2017年2月12日「あなたが信じたとおりになるように」

2017212日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書8513

「あなたが信じたとおりになるように」

 

 

 

マタイによる福音書8513節《さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、/「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。/そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。/すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。/わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」/イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。/言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。/だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」/そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた

 

 

 

「山上の説教」を終えて

 

昨年の夏頃から、礼拝の中でご一緒に「山上の説教」を読み進めて来ました。山に登ったイエス・キリストが、弟子たちと人々とにさまざまな教えを説く場面です。先々週の聖書箇所をもって、山上の説教は締めくくられました。

 

さまざまな教えが語られる山上の説教ですが、それら教えは一つの教えに要約できます。それは、《人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい》という教えです(マタイによる福音書712節)。主イエスはこの教えこそ、旧約聖書全体の教えを要約したものである、と語られました。

 

私たちがこれから読み進めてゆくのは、山上の説教を語り終えた主イエスが、さまざまな人々と出会ってゆく場面です。その中で、《人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも人にしなさい》という掟を、主イエスは実際に実行してゆかれます。ご自分が語られたことを、その言葉通り実行していってくださる様子を、これから私たちは読み進めてゆきます。

 

山から下りられた主イエスがまず出会われたのが、一人のレプラを患っている人(新共同訳《重い皮膚病を患っている人》)した82節)。先週の礼拝において、ご一緒にこの場面をお読みしました。

レプラを患う人々は、当時のイスラエル社会の中でとりわけ疎外され、弱い立場に追いやられていた人々でした。共同体から隔離・排除され、苦しみながら生きているこの男性に、主イエスは手を伸ばし、触れてくださいました。主イエスは共同体に戻るための「橋」をかけてくださいました。私たちが「人にしてもらいたい」と願っていることを、主イエスが率先して実行してくださいました。

 

私たちが心に留めたいのは、山上の説教を語り終えた主イエスがまず初めに出会ってくださったのが、当時の社会において最も弱い立場に追いやられていた人であった、ということです。社会的に地位のある人々と出会われたのではなく、最も疎外され、苦しみを受けていた人にまず出会ってくださいました。このことを、ご一緒に大切に心に刻みたいと思います。

 

 

 

百人隊長との出会い

 

主イエスが次に出会われたのが、本日登場する百人隊長です。「百人隊長」とは、イスラエルに配備されていたローマ軍の指揮官のことを言います。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にあり、日常的に大勢のローマ軍が常駐していました。数十人~百人ごとに分けられた部隊を指揮していたのが、この百人隊長でした。

 

レプラを患う男性と違って、百人隊長は軍事的に力をもった人物です。なぜ2番目にこの百人隊長が登場するのか、不思議に思われる方もおられるかもしれません。ここでポイントとなるのは、百人隊長がローマ人であり、ユダヤ人ではない、という点です。聖書独特の呼称を用いるなら、百人隊長は「異邦人」です。イスラエルに常駐するローマ軍の人々は当然ながら、そのほとんどがユダヤ人ではありません。属している国が異なり、信じている宗教も異なります。外国人を代表する存在として、ここで百人隊長が登場しているのだと受け止めることができます。

 

軍事力という面においては、確かに、百人隊長は強大な力をもっています。しかしイスラエル社会における地位は、非常に低いものであったでしょう。当時のイスラエル社会において、「異邦人」は侮蔑・差別の対象であったからです。

 

「異邦人」という言葉はユダヤ人以外の外国人を指す言葉で、元来は特に侮蔑的なニュアンスをもった言葉ではありませんでした。けれども、イスラエル社会がだんだんと排他的になり、ユダヤ人と外国人の区別を強調するようになるにつれ、「異邦人」という言葉に差別的なニュアンスが込められるようになっていったようです。

 

 主イエスが生きておられた時代においても、「異邦人」という言葉は差別的なニュアンスをもって使われていました。主イエスが生きておられた時代は、社会全体が硬直化し、排他的になっていた時代でした。極端な自国民中心主義が吹き荒れる時代に、主イエスは生きておられたのです。

 

このような状況というのは、現在の私たちの社会の状況と通じるものがあるのではないでしょうか。「異邦人」の人々の生きづらさというのは、たとえば、現在のアメリカにおいて移民、難民の人々、またイスラム教徒の人々が感じている生きづらさと重なり合うものがあるかもしれません。国籍、また宗教によって人が差別され、排除されるということは決してあってはならないことです。しかしその差別と排除が現在のアメリカにおいて実際に起こっています。自国民中心主義に基づき、大統領自らが率先して基本的人権の侵害を行っているという非常に危惧すべき状況があります。

 

 本日登場する百人隊長は確かに職務上は権威のある人物ですが、一人の人間としては、社会に居場所もなく、外国人であることによる不当な差別を受け、生きづらさを抱えながら生きていた人物であったのだと推測できます。その意味で、この男性もやはり、社会から疎外・排除されている一人であったということができます。

 

 

 

百人隊長の部下へのいやし

 

