2017年3月26日「主よ、あなたを避けどころとします」

2017326日 主日礼拝

聖書箇所:詩編7

「主よ、あなたを避けどころとします」

 

 

詩編7118節《シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの。/

わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。/獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から/だれも奪い返し、助けてくれないのです。/

わたしの神、主よ/もしわたしがこのようなことをしたのなら/わたしの手に不正があり/仲間に災いをこうむらせ/敵をいたずらに見逃したなら/敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき/わたしの命を地に踏みにじり/わたしの誉れを塵に伏せさせても当然です。/

主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり/憤りをもって身を起こし/わたしに味方して奮い立ち/裁きを命じてください。/諸国をあなたの周りに集わせ/彼らを超えて高い御座に再び就いてください。/主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください/お前は正しい、とがめるところはないと。/あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。/心のまっすぐな人を救う方/神はわたしの盾。/正しく裁く神/日ごとに憤りを表す神。/立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし/弓を引き絞って構え/殺戮の武器を備え/炎の矢を射かけられます。/御覧ください、彼らは悪をみごもり/災いをはらみ、偽りを生む者です。/落とし穴を掘り、深くしています/仕掛けたその穴に自分が落ちますように。/災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように。/正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います

 

 

 

「敵への報復」を願う詩

 

花巻教会では昨年から月に一度、旧約聖書の詩編から説教をしています。本日ご一緒にお読みしているのは、詩編の7編です。

 

本日の詩編に初めて触れたという方は、少しびっくりされるかもしれません。およそ「聖書」のイメージに似つかわしくないような、強烈な表現がいくつも出てくるからです。10節《あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし…10節)や《災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように17節)などなど。

 

語り手の「わたし」はある人々にひどいことをされ、深く傷つけられているようです。根拠のない言いがかりをつけられ、尊厳が傷つけられた状態にあることが推測できます。語り手の「わたし」はそのように自分を苦しめた相手に、神から正当な「裁き」が下されることを願っています。すなわち、言い換えれば、本日の詩編には「報復を願う」言葉が出てきているのです。

 

詩編の中にはこの7編に限らず、「敵への報復」を願う詩がたくさん記されています。一般に、「聖書」というと、イエス・キリストの「敵を愛しなさい(マタイによる福音書543節)や《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい(同539節)などの言葉が思い起こされることが多いかと思います。これら言葉が多くの人にとっての「聖書」のイメージを形成しているように思いますが、「報復を願う」詩編の言葉はイエス・キリストの言葉とは真逆のことを言っているようにも思えます。これら詩編の言葉をどう受け止めたらいいのか、時に私たちは困惑してしまうのではないでしょうか。

 

 

 

詩編の祈りの言葉の率直さ

 

 これら詩編に困惑しつつ、しかし何度もこれら詩編を読み返していますと、これほど自分の想いを率直に、正直に言葉にしているのはすごいな、という気持ちにもなってまいります。神さまの前に自分の想いを紡ぎ出すとき、これほど自分の気持ちに正直になれるかというと、なかなかできないのではないかと思います。神さまに対してこんなことまで言っていいのかな、と不安に思ってしまうかもしれません。

 

旧約学者のブルッゲマンという人が記した『詩編を祈る』という本があります(吉村和雄訳、日本キリスト教団出版局、2015年)。この本は詩編の中の嘆きの詩の激烈さに注目し、そこに私たち教会が学ぶべき姿勢があると語っています。

 

面白い(?)一文があるので引用してみます。《わたしたちはこれらの詩を、あまりにも「信仰的な」もの、あるいは敬虔なものにすべきではありません。嘆きの詩の殆どは、映画「ネットワーク〔Network〕」に登場するハワード・ビールのように「俺たちは猛烈に頭に来ている。もうこれ以上我慢するつもりはない」と言っているのです。丁寧で礼儀正しく控えめなことが信仰的だとするなら、彼らは信仰的ではありません。彼らが信仰的であるのは、この混沌状態を、聖なる方に向かって真正面からはっきりと言葉で語ろうとしているという、その意味においてだけです。このように、嘆きの詩は、身近なところにある困難な事柄に心を奪われながらも、必ず神をその名で呼び、神からの答えを期待するのです》39頁)

