2017年12月17日「慰めよ、わたしの民を慰めよ」

20171217日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書40111

「慰めよ、わたしの民を慰めよ」

 

 

 

イザヤ書40111節《慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。/呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。/谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。/主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。/呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。/草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。/草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。/高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神/見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む/主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

 

 

 

アドベント第3週 ~喜びの主日

 

アドベント第3週目を迎えました。アドベント(待降節)は教会の暦で、イエス・キリストが誕生されたクリスマスを待ち望む時期です。

 

アドベント第3主日は伝統的に「喜びの主日」とされています。ここでの「喜び」とはもちろん、イエス・キリストがお生まれになった「クリスマスの喜び」です。アドベントも第3週に入り、クリスマスの喜びが近づいてきていることを私たちは共に確認します。

 

先ほどご一緒に讃美歌242番『主を待ち望むアドヴェント』という讃美歌を歌いました。教会ではアドベントの時期に、ロウソクに毎週一本ずつ火をともしてゆく風習がありますが、それを歌にしたものです。3番はこのような歌詞でした。3番《主を待ち望むアドヴェント、第三のろうそく ともそう。主の恵み 照り輝き、暗闇を照らす。/主の民よ、喜べ。主は近い》。

《主の民よ、喜べ。主は近い》と歌われています。クリスマスの喜びは、もうすぐです。

 

 

 

喜ぶ気持ちになれない私たち

 

イエス・キリストがお生まれになった時、天使たちは羊飼いに語りかけました。《天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。/今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。/あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカによる福音書21011節)

 

天使たちは羊飼いに、《大きな喜び》を告げると語りかけたのです。クリスマスには、「喜び」という言葉がふわさしいでしょう。

 

一方で、クリスマスを目の前にして、喜びたくても喜べない、という方もいらっしゃることと思います。さまざまな事情によって、クリスマスを喜ぶ心境になれない方がたくさんいらっしゃることと思います。「喜べ」と言われても、戸惑ってしまう。クリスマスと自分との間に、大きな距離を感じてしまう方もいらっしゃることでしょう。

 

私たちの近くに遠くに、たくさんの痛み、苦しみ、悲しみが満ちています。むしろ、私たちの心の内にあるのは喜びではなく、悲しみであることが多いです。テレビをつけても、耳に飛び込んでくるのは喜ばしいニュースではなく辛く悲しいニュースであることが大半です。

 

私たちはそれぞれ、さまざまな悲しみ、辛い想いを抱きつつ生活をしています。時には、どうしても辛い気持ちが心から離れない、ということもあるでしょう。私たちは自分の力では、心の中にある想いを変えることは難しいものです。「喜べ」と言われても、心が落ち込んでいたり、ひどく疲れていたり、すねたようになってしまっていて、素直に喜ぶ気持ちになれない。私たちは心の内にあるこの悲しみを無理やり喜びに変えることはできませんし、また、すべきでもないでしょう。

 

喜ぶ気持ちになれない私たち。それがむしろ私たちの率直な姿であるのかもしれません。そのような私たちが、いかにしてクリスマスの喜びを受け止めていったらよいのでしょうか。またそもそも、クリスマスの喜びとは私たちにとってどのようなものであるのでしょうか。

 

 

 

悲しみや痛みを見つめる中で

 

 クリスマスになると、世界中の人々が盛大にお祝いをします。クリスマスは私たちにとって、「喜びの日」であるからです。しかしクリスマスは、「悲しいことは忘れて、いまは楽しくやりましょう」という意味での喜びの日ではないように思います。もちろん、クリスマスを大いに楽しむこと、喜ぶことは大切なことですが、悲しいことや辛いことを忘れて無理に楽しもうとすることはクリスマスにふさわしい在りかたではないでしょう。むしろ、私たちの心の中にある悲しみや痛みを見つめる中で与えられる喜びが、聖書が語るクリスマスの喜びなのではないでしょうか。

 

クリスマスによく読まれる旧約聖書のイザヤ書の次の言葉があります。キリスト教会では伝統的に、イエス・キリストの誕生を指し示していると受け止めてきた箇所です。《闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。/あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。/刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように(イザヤ書912節)

 

《闇》や《死の陰の地》などの言葉が出て来ました。これらの聖書箇所からも分かることは、ここで語られている「喜び」「楽しみ」とは、いま嘆き悲しんでいる人々に向かって語られているのだということです。喜びたくても喜ぶことができない、楽しみたくても楽しめない人々、それほど深い悲しみのただ中にいる人々。まるで暗闇の中を歩んでいるかのように感じている人々に向かって語りかけられている言葉であるということが分かります。

 

先ほど羊飼いたちに語られた天使の言葉をお読みしました。当時、羊飼いという職業は社会から差別的な待遇を受けていたと言われています。弱く小さくされていた人々のもとに、天使たちは真っ先に現れ、クリスマスの喜びを語りかけてくれたのです。

 

