2017年4月16日「復活の日の朝」

2017416日 花巻教会 イースター礼拝・教会学校と合同

聖書箇所:マタイによる福音書28110

「復活の日の朝」

 

 

 

マタイによる福音書28110節《さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。/すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。/その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。/番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。/天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、/あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。/それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」/婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。/すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。/イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

 

 

イースター礼拝

 

イースターおめでとうございます。イースター礼拝を皆さんとご一緒にささげることができますことをとても嬉しく思います。

 

イースターはここ数年、ディズニーランドでも取り上げられたりして、日本でもだんだんと浸透してきています。最近では、イオンのCMでもイースターが取り上げられていますね。

 

 改めまして、イースターは何の日でしょうか? ①タマゴが食べられる日。②ウサギが活躍する日。③春が来たことをお祝いする日。④イエス・キリストが復活したことを記念する日。

もちろん、キリスト教会にとって最も大切なのは④ですね。けれども、①~③も、間違いというわけではなく、正解です。ご存じのように、イースターを象徴するものとして、タマゴとウサギが登場します。また、イースターをお祝いするのは34月の春の時期ですね。長い冬が終わり、春が訪れるこの時期に、イースターは祝われます。

 

ちなみに、イースターのシンボルとしてタマゴとウサギが登場しますが(イースター・エッグ、イースター・バニーとも呼ばれます)、次のような由来があります。

 

タマゴは「新しく生まれる」イメージ、「新しい命」のイメージが伴うものです。このイメージとイエス・キリストの「復活」とが結び合わされ、タマゴはイースターのシンボルとして古くから用いられてきたようです。会堂のあちこちにも、今日はタマゴが飾られていますね(皆さんはいくつ見つけたでしょうか)。

 

ウサギはどうでしょうか。ウサギは春先にたくさん子どもを産むそうです。ヨーロッパではやはり「新しい命」をイメージさせる動物であるそうで、タマゴと共にイースターのシンボルとして用いられるようになったという説があります。

 

 

 

 

十字架を踏まえた復活

 

改めて、④について。イースターは「イエス・キリストが復活したことを記念する日」です。キリスト教会はこのイエス・キリストの復活を最も大切なことの一つとして信じ続けて来ました。

 

イースターは、より詳しく言えば、「イエス・キリストが十字架におかかりになって亡くなられ、暗い墓に葬られてから、その三日目に復活されたことを記念する日」です。

イエスさまのよみがえりというのは、十字架の死という現実を受けとめた上での、よみがえりであるのですね。

 

 私たちは31日から昨日の415日まで、教会の暦で「受難節」の中を歩んで来ました。受難節とは、イエス・キリストのご受難と十字架の死に想いを巡らす時期のことをいいます。最後の1週間は、イエスさまの十字架の道行きを追体験する「受難週」にあたります。先週の13日の木曜日には洗足木曜日礼拝をささげ、受難日14日の金曜日には受難日祈祷会を行いました。昨日はイエスさまが暗い墓に横たわりになられた土曜日でした。イースターは、これら受難の道を通りぬけたものであるからこそ、復活は私たちのまことの光となり、希望となる出来事となっています。

 

 イースターをお祝いする時期が春であるのも、大切な意味があるように思います。イースターを実感するには、春という季節が最もふさわしいですね。長い冬が終わり、春が来る――この嬉しさは、私たちの住む東北など寒さの厳しい地域においては、ひとしおです。長い冬が終わり、春が来る。雪がとけ、草花が一斉に咲き始める、その嬉しさ。長い冬を経験するからこそ、春が来たことの喜びを深く実感することができます。そのように、イエスさまの復活は、ご受難と十字架の死を経たものであるからこそ、私たちの心のその最も深きところに響く出来事となっています。

 

 

 

復活の日の朝

 

 先ほどお読みしましたマタイによる福音書28110節は、復活の日の朝の出来事を描いています。登場するのは、マグダラのマリアともう一人のマリア。イエスさまに従っていた女性の弟子たちです(この二人はイエスさまのお母さんであるマリアとはまた別の人です)。明け方、まだあたりが薄暗い中、マリアたちはイエスさまが葬られたお墓に向かっていました。

 

 こころの中は言葉にできない深い悲しみでいっぱいであったことでしょう。愛するイエスさまが十字架の上で苦しんで亡くなられた、その痛ましいお姿が目に焼き付いて離れなかったことでしょう。イエスさまが亡くなってしまった、ということに加え、苦しんで最期を遂げられたという事実がマリアたちの心に耐え難い苦しみ、痛みを与えていたのではないかと思います。

