2017年12月3日「すべての人の光として」

2017123日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書51411

「すべての人の光として」

 

 

イザヤ書51411節《わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。/わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき/わたしの腕を待ち望む。/天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。/わたしに聞け/正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。/彼らはしみに食われる衣/虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き/わたしの救いは代々に永らえる。/奮い立て、奮い立て/力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに/遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは/あなたではなかったか。/海を、大いなる淵の水を、干上がらせ/深い海の底に道を開いて/贖われた人々を通らせたのは/あなたではなかったか。/主に贖われた人々は帰って来て/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき/喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る

 

 

 

アドベント

 

 本日から、教会の暦で「アドベント」(待降節)に入ります。アドベントはイエス・キリストが誕生されたクリスマスを待ち望み、そのための準備をする期間です。カトリック教会ではこのアドベントから新しい一年がはじまるとされています。

 

 先週の日曜日には私たちもクリスマスに向けて会堂の大掃除をし、金曜日には有志の皆さんでリース(輪飾り)づくりや飾り付けをしました。玄関に飾ってある大きなリースと講壇の上に飾っているこのリースも、教会の皆さんが手作りをしてくださったものです。材料には一般に常緑樹が使われることが多く、これらリースも教会墓地に生えているモミの木とヒバの木の葉を用いています。

 

 講壇の上に飾っているリースは、「アドベントクランツ」と呼ばれます。「クランツ」はドイツ語で「輪」を意味する言葉です。玄関に飾っているリースとは異なり、輪っかが横になっていますね。そしてそこに4本のろうそくが立てられています。教会ではアドベントになると、このろうそくに、毎週1本ずつ火をともしてゆくという風習があります。アドベント第一週目ということで、本日は一本のろうそくに火がともされていますね。次週の第2週目には2本のろうそくに火がともり、第3週目には3本のろうそくに火がともります。4週目には、4本すべてのろうそくに火がともります。毎週一本ずつろうそくに火をともってゆく様子を通して、クリスマスがだんだんと近づいているということを視覚的に実感することができます。

 

これらろうそくの光は、イエス・キリストの「光」を指し示しています。聖書では、イエス・キリストは「世の光」であると言われます。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書19節)。アドベントのこの時期、私たちは自分の心を顧みつつ、このまことの光の到来を待ち望む想いを新たにします。

 

 

 

「目を覚ましていなさい」 ~痛みに対して

 

 先ほど、マルコによる福音書132137節をお読みしましたが、その中に、《目を覚ましていなさい》という一節がありました。32節《その日、その時は、だれも知らない。天使たちも知らない。父だけがご存じである。/気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである》。この《目を覚ましていなさい》という一節は、アドベントの第1週に読まれることが多い言葉です。

 

ここでの《目を覚ましていなさい》は、文字通り「眠らずにずっと起きていなさい」という意味ではなく、「心の目を覚ましていなさい」という意味の言葉です。イエス・キリストの到来が近いいま、心の目をぱっちりと覚まして迎える準備をしなければならないという意味合いを込めて、この言葉はアドベントのこの時期によく読まれます。

 

アドベントの時期になると私たちはリースを飾ったり、イルミネーションを取り付けたりしてクリスマスを迎える準備をします。そのような準備と共に、私たちは自分自身の心の中を改めて見つめ直すことが求められています。年末で慌ただしい中ではありますが、立ち止まり、心を静かにして自らの心を見つめ直すことが、「心の目を覚ましていること」につながっているのでしょう。慌ただしく余裕のない中で、心の中の一部分がすぐにでもまどろみ眠り込んでしまうのが私たちの率直な姿であるからです。

 

 では、日々の忙しい生活の中で、私たちの心のどのような部分がまどろみに陥ってしまうのか。その一つに、「痛みを感じとる心」があるのではないかと思います。他者の痛みを感じとる心、また自らの痛みを感じとる心です。この非常に大切な感受性が、慌ただしく余裕がない日々の中で眠り込んでしまうこと――言い換えると、無感覚になってしまっていることが、しばしばあるように思います。

 

 誰かが辛い思いをしているのに、気が付かずに通り過ぎてしまう。見過ごしてしまう。また自分自身も実は辛い思いをしているのに、その想いを自分で受け止めてあげることができず、見過ごしてしまう。痛みを痛みとして感じとる心を無感覚にさせ、眠らせてしまっているからです。このまどろみが私たちの内外に、光とは正反対の「暗さ」をつくりだしてゆきます。

 

《目を覚ましていなさい》というイエス・キリストの言葉を、本日は「痛みに対して目を覚ましていなさい」という意味の言葉としてご一緒に受け止めてみたいと思います。

 

 

 

神は私たちの痛みを決して「なかったこと」にはなさらない

 

