2017年3月19日「神の国の福音の権威」

2017319日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書918

「神の国の福音の権威」

 

 

マタイによる福音書918節《イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。/すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。/ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒瀆している」と思う者がいた。/イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。/『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。/人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。/その人は起き上がり、家に帰って行った。/群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した

 

 

 

「君は悪くない(It's not your fault)」

 

私が時折思い出す映画のワンシーンがあります。1997年に公開された『グッド・ウィル・ハンティング』という映画のワンシーンです。皆さんの中にも、この映画をご覧になったことがある方もいらっしゃるかもしれません。マット・デイモンが演じる心に傷を負った青年と、ロビン・ウィリアムズが演じるセラピストの心の交流を描いた作品です。この映画を観たのはもう20年近く前なのですが、以来、心に強く残り続けているシーンがあります。

 

それは、映画の終盤、セラピストのショーンが、青年ウィルの心の傷の核心部に迫る場面です。青年のウィルは幼い頃に虐待を受け、それが心の深い傷となっていました。そして実はセラピストのショーンもやはり幼い頃に同じ経験をしていたことが分かります。最も重要な場面において、セラピストのショーンは同じ苦しみを共有する友として、青年ウィルにこう語りかけます。「君は悪くない」。英語では「It's not your fault」という言葉です。その言葉をきっかけに、青年ウィルの目から涙が流れ始めます。それは、これまで誰にも見せたことがなかった涙でした。

 

青年ウィルは、子どものときの辛い経験について、本来自分にはまったく責任はないはずなのに、心のどこかで「自分が悪い」と思い込んでいました。そしてその「ゆるされていない」感覚がこれまで、彼の生き方を荒んだ、閉じたものにしていました。

 

ショーンは青年ウィルの目をしっかりと見つめ、ゆっくりと、何度も、「君は悪くない」と繰り返します。その言葉を受けて、ウィルは子どものように泣きじゃくり始めます。そして、ウィルとショーンはしっかりと抱き合います。

 

 このシーンが、ずっと私の心に印象深く残り続けて来ました。「君は悪くない」という言葉が、何か自分自身の心にも語りかけられているように感じたからかもしれません。

 

 

 

「自分は悪い存在だ」という「罪悪感」

 

 私たちはそれぞれ、心のどこかで「自分が悪い」「自分はゆるされていない」という気持ちを抱きながら生きている部分があるかもしれません。それは「罪悪感」という言葉で表現することもできるでしょう。私たちは心のどこかに罪悪感を隠しながら生きている。この罪悪感は知らず知らずのうちに私たちの心にダメージを与え、渇きのようなものを生じさせます。私たちの心と体から力を奪ってゆきます。またこの罪悪感は、人間関係にも影響を与えます。時に私たちの人間関係を破壊するように作用してしまうこともあります。

 

 この「罪悪感」と、率直な「罪の自覚」ということは、似ているようで、まったく異なるものです。「罪の自覚」とは、自分の過ちや罪責を率直に認めることを言います。対して、ここで私の述べている「罪悪感」とは、自分が存在していること、生きていること自体が何か「悪い」ことのように思ってしまう感覚のことを言っています。「自分は悪い存在なのではないか」、「自分などいないほうがいいいのではないか」――このような想いを生じさせているのがここで私が言っている罪悪感です。「原罪意識」と言ったほうが、より正確かもしれません。

 

この場合の「罪悪感」の特徴は、本人には何ら責任がないことに対して罪の意識を抱いている、ということです。その人が存在していること、その人がその人であること、その人が生きていること自体が「悪い」ということは、そもそも、あり得ないことです。しかしそこに深い罪の意識を抱いてしまっている状態が、ここで私が言っている「罪悪感」です。

 

太宰治はかつて「生まれてすみません」という言葉を残しましたが、極端に言えば、このような感覚であると言えましょうか。多かれ少なかれ、私たちはこのような感覚を心のどこかに抱きつつ生きているようにも思います。この感覚からいかに解放されてゆくか、というのが今日の私たちの切実に大切な課題である、ということができるでしょう。私たちがこの感覚から解放されて初めて、自分のさまざまな過ちをも率直に認めることができるようになってゆくのではないでしょうか。率直なる罪の自覚は、罪悪感からの解放を経てこそ可能となってゆくものだと思います。

 

冒頭でご紹介した映画『グッド・ウィル・ハンティング』の「君は悪くない」という言葉――。この言葉は、私たちの心の奥に隠れている「罪悪感」に語りかけられているものだ、と受け止めることができます。主人公の青年ウィルは「自分は悪い存在だ」、「自分などいないほうがいい」と心のどこかで思い込んでしまっていました。ショーンは「君は悪くない」と何度も語りかけることで、ウィルをその「罪悪感」の苦しみから解放したのです。またそのことによって、ショーン自身の悲しみも癒されていったのだと思います。

 

 

 

「罪悪感」と「罪の自覚」の相違

 

 聖書を読んでいると、イエス・キリストが人々の「罪を赦す」場面が出て来ます。それら場面において、「罪」と呼ばれていることは、一体何なのか、またその「罪が赦される」というのはどういうことを意味しているのか。分かるようでいて、自明のことではありません。

 

 先ほど、「罪悪感」と「罪の自覚」は違う、ということを申しました。聖書に出てくる「罪の赦し」にも、私たちの罪悪感に対する「赦し」と、私たちの具体的な過ちに対する「赦し」と、そのどちらもあるように思います。

