2017年12月31日「心に真実の言葉を携え」

20171231日 主日礼拝

聖書箇所:詩編1515

「心に真実の言葉を携え」

 

 

 

詩編1515節《【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。/それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり/舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。/主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。/金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう

 

 

 

一年を振り返って

 

先週の24日(日)、クリスマス礼拝とイブ礼拝をおささげしました。多くの方々が教会に集ってくださり、共にイエス・キリストのご降誕を記念し、礼拝をおささげすることができ感謝です。

 

 今日で、2017年も最後となります。この一年、私たち花巻教会の歩みが神さまと多くの方々の祈りによって支えられましたことを感謝いたします。

 

この1年、さまざまな喜び、悲しみがありました。

14日、花巻教会員である上野裕子さんが天に召されました。17日にご葬儀が執り行われました。

417日、イースター礼拝の翌日、花巻教会員である三田照子さんが天に召されました。429日にご葬儀が執り行われました。

また、51日に照井本實さんが天に召され、ご葬儀が57日に執り行われました。

上野裕子さん、三田照子さん、照井本實さんのご遺族の皆さまの上に主の慰めがありますようお祈りしております。

 

愛する方々を天にお送りし、私たちは悲しみの中を歩んでまいりましたが、また同時に、大きな喜びも与えられました。

416日のイースターに、上野洋介さんの洗礼式が執り行われました。また、大野康子さんの転入会式が執り行われました。

610日には、上野洋介さんとあゆみさんの結婚式が当教会にて行われました。

917日には中村徹さんの洗礼式が執り行われました。

 

この一年、これら大きな喜びが与えられましたこと、心より感謝いたします。聖書の《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい(ローマの信徒への手紙1215節)という御言葉にある通り、新しい年も、互いに喜びも悲しみも分かち合ってゆくことができればと願っています。

 

 

 

長有紀枝さんの講演より ~「人情」と「人道」の違い

 

 以前、立教大学教授で地雷廃絶活動や紛争下の緊急人道支援の活動に携わってこられた長有紀枝さんの講演を聞く機会がありました(花巻ユネスコが主催の、高校生を対象とした講演会でした)。人道支援に携わってこられた長さんは、ご講演の中で「人情」と「人道」は異なる、ということをお話しされていました。

 

「人情」は家族や友人や同じ組織のメンバーなど、身近で知っている人に対する想いであり、その近しい人々のために行動を起こすこと。たとえば任侠映画でも、好んでこの「人情」が描かれています。

 

対して、「人道」はこの「人情」の枠を超え、「自分が直接には知らない人にも想いを寄せ、行動を起こすこと」である。支援活動において大切なのはこの「人道」なのだと語っておられたのが印象的でした。また長さんは私たち日本の社会では「人情」はあるけれども、「人道」はなかなか定着しない、とおっしゃっていました。

 

「人情」から「人道」へ――これが私たちの社会の課題であると言えるでしょう。

 

 

 

失われゆく「他者の痛みに対する想像力」

 

「人道」的な視点を私たちの内に根付かせてゆくために長さんが大切なこととして挙げていらっしゃったのは、「想像力」でした。さまざまな問題を他人事ではなく自分事としてゆくためには、特に「他者の痛みに対する想像力」が大切であるとおっしゃっていました。

 

 自分の知らない痛みを理解するというのは私たちにとってなかなか難しいことではありますが、少なくとも、その痛みについて「理解しようとすること」はできます。その姿勢があるかないかで、大きな違いがあることでしょう。

 

私たちの社会において現在、この姿勢が希薄になってきている状況があります。他者の痛みへの想像力、感受性を失われつつあるという状況があるように思います。

 

 

 

米軍ヘリ部品落下

 

今月、沖縄の普天間飛行場近辺の緑ヶ丘保育園と普天間第二小学校に米軍ヘリの部品が落下する事件が立て続けに起こりました。落ちる場所があとわずかにずれていれば、命に関わる大惨事になっていた重大事件でした。

 

あるお母さんは語ります、《安心して子どもを園庭で遊ばせる、そんな当たり前のことができず、伸び伸び遊んでいた空から、雨以外のものが落ちて来るなんてあり得ない》(琉球新報1228日)

 

「子どもたちの命を守って」と訴える保育園と小学校の方々に対して、本土の一部の人々から「自作自演だ」という誹謗中傷が多数寄せられるというゆるしがたい出来事が起こりました。

 

沖縄についての報道見る度、私たちの社会において、他者の痛みへの想像力が失われている危機にあることを――自省を込めて――痛感させられます。空から何かが落ちてくるかもしれない不安が絶えずある生活、それはどれほど私たちにとって耐え難いことでしょうか。米軍機による騒音や爆音による深刻な被害に加え、大切な子どもたちの頭上にヘリの部品や本体が落ちて来るかもしれない恐怖を常に抱きながら過ごす日々、絶えず人の命が危険にさらされ続けている日々、それはどれほど辛く耐え難いことでしょうか。もし、私たち自身の毎日がそのようなものであったら、どうでしょうか。

 

