2017年4月2日「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」

2017年42日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書9913

「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」

 

 

マタイによる福音書9913節《イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。/イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。/ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。/イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。/『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 

 

カラヴァッジョ『マタイの召命』

 

いまお読みしましたのは、イエス・キリストがマタイという人物を弟子にする場面です。マタイはイエス・キリストの12人の弟子の内の一人です。また伝統的に、このマタイがマタイによる福音書の著者とされてきました(マタイ福音書の著者が誰であるのか、実際のところは定かではありません)。

 

物語の舞台はガリラヤ湖のほとりの収税所。そこを行きかう人々から通行税を徴収する場所です。この収税所にマタイは徴税人として座っていました。彼を御覧になった主イエスは、「わたしに従いなさい」と呼びかけられました。

 

ご一緒にこの場面を描いた絵を観てみたいと思います。カラヴァッジョの『マタイの召命1601、ローマ、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会)というよく知られた絵です。

 

絵の右側を御覧いただくと、収税所に入ってこられた主イエスの姿が描かれています。薄暗い部屋の中、主イエスと共に、右上の方からまっすぐに光が差し込んでいます。主イエスは誰かをまっすぐに見つめ、その人物がいる方向を指さしておられます。

 

主イエスのまなざしと光が差す方へ視線を移してゆきますと、髭を生やした男性に行き当たります。きょとんとした表情で、「わたしですか?」と自分自身を指さしているようにも見えます。この作品において、長らく、この髭の人物がマタイであると考えられていたようです。窓からの光がこの男性を照らし出しているように見えますし、主イエスと視線が合っているようにも見えます。けれどもよく見てみますと、髭の男性はさらにその奥にいる人物を指さしているように見えます。

 

奥にいる人物はうなだれたように顔を伏せ、テーブルの上の金貨をじっと見つめています。まだ若い男性のようです。お金を数えるのに集中しているようにも見えますし、または放心したようにジッと下を見つめているようにも見えます。いずれにせよ、そのうつむいた顔には暗い影が差しています。他者をいっさい信じることができず、自分の心を固く閉ざしてしまっているように見えます。近年は、この一番奥にいるうつむく青年がマタイなのではないかと言われているようです。

 

 

 

徴税人という職業

 

マタイは徴税人の職業についていた、ということを述べました。徴税は、当時のイスラエル社会において人々から差別を受けていた職業でした。「権力者の手先」「罪人」というレッテルを貼られ、差別されていた職業であったのです。もちろん現代においては、職業によって人を差別することは人権侵害に相当します。

 

当時、イスラエルの人々は何重にも課された重い税に苦しめられていました。エルサレム神殿に対する税、ローマ皇帝に対する税、ヘロデ王朝に対する税などです。ローマ皇帝に対する税を納める必要があったのは、当時のイスラエルはローマ帝国の支配下に置かれていたからです。

 

ローマ帝国またはヘロデ王朝に対する税を徴収するのが、徴税人の人々の仕事でした。このような状況の中で、人々の怒りの矛先が徴税人たちに向く、というのは容易に想像のできることです。人々は、徴税人を「権力者の手先」として激しく非難したのです。

 

また、徴税人の仕事に就く人々は仕事上、ユダヤ人以外の外国の人々――ローマ人などいわゆる「異邦人」と呼ばれる人々と接する必要がありました。当時、イスラエル社会において「異邦人」と関係をもつことは、律法違反の「罪」とされていました。仕事のためやむを得ないことだったのですが、徴税人の職業につくは社会から「罪人」のレッテルを貼られることになりました。

 

このように、人々から「権力者の手先」というレッテル、律法に違反している「罪人」というレッテルを貼られ、差別を受けていたのが徴税人の職につく人々でした。

 

 徴税人の中には、徴税額を偽って、不当な利益を得ている人々もいたようです。そのようなこともあり、余計に人々の憎悪の対象になったのでしょう。不要な利益を得ることは確かに悪いことですが、しかし、民衆の怒りが向かうべき真の対象は、当時の不条理な社会の構造そのものであったでしょう。人々は不条理な社会の構造に怒りを向けるのではなく、怒りの矛先を立場の弱い徴税人たちに向けてしまっていました。その意味において、徴税の職に就く人々は、民衆の不満や怒りのはけ口として権力者から利用されてしまっていたということもできるでしょう。