 

 たとえば、主イエスが十字架におかかりになる際、弟子たちが主を見捨てて逃げてしまった罪は、後者に相当するものでしょう。弟子たちは、主イエスを裏切り、見捨てた、という具体的な過ちを犯しました。弟子たちにとってそれは「取り返しのつかない」過ちに思えたことでしょう。決して「赦されることのない」過ちに思えたことでしょう。けれども、その過ちを主イエスは赦してくださいました。いや、「はじめから」赦してくださっていました。これらが、聖書が証しする私たちの具体的な過ちに対する、主の「赦し」です。

 

 一方で、このような具体的な過ちに対してではなく、「自分は生きていていいのだろうか」という私たちの「罪悪感」に対して語りかけられている主の「赦し」の言葉も聖書には記されています。その一例が、本日の聖書箇所であるということができるでしょう。

 

本日の物語には中風を患う人が登場します。中風とは、脳卒中などの後遺症によって、身体にしびれや麻痺がある状態を言います。ここで登場する人は、身体に何らかの麻痺があり、自分で自由に体を動かすことが出来ない状態にあったようです。この人に対して、主イエスは「罪の赦し」をお語りになりました。

 

この場面において主イエスは、中風の人が何か過ちを犯したから、それに対して「赦す」とおっしゃったわけではありません。そうではなく、主イエスはこの人がこれまでの人生の中で抱いてきた深刻な「罪悪感」――すなわち、「自分は生まれながらの『罪人』であり、『悪い』存在である」という感覚に対し、「赦し」の言葉を語りかけてくださったのだ、と受け止めることができます。この「赦し」の言葉とは、言い換えれば、まさに、「あなたは、悪くない」という言葉で表すことができるものです。

 

 

 

当時の病気に対する認識

 

 中風を患う人が抱いていた深刻な「罪悪感」を理解するためには、当時の病気に対する認識を踏まえておく必要があります。

当時のイスラエルの社会では病気は本人または両親や先祖が「罪」を犯した結果であると考えられていました。ここでの「罪」とは「律法違反の罪」のことを指しています。病いとは、その「罪」の「罰」として与えられるものだ、というのが当時の一般的な考え方であったのです。もちろん、現代の私たちの社会においては、病気によって人をわけ隔てすることは差別であり、人権侵害に相当します。病気が何かの「罰」であるということは決してあり得ないし、主イエスご自身もそのことをはっきりと否定しておられます(ヨハネによる福音書913節)

 

 これらはあくまで古代の世界における病気の認識であるわけですが、これら認識というのは、本人に深刻な「罪悪感」を抱かせることにつながっていたことと思います。特に、生まれつき病気をもっている人や、重い病いを抱えながら生きている人にとって、そうであったことでしょう。自分は生まれながらの「罪人」であるので、神から「罰」としてこのような病いを得ているのだ、このような意識を本人たちに植え付けることになっていたのではないでしょうか。このような意識をもって生きてゆけばならないということは、私たちにとってどれほど辛く苦しいことでしょうか。

 

 

 

子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される》

 

本日の物語において、中風の人に対し主イエスはこうおっしゃいました。《子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される》。私なりに意訳すると、「愛する人よ、どうか元気を出してください。あなたは、悪くない。あなたは生まれながらの『罪人』ではない」。主イエスは重い病いを抱えるこの人に対して、そうおっしゃってくださったのだと受け止めたいと思います。

 

中風の人の人生を長い間縛り続けてきた誤解が、この瞬間、ほどかれました。自分は生まれながらの「罪人」として、神さまから「罰」を受けていたのではなかった。そうではなく、自分は神さまの目に大切な存在として、――きわめて「善い」存在として――愛され続けてきたのだ。この真実を知らされた瞬間、中風の人の足元に、神の国が到来しました。そして、この神の国の福音の言葉が、中風を患う人の心と体と魂を再び立ち上がらせました。

 

「元気を出しなさい」と訳されている言葉は、「安心しなさい」または「勇気を出しなさい」と訳すこともできる言葉です。神の国の福音の言葉は、中風を患う人の心にまことの安心をもたらし、元気をもたらしました。そして生きる勇気をもたらしてゆきました。

 

 

 

「あなたは神さまから見て、かけがえなく大切な人」

 

「あなたという存在は『悪い』存在ではない。そうではなく、あなたは神さまから見て、かけがえなく大切な人」(イザヤ書434節)――主イエスはこの神の国の福音の言葉を私たちに伝えてくださっています。「自分は『悪い』存在なのではないか」「自分などが生きていていいのだろうか」という疑念、悲しみを抱え、時に生きる力を失ってしまう私たちに向かって、「あなたは大切な人」と絶えず語りかけてくださっています。

 

「あなたは神さまから見て、かけがえなく大切な人」――この愛の言葉こそ、私たちに生きる力を取り戻してくれるものです。この主の言葉があるからこそ、私たちは安心して、元気をもって、勇気をもって生きてゆくことができます。この祝福の言葉はいま、私たち一人ひとりを包んでいます。私たちを「罰しよう」とする存在は、もはやどこにもありません。

 

 私たちは現在、受難節の中を歩んでいます。独り子を賜るほどに私たちを「愛してくださっている」(ヨハネによる福音書316節)神さまの愛にいま、私たちの心を向けたいと思います。