2017年2月19日「共に担い、歩んでくださる主」

2017219日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書81417

「共に担い、歩んでくださる主」

 

 

 

マタイによる福音書81417節《イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。/イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。/夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。/それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

「彼はわたしたちの患いを負い、

 わたしたちの病を担った。」

 

 

 

賛美歌『いつくしみ深い』

 

最もよく知られた賛美歌の一つに『いつくしみ深い』という賛美歌があります(『讃美歌21493番)。愛唱賛美歌にしていらっしゃる方もたくさんおられることでしょう。1954年版の『讃美歌』では『いつくしみ深き』というタイトルでした(『讃美歌』312番)

 

皆さんもよくご存じのことと思いますが、1番はこのような歌詞です。

 

《いつくしみ深い 友なるイェスは/うれいも罪をも ぬぐい去られる。/悩み苦しみを かくさず述べて、/重荷のすべてを み手にゆだねよ》。

 

 この曲で印象深いことの一つは、「友なるイェス」という表現です。《いつくしみ深い 友なるイェスは》。ちなみに、この曲の英語のタイトルは「What a friend we have in Jesus」です。「私たちはイエスという何と素晴らしい友をもっていることか!」という意味のタイトルです。

 

キリスト教はイエス・キリストを「神」として信仰しているわけですが、この曲ではその主イエスが同時に、まことの「友」であると謳われています。いつも自分の傍らにいて、自分の悩みや苦しみを何でも聞いてくれる「親友(ベスト・フレンド)」として、主イエスを表現しているのですね。

 

この賛美歌を作詞したのはジョゼフ・スクライヴン18191886年)という人です。アイルランドで生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジで学んだ方のようです。

 

このジョゼフ・スクライヴンという方の生涯は、さまざまな悲しみの連続であったそうです。結婚の直前にフィアンセを事故と病気で二度失うなど、大変な悲しみを経験されています(参照:日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21略解』、日本キリスト教団出版局、1998年)。そのような悲しみの中で、しかし、彼はイエス・キリストからの慰めを得て、数々の賛美歌を生み出していきました。『いつくしみ深い』の歌詞は、闘病中の母親を慰めるために書かれたとも言われています1865年発表)

 

2番、3番の歌詞も読んでみましょう。2番《いつくしみ深い 友なるイェスは/われらの弱さを 共に負われる。/嘆き悲しみを ゆだねて祈り/つねに励ましを 受けるうれしさ》。2番では、友なるイエス・キリストは、「私たちの弱さを共に負ってくださる」方であることが謳われています。

3番《いつくしみ深い 友なるイェスは/愛のみ手により 支え、みちびく。/世の友われらを 捨てさるときも/祈りに応えて なぐさめられる》。3番では、「たとえ世の友が自分を捨て去っても、主イエスは祈りに応えてくださる方であることが謳われています。たとえ世の友が皆自分から離れ去っても、主イエスだけは自分から離れ去ることはないのだ、と。

 

これら歌詞の内容は、ジョゼフ・スクライヴン氏自身の人生の経験に基づいて紡ぎ出されていることが伝わってきます。

 

 

 

《われらの弱さを 共に負われる》

 

本日は特に、2番の歌詞に注目してみたいと思います。2番の冒頭は《いつくしみ深い 友なるイェスは/われらの弱さを 共に負われる》という歌詞でした。長らく教会に出席しておられる方は《いつくしみ深き 友なるイエスは われらの弱きを 知りて憐れむ》という1954年版の歌詞で覚えてらっしゃることと思います。どちらも素晴らしい訳ですが、新しい訳の方では、主イエスが私たちの弱さを「共に負ってくださる」という点に強調点が置かれています。私たち人間の「弱さ」を知っていてくださり、さらにそれをご自分のものとして負っていてくださるのだ、と。

 

新約聖書にはこのような言葉があります。さきほど礼拝の中で朗読いただいた箇所です。ヘブライ人への手紙415節‐51節《この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。…大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです》。

 

 見方によっては、これら言葉は驚くべき言葉かもしれません。キリスト教はイエス・キリストを「神」として信仰しているわけですが、その神の子が、私たちと同じ「弱さ」をもっている存在として語られているからです。主イエスは、私たちとまったく同じ「弱さ」をもっている人であり――それは肉体的に、また精神的に――しかしだからこそ、私たちの苦しみや辛さを自分のこととして思いやることがおできになるのだ、とこの聖書箇所は語ります。

 

 私たちは普段の生活の中で、自分の「弱さ」というものを否定的に捉えることが多いかもしれません。自分の肉体的な弱さ、また精神的な弱さを恥ずかしく思い、何とかこの弱さが克服されれば、と願うことが多いのではないでしょうか。しかし聖書は、私たちの弱さを必ずしも否定的に語ることをしていません。打ち勝つべきものとしても語っていません。そうではなく、弱さこそが、私たちとイエス・キリストを結び合わせている「扉」であることを語っています。主イエスご自身がその身に「弱さ」を負っていてくださるからです。

 

 言い換えれば、私たちが「強さ」をばかり追い求めているとき、主イエスとつながる「扉」を自ら閉じてしまっていることになる、ということもできるかもしれません。「強さ」が過剰に強調され、称賛されているのがいまの私たちの社会ですが、「弱さ」こそが私たちを主イエスと結び合わせ、また他者と結び合わせてくれる「扉」であることを忘れずにいたいと思います。