 そのとき、百人隊長の僕の一人が、中風によって麻痺状態になり、ひどく苦しんでいました。百人隊長は誰かから主イエスのことを聞いたのでしょう、部下の体を治してほしい一心で、主イエスのもとに駆け付けました。57節《さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、/「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。/そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた》。

 

 先ほど、当時のイスラエル社会において、外国人は不当な差別を受けていた、ということを述べました。当時ユダヤの人々は、「異邦人」とは交際しない、ましてや家に客として招かれたりはしない、というのが態度を取っていました。現代の視点からするともちろん問題のある態度ですが、それが当時の一般的な常識でした。百人隊長はそのことを、身をもって知っていたことでしょう。ユダヤ人の常識からすると、――イエス・キリストもまた一人のユダヤ人でした――外国人の家に招かれて行く、ということは考えられないということは、十分にわかっている。しかしいま、大切な部下を家で苦しんでいる。この方に、何とかして部下をいやしてもらいたい。

 

 そのような想いの中で、百人隊長は次のような言葉を発しました。812節《すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。/わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」/イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。/言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。/だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」》。

 

 百人隊長は主イエスに対し、自分の家に来ていただくには及びません、ただ一言おっしゃってください、と願います。「ただ、お言葉をください」(フランシスコ会訳)。そうすれば、わたしの僕はいやされます、と。

 

 また百人隊長はその根拠として、日ごろの自分の経験を付け加えました。自分は部隊において、ある程度の権威をもっています。部下の一人に「行け」と言えば行きますし、「これをしろ」と言えばその通りにします。ましてや、まことの権威あるあなたのお言葉なら、その通りになるでしょう、と信頼の言葉を述べたのです。主イエスはこの百人隊長の絶大なる信頼に、深く心を動かされました。ご自分に対するこれほどの信頼は、イスラエルの人々の中でさえ、見たことがない、と称賛されました。

 

 そうして、おっしゃいます。13節《そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた》。主イエスが言葉を発されたちょうどそのとき、部下の病いはいやされました。

 

 

 

再び立ち上がる ~神さまの目に尊厳ある存在として

 

新共同訳聖書は百人隊長の部下は「中風」で苦しんでいたと訳しています。「中風」とは、脳卒中などの後遺症によって、身体にしびれや麻痺がある状態を言います。「中風」と訳された言葉は、元来は「麻痺状態」を意味する言葉であるそうです。

 

先ほど申しましたように、彼らは、「異邦人だから」ということで周囲から差別され、否定的な言葉を投げかけられ続けていました。国籍また宗教の違いにより人格をさえ否定され、苦しめられ続けていました。尊厳がないがしろされる日々の中で、心の深いところが、もはや動くことも立ち上がることもできなくなった。そのような象徴的な意味合いを、本日は部下の症状に汲み取ってみたいと思います。

 

彼を再び立ち上がらすことができるものは、主イエスの権威であり、その権威から発される言葉でした。主イエスの《権威》とは、言い換えると、「神の国の権威」ということができるでしょう。ここでの「神の国」とは、「私たち一人ひとりに、神さまからの尊厳が与えられている場」のことを言います。一人ひとりが神さまの目から見てかけがえのない存在として守られ、その生命と尊厳が大切にされる場が、神の国です。ここにはもはやユダヤ人と異邦人という区別はありません(ガラテヤの信徒への手紙32629節)

 

主イエスは百人隊長に対して、 あなたが信じたとおりになるように》とおっしゃいました。

 

「治れ」とか「立ち上がれ」とおっしゃったのではなく、あなたが心から願い、信じることが、そのとおりになるようにとおっしゃってくださったのです。それは相手のすべてを肯定してくださる言葉です。すべてをまるごと受け止め、肯定し、祝福してくださる言葉です。主イエスは百人隊長の願いを全身で受け止め、それをご自分の願いとしてくださいました。

 

 あなたの部下の麻痺状態がいやされること。苦しみから解放されること。そしてあなたたち一人ひとりが、尊厳ある存在として大切にされること。あなたが心から願っているそのことを、私も心から願う、と。

 

 その瞬間、百人隊長と部下のもとに、神の国が到来しました。百人隊長と部下を、神さまからの尊厳の光が包みました。その光の中で、部下は再び立ち上がりました。神さまの目に尊厳ある存在として、再び立ち上がりました。と同時に、百人隊長もまた、神の国の光の中で立ち上がることができたのではないかと思います。「異邦人」として生きる苦しみの中で立ち上がれないでいた心の深い部分が、再び立ち上がることができたのです。

 

 

 

「あなたが信じたとおりになるように」

 

 主イエスはいま、私たち一人ひとりにも語りかけてくださっています。あなたが信じたとおりになるように》と。あなたが心から願い、信じることが、そのとおりになるように。あなたが心から願うことを、私も願う。

 

 それは、他でもない、あなたという存在が、神さまの目にかけがえなく貴い存在であるからです。その大切なあなたの願いが実現されることを、あなたが自分らしく、喜びをもって生きることを、神さまは心から願っていてくださいます。どうか、あなたが信じたとおりになりますように。私たち一人ひとりが心から願うことが十分に実現される社会となりますように、ご一緒に祈り求めてゆきたいと思います。