2017年3月5日「主に従う道」

201735日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書81827

「主に従う道」

 

 

マタイによる福音書81827節《イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。/そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。/イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」/ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。/イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」/

イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。/そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。/弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。/イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。/人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った

 

 

 

受難節

 

先週の水曜日から、教会の暦で「受難節(レント)」に入りました。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架を思い起こしつつ過ごす時期です。今年は415日(土)まで受難節が続き、そして416日の日曜日に私たちはイースターを迎えます。イエス・キリストの十字架の道行きに想いを馳せつつ、また同時に復活の光を待ち望みつつ、ご一緒にこの受難節の時を過ごしたいと思います。

 

教会には、「典礼色」というものがあります。教会暦に応じて定められている色で、説教壇のクロス、牧師のストール、礼拝堂に飾る花などに用いられています。受難節のこの時期は「紫」が用いられます。説教壇のクロスも、紫になっていますね。講壇に飾っているお花も、今日は紫色のお花を生けてくれています。ちなみに、アドベントの時期にも、紫が用いられます。他の典礼色としては、受難日の当日は「黒」、イースターは「白」、ペンテコステは「赤」、それ以外の時期は「緑」が用いられることが多いです。

 

これらの色にはそれぞれ、意味が込められています。受難節に用いられる紫には、「悔い改め」や「待望」などの意味が込められているそうです。皆さんは紫にはどのようなイメージがあるでしょうか。黒のように暗くはないけれど、白や赤のように明るくはない紫。見る者の心に静けさ、落ち着きを取り戻してくれる紫。キリスト教会では伝統的に、紫は「悔い改め」や「待望」などの意味があるのですね。

 

 

 

神さまの愛へ心を向ける

 

「悔い改め」という言葉には「深く反省する」というイメージがありますが、この「悔い改め」に相当するギリシャ語は元来、「方向転換」を意味する言葉です。元来は、「心の向きを変える」というニュアンスの言葉なのですね。「視点を転じる」ということもできるでしょう。

 

 私たちがいつも心を向けるべきものは、何でしょうか。それは、神さまの愛に他なりません。聖書が証する、神さまの愛です。私たちは主のご受難と十字架と、そしてそこに現されている神さまの愛へ心を向けるよう招かれています。

 

旧約聖書のイザヤ書には、次のような神さまの愛の言葉が記されています。434節《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し…》。

 

あなたという存在は、神さまの目から見て、「かけがえなく貴い」存在であることを告げる言葉です。「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。神さまの目から見て、あなたという存在の替わりになる存在はいません。だからこそ、あなたという存在は大切であるのです。

 

また、新約聖書のヨハネによる福音書は、神さまの愛をこう語ります。316節《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。 

 

神さまは、大切な独り子をわたしたちのために与えてくださった。それほどまでに神さまはわたしたちを愛してくださっているのだ、とこのみ言葉は語っています。

 

 私たちが絶えず神さまの愛に「心を向ける」必要があるのは、それほど日々の生活の中でそれを見失ってしまうことが多いからでもあるでしょう。日々の慌ただしさの中で、また困難の中で、私たちはすぐに神さまの愛を見失ってゆきます。神さまの目から見て、自分という存在が「かけがえなく貴い」のだということを忘れていってしまうのです。自分の存在の「かけがえのなさ」を見失うとき、私たちはまた他者の存在の「かけがえのなさ」をも見失ってゆきます。

 

 

 

激震に襲われ

 

本日の聖書箇所の後半部では、舟に乗り込んだ主イエスと弟子たちが激しい嵐に遭う場面が記されています。激しい揺れの中で、舟は波にのまれそうになり、弟子たちはパニックになります。弟子たちはたまらず、眠っている主イエスを起こし、声をかけます。25節《主よ、助けてください。おぼれそうです》!