 

  マリアたちがお墓につくと、天使が現れます。そうして、マリアたちに告げました。58節《恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、/あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。/それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました》。

 

 天使たちは、かつてイエスさまご本人が約束してくださったとおり、イエスさまが復活されたことを告げます。マリアたちが恐々お墓をのぞいてみると、天使の言ったとおり、中は空でした。

 

 マリアたちは恐れながらも大いに喜び、走り出しました。このことを、男性の弟子たちに伝えるためです。朝の光が、マリアたちを照らし始めます。

 

 すると、行く手に復活されたイエスさまが立っていました。朝の光の中に、あの愛するイエスさまが立って待っていてくださったのです。910節《すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。/イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」》。

 

 

 

「おはよう」

 

 よみがえられたイエスさまのその第一声は「おはよう」でした。当たり前と言えば当たり前の言葉であり、あまりドラマチックなものではありません。イエスさまは何か特別なことを言ったのではなく、普段通りの挨拶をなされました。けれども、イエスさまの第一声が「おはよう」という当たり前の挨拶であったところに、大切な意味があるように思います。

 

 この朝の「おはよう」という挨拶。その挨拶を、マリアたちは生前のイエスさまと毎日交わしていたのだろうと思います。一緒に宣教の旅をしている間、毎朝、微笑むイエスさまの「おはよう」という挨拶を聞いていたことでしょう。その毎朝の挨拶が、十字架の死という悲惨な出来事によって、聴こえてなくなってしまっていました。たとえ太陽が昇っても、マリアたちの心は夜のように、ずっと真っ暗なままであったことでしょう。しかしいま、イエスさまは再びマリアたちのこころに「おはよう」と語りかけてくださった。この朝の挨拶とともに、マリアたちの心に再び朝が訪れました。

 

この当たり前の挨拶によって、悲しみのあまり思い出せなくなっていたイエスさまとの大切な記憶の数々がマリアたちの胸によみがえったことでしょう。イエスさまと過ごした、かけがえのない一瞬一瞬が、胸いっぱいによみがえったことでしょう。イエスさまの「おはよう」という挨拶によって、凍りついたようになってしまっていたマリアたちの心に、再び生命が取り戻され始めました。マリアたちの心に、イエスさまとのあたたかな愛のつながりが取り戻され始めました。冬が終わり、雪が解け、大地に草花が一斉に芽吹き始めるように。

 

いま目の前に、イエスさまが生きておられる。しかも、十字架の上で苦しそうにしておられたイエスさまではなく、いつものようにやさしく微笑んでいるイエスさまがいま、ここにおられる。その事実が、何よりもマリアたちの心に喜びをもたらしたことと思います。

 

「おはよう」というこのイスラエルの挨拶は、「喜びなさい」という意味ももっています。この言葉のとおり、マリアたちの心には喜びがもたらされました。その喜びは束の間の喜びではなく、もはや取り去られることのない喜びでした。

 

マリアたちはイエスさまに近寄り、イエスさまの足を抱きしめました。幽霊には足がありません。足があるということはその人が「生きている」ことの証拠です。マリアたちはイエスさまの足を抱きしめ、イエスさまが「いま生きておられる」という事実を全身で確かめました。

 

  イエスさまが「いま生きておられる」ことを確信したマリアたちは、新しい生き方を歩み出し始めました。それは、よみがえられたイエスさまと「共に生きる」という新しい生き方でした。夜は過ぎ去り、まばゆい朝の光がマリアたちの体を照らしてゆきます。この光は復活の朝の光、永遠の命の光です。

 

これが、イースターの始まりの出来事です。マリアたちからの喜びの知らせは弟子たちに伝えられ、人から人へ伝えられて世界中に広がってゆき、いま私たちに伝えられています。

 

   

 

私たちは独りではない

 

イエスさまの復活の出来事を通して、私たちには、「死は終わりではない」ということが知らされています。私たちはいま、よみがえられたイエスさまの命の中を生きています。私たちの目には見えなくなった大切な人々も、その命の光の中を、共に生きています。私たちは決して、独りではありません。たとえ目には見えなくても、イエスさまはいま生きておられます。いまは天にいる私たちの愛する人々も、その永遠の命の中を共に生きています。どんなときも、私たちは独りきりで生きているのではありません。

 

本日はこの後、洗礼式、転入会式がもたれます。いまここに集った皆さん一人ひとりの心に、よみがえられたイエスさまが語りかけてくださることを信じています。皆さんの心に、イースターの喜びがもたらされますことを願っています。