(皆さんにも署名をご協力いただいた、緑ヶ丘保育園父母会が米軍ヘリの保育園上空の飛行禁止などを求めて全国から集めた署名26372筆が、27日、翁長知事に手渡されました。詳しくは玄関に置いている琉球新報の記事をご覧ください。署名は引き続き年明けの1月末まで受け付けています。要望:事故の原因究明及び再発防止、原因究明までの飛行禁止、普天間基地に地発着する米軍ヘリの保育園上空の飛行禁止)。

 

他者の痛みへの想像力、感受性を取り戻し、育んでゆくことは、いまの私たちの社会の喫緊の課題であるように思います。

 

 

 

《隣人愛の危機》

 

アドベントの説教でもご紹介しましたが、数か月前の朝日新聞922日)に、ルーテル教会の世界連盟議長を5月まで務めたムニブ・ユナン氏のインタビューが掲載されていました。タイトルは「隣人愛の危機 声上げ続ける」というものでした。

 

隣人愛について、ユナン氏は次のように説明しておられました。《隣人を愛するとは情緒的なことではなく、自分とは異なる人たちの多様性を知り、その痛みを理解することです》。

 

ユナン氏は、「隣人を愛する」とは情緒的なことではない、と語ります。隣人愛とは「好き」「嫌い」という感情の問題にとどまるものではなく、自分とは立場や価値観の異なる人たちのことを知り、その痛みを理解することである、と。先ほどの「人情」と「人道」の話でいうと、聖書が語る隣人愛は、「人道」的な視点と結びついているものであるということが分かります。

 

その隣人愛がいま危機に直面している、とユナン氏はインタビューの中で語っていました。それは世界的に見てそうである。いま世界的に、自分と違う人を認めず、人々の憎悪をあおる「過激主義」が力をもっている状況があるのだ、と。

 

今年はそのことが実感される一年でもありました。今年アメリカでは「白人至上主義」による人種差別の問題が再燃するということが起こりました。日本においても、北朝鮮、韓国、中国の方々に対するヘイトスピーチが横行しています。また先ほど触れましたように、沖縄の方々に対する差別的な言動が横行している現状があります。

 

 

 

隣人を「自分と同じ一人の人間として」大切にすること

 

「隣人愛」――隣人を愛すること。隣人愛という言葉は、皆さんもよくご存じでいらっしゃるように、《隣人を自分のように愛しなさい》という聖書の言葉に由来しています。イエス・キリストは「神を愛すること」と、この「隣人を愛すること」を最も大切な教えとして挙げられましたマタイによる福音書223739節)

 

隣人を自分のように愛しなさい》――この教えはもともとは、旧約聖書のレビ記1918節)に記されているものです。レビ記19章の掟を私なりに訳してみますと、「隣人を、自分と同じ一人の人間として、大切にしなさい」となります。この教えは元来、隣人を自分と「同じ一人の人間として」尊重することの大切さが言われている掟であると考えるからです。 

 

自分と同じ人間であるということは、目の前にいる人も自分と同じように人格をもち、日々、自分と同じように悩み喜びながら生きている、ということです。自分と同じように痛みを感じ、日々、懸命に生きている、ということです。私たちは時に、この当たり前のことを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。そのことを忘れてしまうとき、私たちは平気で他者にひどいことを言ったり、してしまうことが、可能になってしまうのではないでしょうか。もし自分が同じようなことをされたらどれほど痛みを感じるか、そのことへの想像力を失うことによって……。

 

先ほどご一緒にお読みした詩編15編には、「隣人を自分と同じ人間として大切にする」ことの具体的な例が記されていました。25節《それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり/舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。/主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。/金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人》。

 

他者を誹謗中傷しない、他者を搾取したり、陥れたりしない、そのような人が、隣人愛を実践する人であることが語られています。

 

もしも反対に、自分が誰かから誹謗中傷されたり、陥れられたりしたときの痛みを想像してみれば、他者にそのようなことをしてはいけないのだということについても理解をすることができます。痛みを知っている人ほど、同じ痛みを人に味わわせてはいけないということを、身をもって知っているのではないでしょうか。

 

 

 

共に、同じ「神に愛されている人間」として

 

 目の前にいる人も、自分と同じ一人の人間であるということ――。聖書はさらに、次のことを語っています。それは、目の前にいるその人も、自分と同じ「神に愛された一人の人間である」ということです。

 

旧約聖書のイザヤ書に、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という言葉があります(イザヤ書434節)。神さまがイスラエルの民に語りかけた言葉です。この言葉はいま、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに語りかけられているのだと受け止めています。主イエスが私たちにいつも伝えて下さっていること、それは、神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴い、という福音であり、真理です。

 

この福音に根ざすとき、自分とは異なる他者も、「自分と同じ神に愛された人」であるということが少しずつ分かってきます。自分とは違うその人も「自分と同じ一人の人間」、神さまの目から見て、かけがえのない、「自分と同じ神に愛された人間」であるのだ、と。 神に愛された一人ひとりであるからこそ、私たちは互いに傷つけあってはならないのです。

 

「隣人愛」を実践するために、大切なこと。一つは、「他者の痛みを理解しようとする」姿勢。そしてもう一つは、「神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴い」という真理。この姿勢とこの真理とが、私たちの人間関係の大切な土台となるものであると信じています。

 

わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――心にこの真実の言葉を携え、次の年も共に歩んでゆきたいと願います。