クリスマスの喜びの前提としてあるのは、私たちの悲しみの現実、痛みに満ちた現実であるのです。そのことに思い至ります時、クリスマスを喜ぶ気持ちになれない私たちにこそ、クリスマスの喜びが語りかけられているのだということに気づかされます。すでに喜んでいる人々に対してというより、いまは悲しんでいる人に対して語られているのがこれら聖書の言葉です。

 

 

 

慰めよ、わたしの民を慰めよ

 

先ほどご一緒に旧約聖書のイザヤ書の40章の御言葉をお読みしました。やはりアドベントの時期によく読まれる言葉です。改めて、冒頭の15節をお読みいたします。

 

慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。/呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。/谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。/主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される》。

 

はじまりの《慰めよ、わたしの民を慰めよ》という文言は非常によく知られているものですね。ハレルヤコーラスで有名なヘンデル作曲の『メサイア』も、このイザヤ書の言葉の独唱から始まります。

 

このイザヤ書の言葉の背景にあるのは、「バビロン捕囚」という出来事です。当時強大な大国であったバビロニアにイスラエルの南ユダ王国は滅ぼされ、神殿も破壊され廃墟のようになり、一部の人々はバビロニアに強制的に移住されられました。紀元前6世紀に起こったこの出来事は、イスラエルの人々が経験した最も大きな民族的悲劇となりました。

 

苦難は、何十年と続きました。エルサレム神殿は破壊されたまま、異国の地に強制移住させられた人々は故郷に帰ることはできぬまま、何十年という月日が経ってゆきました。終わりがないかのように思われる苦しみの中で、人々はだんだんと希望を失っていったことでしょう。

 

また、イスラエルの人々を、「神さまは自分たちのことをお忘れになったのではないか」という疑念が苦しめていました。自分たちが神さまに背いたから、神さまは自分たちを罰として暗闇の中に投げ込み、ずっとそのままにしておられるのではないか、と。もはや神さまに「忘れられた」「見捨てられた」という想いがイスラエルの人々を苦しめ続けていました。

 

捕囚状態になって実に50年近く経ったある時、イスラエルの民の心に向かって語られたのが、このイザヤ書40章の言葉でした。《慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。…》――。ここでの《苦役》とは、いま説明しましたバビロン捕囚のことを指しています。苦役の時は、もはや終わった。あなたはその苦しみから解放される、と預言書は神さまの言葉を取り次ぎます。あなたはもうこれ以上苦しむことはないのだ、と。

 

はじめ、人々はこの預言の言葉を受け入れることができませんでした。むなしい夢幻を語っているだけのように思えたことでしょう。けれどもこの預言の言葉はその後、本当に実現することとなります。人々はバビロニアでの捕囚状態から解放されたのです。

 

神さまはイスラエルの民を決して忘れておられたのでも、見捨てておられたのでもありませんでした。イスラエルの民の痛みを我が痛みとして、共に苦しみ続けておられたのです。神さまにとってイスラエルの民は、決して失われてはならない、かけがえのない存在であったからです。神さまは語りかけます。「イスラエルよ、…わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書4314節)

 

 

 

もうこれ以上苦しみ続ける必要はない

 

 苦しみが長く続いてゆくうちに、私たちはもはや希望の言葉を受け入れることができなくなることがあると思います。喜びの日が来るとは、もはや信じることができなくなってくるのです。あきらめの気持ちが心を支配し、神さまからの慰めの言葉を、自分で拒んでしまうのです。喜びの日など、来ない。自分のこの苦しみは終わらない、いつまでも続くのだ、と。自分でそのように思い込み、自暴自棄な態度をとってしまっていることもあるのではないでしょうか。

 

 そのような私たちに、神さまは語り続けておられます。あなたはもうこれ以上苦しみ続ける必要はない。あなたは十分に苦しんだ。もはや、自分で自分を罰し続ける必要はない。いま、わたしの慰めの言葉に心を開きなさい。なぜなら、わたしの目に、あなたは価高く、貴い存在であるから――。

 

 

 

御子は来られた ~あなたの悲しみを喜びへと変えるため

 

 かけがえのないあなたが苦しみ続けていることは、神さまの願うことではありません。あなたを苦しみから解放するため、あなたの痛みを癒すため、あなたの悲しみを喜びへと変えるため、この世に遣わされたのが、イエス・キリストその方です。主イエスはいまも、あなたと共におられます。あなたと共にいて、慰めの言葉を語り続けてくださっています。あなたへの愛ゆえに、御子はこの世へと来られました。あなたのために、クリスマスの喜びは用意されました。

 

 私たちがなすべきことは、ただ、この神さまの愛に心を向けることです。あなたの心が喜びで満たされることこそが、神さまの願いです。長い夜の後に必ず朝が来るように、たとえどれほど時間がかかっても、私たちのもとに喜びの日は必ず訪れるのだと信じています。他でもない、神さまご自身がそう私たちに約束してくださっているからです。

 

草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ8節)。どうぞいま共に、神さまの慰めの言葉に私たちの心を開きましょう。