 

 詩編の「わたし」たちは、神さまの前で言葉を尽くして自分の率直な気持ちをぶつけます。その中には、敵対する相手への怒り、憎しみの言葉、神さまが彼らへ報復をしてくださることを願う言葉まで含まれています。この本で語られているように、いつも礼儀正しく穏やかであることが「信仰的」であるとするなら、詩編の語り手たちは確かに「信仰的」ではありません。しかし、一つ言えることは、彼らはそれほどまでに神さまの前に正直に、「ありのまま」に、自分自身を投げ出しているのだということです。そしてこの姿勢にこそ、私たちにとって大切なものがあるということを『詩編を祈る』という本は語っています。

 

 

 

否定的な感情に囚われてしまう私たち

 

自分自身の心の中を見つめてみると、もちろんのことですが、肯定的な想いだけではなく、否定的な想いも存在しています。むしろ、日々の生活の中では否定的な感情に囚われることの方が多いでしょう。否定的な感情の中、たとえば妬み、恨み、怒り、ゆるせない気持ち、復讐心など。これら想いを抱えながら、時に押し隠しながら生活しているというのが私たちの率直な姿です。

 

もし自分が誰かにひどく傷つけられたら、その相手に「仕返ししたい」という想いは、誰にも生じるものだと思います。皮膚が傷ついたら血が出るように、心が傷つけられたら怒りや復讐心が噴き出るのは、むしろ自然な反応であると言えるでしょう。それら否定的な気持ちが存在していること自体を、否定する必要はありません。私たちはロボットではないし、また聖人でもないわけですから、当然の反応として、否定的な感情が湧き出てしまうわけです。

 

先ほど、新約聖書のイエス・キリストの言葉――《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》を引用いたしました。「報復を禁じる」言葉です。報復は、さらなる報復を呼びます。報復によっては何も解決しないということは、これまでの歴史を見ても明らかです。「報復の連鎖を断ち切る決意」をすることを私たちに促しているのが、この主イエスの言葉と言えるでしょう。

 

本日、ご一緒に踏まえておきたいことは、主イエスの言葉は必ずしも、私たちの内にある「仕返ししたい」という感情自体を否定しているものではない、ということです。むしろ、誰にでもそのような衝動は生じてしまう。そのことを大前提として、ではどうするか、その衝動に駆られるままに私たちは行動してしまうのか、それともその衝動を何とかして克服しようとし、別の道を選び取るのか、そのことを問うているのがこの言葉なのではないでしょうか。

 

 

 

復讐心を抱えながら生きてゆくという「重荷」

 

 また、私たちが「仕返ししたい」という衝動を何とかしてグッと堪えることができ、実際に行動には移さなかったとして、しかしそれですべてが解決するわけではありません。

 

 それはいわば衝動を押さえつけている状態であり、そのときは我慢できても、別の時に何かをきっかけとしてマグマのように表面に噴き出してしまうかもしれません。また、復讐心を絶えず抱きながら生活するということは、私たちの心と体にも深刻な影響を与えてしまうことでしょう。激しい怒りや復讐心をずっと心に抱えながら生きてゆくということは、私たち自身にとっても、非常に辛いこと、苦しいことなのではないでしょうか。心の重荷なのではないでしょうか。

 

 では「仕返ししたい」という気持ちをなくしてしまえばいい、ということになりますが、それこそ、簡単なことではありません。なくせるものならなくしたい、でも、なくせない。だからこそ私たちは苦しみ続けます。

 

クリスチャンである方なら、復讐心を抱いてしまっている自分、他者を「ゆるせない」自分を責めてしまうこともあるかもしれません。やはりそのことが重荷になってしまうことがあるかもしれません。けれども、すでに何度も申し上げているとおり、それら感情があること自体は、否定すべきものではありません。それら感情を自分で否定し心の奥に押し込めてしまうのではなく、そのような否定的な感情も「すべて含めて」自分自身なのだと受け止めることがまず大切であるように思います。

