に立ち帰る」
エレミヤ書36章1-10節《ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。/「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。/ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」/エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した。/エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。/お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。/この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」/そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ。/ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。/そのとき、バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ。彼は書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々に読み聞かせたのであるが、それは主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあった》
アドベント第2週目
先週の12月3日から、教会の暦で「アドベント」(待降節)に入りました。本日はアドベント第2週目です。アドベントは12月25日のクリスマスまで、4週間続きます。 アドベントはイエス・キリストの誕生を「待ち望む」時期です。
講壇に飾っているリースは、アドベントクランツと言います。「クランツ」はドイツ語で「輪」を意味する言葉です。輪っかの上には4本のろうそくが立てられています。教会ではアドベントの時期に、これらろうそくに毎週1本ずつ火をともしてゆく風習があります。今日はアドベント第2週ということで、2本のろうそくに火がともされていますね。次週の第3週目には3本、第4週目には4本すべてのろうそくに火がともります。毎週1本ずつろうそくに火がともってゆく様子を見ることを通して、クリスマスがだんだんと近づいてきていることを実感することができます。
先ほどご一緒に、讃美歌242番『主を待ち望むアドヴェント』を歌いました。ろうそくに1本ずつ火をともしてゆく様子が謳われています。今日はアドベント第2週なので、1番と2番まで歌いました。2番《主を待ち望むアドヴェント、第二のろうそく ともそう。主がなされたそのように、互いに助けよう。/主の民よ、喜べ。主は近い》。
アドベントはイエス・キリストのご降誕を待ち望む時期ですが、ただジッと待っているだけではなく、主がなされたように私たちも積極的に互いに助け合うべきことが謳われています。
痛みに対して目を覚ましていること
12月に入り、皆さんもお忙しい日々を過ごしていらっしゃることと思います。慌ただしく余裕がない中で私たちはついつい自分のことで精一杯になってしまいがちですが、そのような時であるからこそ、隣り人を思いやる気持ちを想い起こすことが大事であるのでしょう。
先週の礼拝では、《目を覚ましていなさい》(マルコによる福音書13章37節)という主イエスの言葉をご紹介しました。その言葉を、「痛みに対して目を覚ましていなさい」というメッセージとしてご一緒に受け止めました。他者の痛みに対して、また、自らの痛みに対して、目を覚ましていること。
忙しい生活の中では、痛みを感じとる心が眠り込んでしまうことがよくあります。誰かが辛い思いをしているのに、気が付かずに通り過ぎてしまう。「痛みを痛みとして感じとる心」が眠りこんでしまっているからです。そのような私たちに、聖書は「目を覚ましていなさい」と呼びかけています。私たちがまどろみから目覚め、痛みを感じる心を取り戻すために。
私たちが互いを大切にしてゆくためには、まず互いの痛み苦しみに耳を傾け合うことが不可欠です。
《隣人愛の危機》
少し前(9月22日付)の朝日新聞に、ルーテル教会の世界連盟議長を5月まで務めたムニブ・ユナンという方のインタビューが掲載されていました。タイトルの「隣人愛の危機 声上げ続ける」が目を引きました。ユナン氏はインタビューの中で、《私たちはいま、『隣人愛の危機』に直面しています》と語られていました。それは世界的に見てそうである、とのことでした。
「隣人愛」――隣り人を愛すること。隣人愛という言葉は、皆さんもよくご存じのように、聖書の《隣人を自分のように愛しなさい》(レビ記19章18節、マタイによる福音書22章39節)という言葉に由来しています。
隣人愛について、ユナン氏は次のように説明しておられました。《隣人を愛するとは情緒的なことではなく、自分とは異なる人たちの多様性を知り、その痛みを理解することです》。
「隣人を愛する」とは情緒的なことではない、とユナン氏は語ります。隣人愛とは情緒的なことではなく、自分とは異なる人たちの多様性を知り、その痛みを理解することである、と。
いま世界的に、自分と違う人を認めず、人々の憎悪をあおる過激主義が力をもっている状況があります。アメリカでは「白人至上主義」による人種差別の問題が再燃しています。日本でも北朝鮮、韓国の方々、沖縄の方々に対するヘイトスピーチが横行しています。
イエス・キリストの道 ~神を愛し、隣人を愛す
