2017年2月26日「主はわたしの泣く声を聞き」

2017226日 主日礼拝

聖書箇所:詩編6

「主はわたしの泣く声を聞き」

 

 

 

詩編6111節《指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。/

主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。/主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。/主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ/わたしの魂は恐れおののいています。/主よ、いつまでなのでしょう。/

主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。/あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。/死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。/

わたしは嘆き疲れました。/夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。/苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。/

悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。/主はわたしの泣く声を聞き/主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。/敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる

 

 

 

詩編6編 ~病いの苦しみに直面する中で

 

 月に一度、旧約聖書の「詩編」から説教をしています。詩編は、古代イスラエルの人々による神への賛歌を集めたものです。詩編はユダヤ教の人々のみならず、キリスト教会においても大切に受け継がれてきました。

 

  詩編の中には、神さまを賛美する歌だけではなく、私たちの嘆きや苦しみを記した歌もたくさん収められています。これら歌は、「嘆きの歌」と呼ばれます。詩編全体の三分の一の分量をこれら嘆きの歌が占めていると言われています。 本日ご一緒にお読みする詩編6編も、嘆きの歌の一つです。歌い手の「わたし」はこの詩において自分の嘆き苦しみを率直に言い表しています。

 

 では、歌い手の「わたし」はどのような苦難に直面しているのでしょうか。34節にはこのような言葉があります。《主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。/主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ/わたしの魂は恐れおののいています。/主よ、いつまでなのでしょう》。

 

「主よ、癒してください」という祈りからも分かる通り、この詩はもともとは、病いの癒しを祈る詩であった、と考えられています。歌い手の「わたし」は病いの苦しみに直面しているのですね。何の病気かは分かりませんが、死を意識するほどの重い病いであったことが伺われます。

 

ここに集われている皆さまの中にも、ご病気を経験された方もいらっしゃることと思います。また現在、懸命に病いの治療に取り組んでらっしゃる方もおられることと思います。私はそれぞれ、生きてゆく中で何らかの病いに直面します。体の病い、または心の病いに。まったく病気をしたことがない、と言う方はおそらくおられないことでしょう。詩編6編の「わたし」もまた、病いに直面しており、その苦しみの中で、懸命に神さまに癒しを願っています。そういう詩としてこの詩編6編を受け止めてみますと、またこの詩が新しく見えてくるかもしれません。この嘆きの歌の内容を、ご自分の実感をもって、受け止めることができてくるのではないでしょうか。

 

 

 

病いと「神の罰」

 

私たちにとって共感のできる内容が記されているこの詩編ですが、その中で、私たちにとっては少し不思議な表現が出てまいります。たとえば、冒頭のところ。2節《主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください》。

 

この詩編が病いの苦しみに直面する中で紡がれたものであるとすると、なぜこのように「わたしを責めないでください」とか「憤って懲らしめないでください」という表現が出てくるのでしょうか。

 

ここには、古代イスラエルの人々の病いの捉え方が関係しています。古代イスラエルの人々は、病気や障がいを「神の罰」として受け止めていたのです。本人が何か「罪」を犯したから、または家族や先祖が「罪」を犯したから、その「罰」として神さまから病気が与えられると捉えていました。本日の詩編の歌い手の「わたし」も、自分が病いになったのは、神さまの怒りに触れたからだ、と捉えているのですね。だから冒頭で、《主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください》と懇願しているのだと理解することができます。

 

古代イスラエルの人々にとって、ですので、病いは二重に苦しいものでありました。まず第一に、病いによる体の苦しみ。と同時に、自分は「罪」ゆえに神さまから「罰」を受けているのだ、という罪責感の苦しみもあります。これは体の苦しみに匹敵するくらい、いや、それ以上に、大きな苦しみであったことでしょう。

 

さらに、病いになったことで、周囲の人々から、「あの人は罪人だ」とみなされることにもなります。あの人が何か「罪」を犯したから、または家族や先祖が何か「罪」を犯したから、あの人は「報い」を受けているのだ、と。そうして、共同体から遠ざけられていってしまうのです。これも、耐え難い苦しみであったことと思います。その意味で、古代イスラエルの人々にとって、病いになるということは、二重、三重もの苦しみが課されることであった、ということができます。

 

 歌い手の「わたし」は、これら耐え難い苦しみを、次のように表現しています。78節《わたしは嘆き疲れました。/夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。/苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました》。悲痛な表現です。「わたし」が日夜、病いの苦しみに苦しめられ続けている様子が痛いほどに伝わってきます。毎晩涙を流し続け、床は涙で溢れるほどであると、歌い手の「わたし」は嘆きます。

 

 

 

主イエスの宣言 ~「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」

 

現代の私たちの社会においては、病気によって人をわけ隔てすることは差別であり、人権侵害に相当します。古代イスラエルの人々の病気の捉え方は、現代の私たちの視点からすると問題のあるものです。これら病気の捉え方は、あくまで今から2千数百年前の古代の人々の捉え方であることを踏まえておく必要があります。

 