私たちの近くに、遠くに、さまざまな痛みがあふれています。そして多くの見過ごされている痛みがあります。それが私たちの社会の「暗さ」をつくりだしているといってよいでしょう。

 

痛みを「なかったこと」にされてしまうこと、それは私たちにとって最も大きな苦しみの一つなのではないでしょうか。私たちはそれぞれ、自分に固有の痛みを抱えながら生きています。もしその痛みが周囲からあたかも「存在しないかのように」されてしまうとしたら。それは私たちにとって大変な苦しみです。

 

私たちの社会には、時に、意図的に他者の痛みを「なかったこと」にしようとする悪しき力が働くことがあります。そのような不正義が、悲しむべきことに、いまの私たちの社会では至るところに存在しているというのが現状のように思います。

 

聖書が伝えるのは、神さまは私たちの痛みを決して見過ごされない方である、ということです。私たちの痛み、苦しみを決して「なかったこと」にはされない方であるということです。この神さまの正義への信頼が、聖書全体を貫いています。

 

 

 

信頼の「原体験」 ~出エジプト

 

旧約聖書を記したイスラエルの人々にとって、特に大切な出来事があります。「出エジプト」と呼ばれる出来事です(英語ではExodus)。出エジプトは、エジプトで奴隷にされ苦しんでいたイスラエルの民を、神が指導者モーセを通して救い出された出来事のことを指します。この出エジプトの出来事はイスラエル民族にとって、神さまへの信頼の「原体験」とも呼べるものですが、神さまは私たちの痛みを見過ごされない方である、決して「なかったこと」にはされない方であるということを伝えています。

 

神さまは、モーセを指導者として立てる際、このようにおっしゃいました。《わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、ヒビ人、エブス人の住む所へ導き上る。/見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。/今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ(出エジプト記3710節)

 

 神さまはエジプトで奴隷状態とされているイスラエルの民の苦しみをつぶさにご覧になり、その叫び声を聴き、その痛みを知りました。イスラエルの人々の苦しみ、叫び、痛みゆえに、神さまはモーセをエジプトに遣わしたのです。そうして、モーセを通して、人々をエジプトでの奴隷状態から解放され、約束の地へと導いてくださいました。

 

 イスラエルの人々は多くの苦難を経験しましたが、その度に、この出エジプトの出来事を想い起こし、神さまは「正しい方である」こと――自分たちの痛み苦しみを決して見過ごしにはなさらない方であることを信じ、希望をもち続けました。

 

 

 

イエス・キリストの到来 ~すべての、一人ひとりを照らす光として

 

先ほどお読みしたイザヤ書5110節にも、この出エジプトを示唆する言葉が記されていました。《海を、大いなる淵の水を、干上がらせ/深い海の底に道を開いて/贖われた人々を通らせたのは/あなたではなかったか》。

 

これは、出エジプト記の中でも特によく知られた場面、神さまが海を割り、真ん中の乾いたところをイスラエルの人々を歩ませた出来事を指し示しています(出エジプト記14章参照)。イザヤ書51章でも出エジプトを想い起こし、神さまが「正しい方である」ことを確認しています。

 

まもなく、神さまの正義がはっきりと示される時がくる。混沌と暗闇の中に、正義と公正の道が通される。その希望をこの預言書は語ります。それはまるで「新しい出エジプト」のように――。

 

イザヤ書5145節《わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。/わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき/わたしの腕を待ち望む》。

 

キリスト教会は、これらイザヤ書の預言をイエス・キリストの到来を指し示すものとして受け止めて来ました。まもなく来られるイエス・キリストを通して、神さまの正義が示される。神さまは私たちの痛みを、私たちの叫びを、決して「なかったこと」にはなさらない。御子イエス・キリストを通して、その神さまの正義がはっきりと示される。私たちすべての民はその光を待ち望む。

 

 イザヤ書はその光は《すべての人の光として》輝くのだと語ります。一部の選ばれた人々だけの光ではないのです。すべての、一人ひとり照らす光として、主イエスはわたしたちのもとに来られます。

 

 他でもない、あなたの痛みを光で照らすために、御子は来られます。あなたの痛みを「なかったこと」にはしないために。あなたの痛みを受け止め、そして、共に癒してゆくために。

 

 あなたのために、ここに集った一人ひとりのために、暗闇の中に輝く光として主は来られます。

 

11節《主に贖われた人々は帰って来て/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき/喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る》。

 

 アドベントの時期を迎えた今日、主が私たちの痛みを受け止めてくださるように、私たちも互いの痛みを受け止め合ってゆくことができますように、私たちが心にいつもともし火をともし、まどろむことなく目を覚ましていることができますようにと願います。