私たちが互いの痛みを理解し合うことをしようとせず、互いに心を閉ざしてしまっているとき、そこにある種の「暗さ」がつくりだされてゆきます。私たちの社会には暗さが覆っていますが、その暗さの多くは、私たちが他者の痛みに無感覚になってしまっているところからつくりだされているものなのではないでしょうか。この暗さの中でたくさんの人が互いに傷つけあっています。ユナン氏が指摘するように、世界的に隣人愛の危機が見出されます。
聖書はイエス・キリストを《まことの光》と呼んでいます(ヨハネによる福音書1章9節)。暗闇の中に輝く光として、主イエスは私たちのもとに来てくださったのだ、と。このまことの光は、暗闇の中を歩む私たちが、互いをまことに大切にしあうことができるための「道」を示してくださっています。この道に立ち帰り、この道を歩むとき、私たちの間に少しずつ平和がつくりだされてゆきます。主イエスはご自身についてこのようにおっしゃいました。《わたしは道であり、真理であり、命である》(ヨハネによる福音書14章6節)。
本日はメッセージのタイトルを「主の道に立ち帰る」としました。アドベントのこの時期、私たちはこのイエス・キリストの道に立ち帰ることが求められています。この道とは、私たちが互いを大切にすることができるための道です。そしてそのことが、神さまを大切にすることにもつながっています。
主イエスは最も大切な掟として、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を挙げられました。「神さまを愛し、隣人を愛する」道、それがイエス・キリストの道です。
主の道に立ち帰る
先ほどご一緒にお読みしたエレミヤ書36章1-10節をお読みしました。エレミヤ書は旧約聖書の代表的な預言書の一つです。これら預言書は、「主の道に立ち帰る」ことを繰り返し呼びかけ続けています。
改めてエレミヤ書36章1-3節をお読みいたします。《ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。/「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。/ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」》
お読みした中に、《悪の道》という言葉が出て来ました。当時、イスラエルの人々は「主の道」を歩むことができていなかった。あなたがたが歩んでいるのは「主の道」ではなく《悪の道》であるのだとエレミヤは厳しく批判しています。「人を大切にせず、神さまを大切にしない」歩みは、結果的に自分たちを滅びへと至らせることになる。今こそ心の向きを変え、主の道に立ち帰るべきことをエレミヤは懸命に呼びかけています。
私たちはこれら預言書の言葉も聖書の言葉として大切に受け継いできています。これら言葉は過去に語られた言葉であるというだけではなく、今を生きる私たちに対しても語られている言葉として受け止めることができるでしょう。
神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴いという真理
私たちが互いを大切にしてゆくために大切なこと、それは痛みを感じる心を取り戻すことがあることを述べて来ました。互いの痛みを受け止めあい、理解し合ってゆくこと、です。
そしてもう一つ大切なことがあります。神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴い、という真理です。
旧約聖書の預言者であるイザヤ書に、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という言葉があります(イザヤ書43章4節)。預言者を通して、神さまがイスラエルの民に語りかけた言葉です。
この言葉はいま、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに語りかけられています。主イエスはこの真理を伝えるため、私たちのもとに来てくださいました。そしていまも、いつも私たちと共にいて、この真理を、福音を伝え続けてくださっています。神さまの目から見て、あなたという存在は、かけがえなく大切であるということ。「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。あなたの替わりになる存在は、世界中のどこにもいません。イエス・キリストの道は、この福音、この真理を土台として共に歩む道であるのだと信じています。
互いをかけがえのない存在として見つめ
この主のまなざしに私たちのまなざしを合わせてみる時、目の前の世界はまったく違って見えてきます。この主のまなざしと共に周りの人々を見てみると、その人々もまた自分と同じ神に愛された人であるということが少しずつ分かってきます。自分とは考え方も価値観もまったく異なるかもしれないその人も自分と同じ、神さまの目から見て、かけがえのない、いとおしい、一人の人間であるのだということが分かってきます。
そうして暗闇だと思っていた世界に光がともされていることに気づき始めてゆきます。確かな光が私たち一人ひとりを照らし、包んでいることに気づきはじめます。この光は、いつも語りかけてくださっています。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――。この真実の言葉に触れるとき、石のようにかたくなになっていた私たちの心は、再び柔らかなものとされてゆきます。
神さまの目から見て大切なその人であるからこそ、その人の語る言葉に私たちは誠実に耳を傾けようとします。その人の抱える痛みを懸命に理解しようとします。それぞれの悲しみも、喜びも、共に分かち合おうとするのです。
クリスマスを待ち望むこの時、主が私たちをかけがえのない存在として見つめて下さっているように、私たちも互いをかけがえのない存在として見つめ、大切にしあってゆくことができますように。私たちが互いの痛みを理解し合い、悲しみも喜びも共に分かち合ってゆくことができますようにと願います。