では、私たちはこれら古代イスラエルの人々の考え方を、「大昔の時代のものだ」と笑って受け流すことができるでしょうか。現代を生きる私たちもまた、時にこれに類する感情を抱いてしまうことがあるのではないかと思います。

 

私たちは自分が病気になったとき、または家族が病気になったとき、「自分のせいなのではないか」、「自分が何か悪いことをしたからこうなったのではないか」と自分を責めてしまうことがあります。現代を生きる私たちもそのように、病気と「神の罰」を結び付けて感じてしまうことがあるのではないかと思います。この詩編6編が指し示している痛みというのはその意味で、やはりいまを生きる私たちの痛みともつながっているように思います。

 

そのような私たちにとって、大切に心に刻んでおきたいイエス・キリストの言葉があります。新約聖書のヨハネによる福音書に記されているイエス・キリストの言葉です。

ヨハネによる福音書913節《さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。/弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」/イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。…」》。

 

 弟子たちは目の見えない人を前にして、「この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねました。この弟子たちの問いは、まさに当時の病気や障がいに対する考え方を表しているものです。本人が「罪」を犯したから、または家族や先祖が「罪」を犯したから、「罰」として神さまから病気や障がいが与えられる、という捉え方です。

 

 この弟子の問いに対して、主イエスははっきりと答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。主イエスはここで、病いと「神の罰」の関連をはっきりと否定なさっています。病いは、本人が罪を犯したからでも、両親や先祖が罪を犯したからでもないと、当時の病気の捉え方に対してはっきりと「否」を突き付けてくださったのです。

 

 私たちはこの主イエスの言葉をこそ、心に刻んでおきたいと思います。病気が「神の罰」であるということは、決してありえません。なぜ病気になるのか、その理由というのは、私たちには知り尽くすことはできませんが、病気が罪の「報い」として与えられるということはないのだ、という真実を心に刻みたいと思います。

 

 

 

まなざしを向けかえる ~神の罰から神の愛へ

 

 なぜ病気になるのか、その理由は、私たちには理解し尽くすことはできません。「~のため」と簡単に言い切ることはできません。また、病気が「恵み」であるとも簡単に言い切ることもできないでしょう。本人にとって、病いの苦しみはとても「恵み」であるとは言い切ることはできほど、辛く苦しいものである場合があると思うからです。苦しむご本人を前にして、「病気は恵み」と周囲の人間が安易に言うことが的外れな場合もあるでしょう。私自身、自分が深刻な病いに直面したとして、「病気は恵み」と言い切れるというと、おそらく言えないだろうと思います。むしろ、「神さま、どうして」と嘆き続けるのではないかと思います。

 

本日の詩編6編の「わたし」もまた、神さまに自分の嘆き苦しみを率直に訴えています。自分の内の嘆きを包み隠すことなく、すべてを露わにして、神さまに祈っています。詩編は、そのように自分の嘆き苦しみをすべて神さまに注ぎだす姿勢の大切さを、私たちに伝えています。

そのような中で、「わたし」が見出したのは、今まで見えなかった神さまの側面でした。すなわち、自分を「罰する」神さまの側面ではなく、自分を「憐れみ、慈しんでくださる」神さまの側面です。

 詩編6編の「わたし」は、当時の価値観に基づいて自分の病いを「神の罰」として受け止めながらも、同時に、自分に対する神さまの憐れみ、慈しみを信じ、懸命に祈っています。最後の部分で、「わたし」は《主はわたしの泣く声を聞き/主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる》(910節)と祈っています。主は必ず、わたしの泣く声を聞いてくださる。主はわたしの嘆きを聞いてくださる。わたしの祈りを受け入れてくださる方である。祈りの最後の部分において、「わたし」のまなざしが「神の罰」から、「神の愛」へ向き直っていることが分かります。

 

 主イエスもまた、私たちにその視点の転換を促してくださっています。神の罰という幻に目を向けるのではなく、神の愛という真実にこそあなたの目を向けなさい、と。

 

 

 

神の愛の業が私たちに現れるために

 

先ほど引用したヨハネによる福音書の主イエスの言葉。《本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである》。最後の部分の言葉を、本日は、「神の愛の業が私たちに現れるためである」という意味の言葉としてご一緒に受け止めたいと思います。

 

 私たちがまなざしを向けるべきは、神さまの罰ではなく、神さまの愛です。そしてその神さまの愛の業は、具体的には、私たちが互いに支え合う中で現れ出てゆきます。

 

私たちはそれぞれ、病いを抱え、弱さを抱えながら生きています。そのような私たちが、互いに支え合いながら、弱さを補いあいながら生きてゆくところに、神さまの愛の業が実現されてゆきます。私たちの病いや弱さを通して、愛は輝き出るのだということを、聖書は私たちに伝えています。病いや弱さはもはや「神の罰」ではなく、私たちにとって、「神の愛の業」が現れる「扉」となってゆくのです。

 

共に支え合いながら、神さまの愛の業を私たちの間に実現してゆきたいと願います。