 

 

 

共に担い、歩んでくださる主

 

 本日の聖書箇所には、主イエスがペトロのしゅうとめを癒し、また悪霊に取りつかれた多くの人を癒された場面が記されています。《悪霊》が何を指すかはっきりとは分かりませんが、その症状の中には、現代の視点からすると精神の病いに相当するものも含まれていたでしょう。この場面の締めくくりの部分に、次のような言葉が記されていました。マタイによる福音書817節《それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。/「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」

 

 ここでマタイによる福音書が引用しているのは、旧約聖書の預言書『イザヤ書』第53章の中の一節です(イザヤ書534節)。『イザヤ書』第53章はイエス・キリストを預言しているものとして、キリスト教の歴史において特に重要な位置づけがなされてきた箇所です。

 

彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った》。《患い》と訳されている語は、「弱さ」と訳すこともできる言葉です。「彼はわたしたちの弱さを負い、私たちの病を担った」――。『いつくしみ深い』の2番は、まさにこのイザヤ書の言葉を念頭に置いて記されているのだということが分かります。2番《いつくしみ深い 友なるイェスは/われらの弱さを 共に負われる。…》。

 

 本日の物語では主イエスによる驚くべき「奇跡」が読む者の注意を引きますが、しかし本日の物語から読み取るべきは主イエスが「私たちの弱さを共に負い、歩んでくださる方である」というメッセージです。

 

 

 

ペトロのしゅうとめと主イエスの出会い ~「弱さ」において

 

 本日の物語の冒頭において、弟子のペトロのしゅうとめと主イエスの出会いの場面が記されています。短い場面ですが、主イエスの姿勢というのが端的に表されている場面であると思います。

 

 その日、主イエスと一行がペトロの家に行ってみると、しゅうとめは熱を出して寝ていました。ペトロたちは恐縮したことでしょうが、誰よりも心苦しかったのはしゅうとめ本人であったでしょう。息子たちの先生が来てくださったのに、何のもてなしもできない自分に恥じ入りながら、家の奥の方で横になっていたのではないでしょうか。彼女はこのとき、肉体的にも、また立場的にも、非常に「弱い」立場にあったことが分かります。しかしこの「弱さ」においてこそ、主イエスとの出会いは起こりました。

 

彼女のことを伝え聞いた主イエスは、彼女のそばに近づいてゆかれました。そして、その手をしっかりと握ってくださいました。手を握りながら、主イエスは彼女の肉体的・精神的な弱さ、苦しみを共有してくださったのです。彼女のまことの「友」として――。あたたかな手の感触と主イエスのいつくしみに満ちたまなざしは、彼女の心から罪悪感や恥の意識を取り去ってくださったことでしょう。そうする中で、自然と体の熱が下がってゆき、彼女は起き上がって主イエスをもてなすことができるようになりました。

 

 

 

共に担い、歩む人生の尊さ

 

本日の物語には「いやす」という言葉が出て来ます。16節《…イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた》。「いやす」と訳されている語(原語のギリシャ語で『テラペウオー』)は、第一義として「仕える」という意味を持っています。そのニュアンスを込めて訳し直しますと、「看病する」と表現することができます。すなわち、主イエスはここでまず第一に、手を取って「看病すること」をしてくださったのだと受け止めることができます。そうして、私たちの弱さ、病い、苦しみを共に担い、共に歩もうとしてくださった。その結果として起こったのが、「病いのいやし」という出来事だったのではないでしょうか。

 

「病いのいやし」という出来事が第一に来るものなのではなく、「共に担い、共に歩む」という主イエスの大いなるいつくしみが第一にあるのです。そのいつくしみの光に包まれる中で、結果として時に起こり得ることが「病いのいやし」という出来事なのだと本日は受け止めたいと思います。

 

 私たちの人生においては、本日の物語の登場人物たちのように、「病いのいやし」が必ずしも起こるものではありません。起こることもあれば、起こらないこともあるというのが「病いのいやし」です。病いと共に、人生を歩んでいるという方もたくさんおられることでしょう。完全なる「病いのいやし」は、私たちの人生には起こらないかもしれない。けれども、それ以上に大切な価値あることがあるのだということを、主イエスは私たちに伝えてくださっています。それは、私たちがそれぞれ、互いの「弱さ」を担い合いながら、共に歩むということです。私たちがそのように、弱さの中で互いに学び、互いに尊び、支え合って歩むとき、そこに神の国は形づくられてゆきます。

 

 たとえ目の前の困難は尽きないとしても、私たちの悩みは尽きないとしても、互いに支え合いながら、励まし合いながら生きることができる人生は、何と尊いものでしょうか。この歩みの中にこそ、大きな恵みがあり、まことの喜びがあるのだと信じています。またその過程の中で、私たちはいつしか心の深い部分――魂がいやされている自分に気づくことでしょう。立ち上がることのできなかった自分の魂が、再び立ち上がろうとしていることに気づくことでしょう。

 

 私たちの友なる主イエスに励まされながら、自分の「弱さ」を誇りながら(コリントの信徒への手紙二129節)、これからも共に歩んでゆきたいと願います。