 

「嵐」と訳されている語は、元来は「揺れ」という意味の言葉です。マタイによる福音書の他の箇所では「地震」の意味で用いられています。すなわちここで突如、弟子たちを「激震」が襲ったというニュアンスでしょうか。

 

 弟子たちは激震に襲われ、混乱、恐れ、不安のただ中に投げ込まれました。私たちもまた、生きてゆく中で、時に、激しい揺れに遭遇することがあります。激震に遭遇することがあります。混乱状態の中で、それに自分が飲み込まれそうな不安、恐れに取りつかれることもあるでしょう。激震の中で取り乱す弟子たちの姿は、私たち自身の姿でもあるように思います。

 

 

 

私たち自身は揺れ動き

 

 取り乱す弟子たちに向かって、主イエスは言われます。26節《なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ》。そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になりました。

 

 「信仰の薄い者たち」という独特な表現が出てきました。マタイによる福音書独特の表現で、直訳すると「信仰の小さい者たち」という意味の言葉です。信仰がないわけではないのだけれど、しかしその信仰が「小さい」。私たちが読んでいる新共同訳聖書では(文語訳と口語訳も)「薄い」と訳されています。信仰はあるにはあるのだけれども、厚みがなく、風が吹くとすぐに揺らいでしまうというニュアンスが込められているのでしょうか。

 

 激震の中で自分の信仰、信頼が揺らいでしまう、それが私たちの率直な姿です。どんなことがあっても自分は「揺らがない」と言う人がもしいれば、それは何かを誤魔化しているのかもしれません。「揺らがない」と言い張ることで、目の前の困難な現実を直視しないでいようとしている場合もあるでしょう。

 

 私たちの心が揺らいでしまうこと自体は、悪いのではありません。水面が波立てば舟は必ず揺れるように、困難な現実を前にすると私たちの心は揺れ動きます。それが私たちの率直な姿です。ただし、揺らぎの中で自分を見失い自暴自棄になっていってしまうのだとすると、それは神さまの願うところではありません。

 

 

 

心の最も深きところに下ろされた「錨」

 

私たちは揺らぎ続けるけれども、それでも、揺らがないものがあるということ。それを信じることが、信仰ではないでしょうか。

 

私たちは揺れ動くが、私たちに対する神さまの愛は、揺れ動かない。どんなときも神さまは私たちを見捨てず、共にいてくださる。なぜなら、神さまの目から見て、あなたという存在は、かけがえなく貴い存在であるからです。決して失われてはいけない存在であるからです。

 

あらゆるものが「揺れ動く」ように見える世界の中で、それでも、「揺れ動かない」ものがあるということ。その希望は、私たちにとって、まるで「錨」のようなものです。水の底に沈めて、舟を固定させる錨です。新約聖書のヘブライ人への手紙にはこのような言葉があります。619節《わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです》。

 

キリスト教では伝統的に、教会を「舟」のイメージで表すことがあります。教会が「舟」であるとすると、イエス・キリストは「錨」であるということができるでしょう。たとえ舟自体は揺れ動いても、イエス・キリストは不動の錨となって、最も深きところから私たちを支えてくださっています。だから、私たちはどこかに押し流されたり、見失われたりすることはありません。

 

信仰とは、その目には見えない「錨」をはっきり見えるようにしてくれるものです。その存在を私たちの心に確信させてくれるものです。信仰を通して、私たちは自分の存在の最も深きところに下ろされている錨を認識することができます。

 

 

 

どんなものも神さまの愛から私たちを引き離すことはできない

 

イエス・キリストはその最も深き場所から、いつも私たちに愛の言葉を語りかけてくださっています。「私の目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」と。

 

たとえわたしたち自身は揺れ動こうとも、主イエスは、もっとも深きところで《錨》となって、わたしたちを神さまの愛につなぎとめてくださっています。水面がどれほど揺れ動いても、私たちが決して見失われることがないようにしてくださっています。主イエスはそのようにして、世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださる方です(マタイによる福音書2820節)。どんなものも、どんな力も、主イエスによって示された神さまの愛から、私たちを引き離すことはできません。そのことを私たちに示すため、主イエスは十字架の道行きをまっとうしてくださいました。

 

最後に、ローマの信徒への手紙83539節をお読みしたいと思います。《だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。/「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。 /しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。/わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、/高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです》。