 

 

 

《「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」》

 

 改めて、ご一緒に詩編7編を見てみましょう。

 

7節《主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり/憤りをもって身を起こし/わたしに味方して奮い立ち/裁きを命じてください》。この7節では、敵に神さまから「裁き」が下ることを願っています。ここで、主語はあくまで「神」であることに注目したいと思います。この詩編7編において、語り手の「わたし」は報復を願う気持ちを率直に表しつつ、自分でそれを成し遂げようとはしていません。そうではなく、主なる神さまがそれをしてくださるようにと願っています。先ほど引用した『詩編の祈り』という本では、《復讐の思いを語ることは、復讐の行為と等しいものとみられるべきではありません》と語られています(『詩編を祈る』、132頁)

 

また、1517節《御覧ください、彼らは悪をみごもり/災いをはらみ、偽りを生む者です。/落とし穴を掘り、深くしています/仕掛けたその穴に自分が落ちますように。/災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように》。この1517節も表現は強烈ですが、ここではあくまで「敵が自滅すること」が願われています。やはり、語り手は自分で報復をしようとしていません。つまり、語り手の「わたし」は自分の激情を率直に表現しつつ、しかし最終的にはそれらをすべて神さまにゆだねる姿勢を取っていることが分かります。

 

自分の心の中の想い――否定的な感情もすべて、率直に神さまの前に表現し、そして最後にはそれらをまるごと神さまの御前に委ねる。この姿勢の中に、私たちが本日汲み取るべき重要なメッセージがあるように思います。

 

新約聖書のローマの信徒への手紙にも、やはり同様のメッセージが記されています。《愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります(ローマの信徒への手紙1219節)

 

 

 

神は「正しい方」

 

なぜそのような姿勢を取ることができたのか、それは、神さまが「正しい方である」と信じていたからです。18節《正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います》。

 

私たちは暴力的な言動に対して、同じように暴力的な言動で報復することは決してすべきではありません。と同時に、私たちの社会の不正義――すなわち「人間の尊厳がないがしろにされている現実」を見過ごしてはなりません。私たちは自らの心の内を絶えず問い直しつつ、神さまの「正しさ」がはっきりとこの社会に実現されてゆくよう、祈り続けることが求められています。

 

 

 

重荷をまるごと主に委ねて

 

「ゆるせない」という感情。「仕返ししたい」という感情。それら否定的な感情は、私たちにとって重荷でもあります。それら感情をいつも抱えながら生きて行かねばならないのは、私たち自身にとって苦しいことです。それら感情は、私たちの心と体と魂に深刻な影響を与えてゆきます。

 

私たち自身はなかなかそれら感情をなくすことはできないかもしれません。ただ、それら感情を神さまの前に率直に言葉にすることはできるのではないでしょうか。そして、それら重荷をまるごと、神さまにお委ねすることはできるではないでしょうか(詩編5523節)。私たちが自らの重荷を神さまにお委ねすることができたとき、苦しかった私たちの心は、少しずつ平安を取り戻してゆきます。

 

主イエスは十字架におかかりになったお姿で、私たちにおっしゃってくださっています。《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイによる福音書1128節)

 

「仕返ししたい」という感情を手放し、まるごと神さまにまるごとお委ねすること。その姿勢はもちろん、私たちの生きる世界の平和につながってゆくことでしょう。「報復の連鎖を断ち切ること」は私たちの社会にとって喫緊の課題です。

 

また同時に、怒りや復讐心を神さまの御前にお委ねすることは、私たち自身の魂の平和にもつながってゆきます。私たちの心と体と魂の平安、健やかさにつながってゆきます。このこともまた、私たちにとって喫緊に大切なことです。あなたの心と体と魂が平和を取り戻し、喜びをもって生きてゆくことをこそ、神さまが願ってくださっていることだからです。

 

 詩編7編の冒頭ではこう歌われています。わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします2節)。私たちの魂の「避難場所」である主。この主の御前に、いま、ご一緒に私たちの重荷を委ねたいと思います。