 

 改めて、カラヴァッジョの絵を観てみたいと思います。部屋の奥で、うなだれるように下を見つめている青年。ここには、「徴税人」として人々から差別を受けて生きる彼の孤独、悲しみ、失望などが表現されているように思います。しかしその痛みを、周囲の人々は誰も理解してくれない。

 

そのマタイを、主イエスは見いだしてくださいました。マタイの痛みを理解し、そして、こう呼びかけてくださいました。「わたしに従いなさい」――。こうして、マタイは主イエスの弟子となりました。

 

 

 

「わたしが求めるのは人の痛みが分かることであって、信仰的な『正しさ』ではない」

 

 本日の聖書箇所の中で、次のイエス・キリストの言葉がありました。13節《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って、学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである》。主イエスがマタイたちと一緒に食事をしていたとき、それを批判したファリサイ派の人々に向かっておっしゃった言葉です。

 

ファリサイ派の人々は弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人たちと一緒に食事をするのか」と言いました。律法の決まりに即せば、「罪人」たちと距離をもち一切交流をしないことが「正しい」ことであったからです。ファリサイ派の人々の言葉は、当時の信仰の基準からすると、「正しい」意見ということになります。

 

ここでの「罪人」とは、宗教的な意味での「罪人」ではなく、職業などの事情によって「律法を守ることができない人」のことを指しています。心の中に罪深さをもっている、ということとはまた別の意味で、「罪人」という言葉が使われているのですね。すなわち、現代の視点からすると、自分たちのことを信仰深く「正しい人」と自認している人々――ここではファリサイ派の一部の人々――による、差別的な蔑称であるということができるでしょう。

 

 ファリサイ派の人々に向かって、主イエスはおっしゃいました。《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである》。

 

 ここで引用されている《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない》は、旧約聖書のホセア書66節)の言葉です。人々の尊厳がないがしろにされている現状に目を向けず、犠牲の献げ物をささげる祭儀に熱中している宗教的な指導たちを批判した言葉です。ここでの「わたし」とは、神さまのことです。

 

 この一節を、フランシスコ会司祭の本田哲郎神父はこう訳しています。《わたしが求めるのは人の痛みが分かることであって、いけにえではない》(本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音書――四福音書および使徒言行録』、新世社、2001年)。大胆な訳ですが、分かりやすい、素晴らしい訳し方であると思います。この本田神父の訳を踏まえ、私なりにさらに訳しますと、「わたしが求めるのは人の痛みが分かることであって、信仰的な『正しさ』ではない」となります。

 

 当時は、神さまから与えられた律法を守ることこそ、人間の第一の務めとされてきました。しかし主イエスは「律法を懸命に守る」ことより、「人の痛みが分かる」ことの方が大切であり、神さまが私たちに願っておられることだ、と語られたのです。

 

本日の箇所で言うと、律法を守ることができないことを理由に「罪人」として差別を受けている人々の痛みが分かること。徴税人という職業ゆえに人々から差別を受けているマタイの痛みが分かること。少なくとも、その痛みに想いを馳せようとすること。その姿勢の方が信仰的に「正しく」あることより尊いのだということです。このように受け止めてみますと、主イエスのお考えが当時いかに衝撃的であったか、ファリサイ派の人々を仰天させる言葉であったか、ということが分かります。

 

 

 

「行って、学びなさい」

 

 私たちは日々の生活の中で、「人の痛みを感じとる」心が鈍って行ってしまうものです。気が付くと、私たちは人の痛みに対して無感覚になってしまっているように思います。またファリサイ派の一部の人々の姿が示しているように、信仰的に「正しく」あろうとする余り、他者の痛みに無感覚になってしまうということもあるでしょう。

 

人の痛みに対する想像力の欠如の問題。現在私たちの社会で起こっているさまざまな問題やトラブル、事件の根底には、この課題が関わっているように思います。事態の深刻さに気付き、私たちはこの事態を何とかしてより良い方向に向け直してゆくことが求められています。

 

一方で、私たちにとって、他者の痛みを感じとることは、簡単なことではありません。私たちは、自分が経験した痛みに通じる人の痛みについては、我がことのように感じることができるでしょう。少なくとも、その痛みを想像することはできるでしょう。けれども、自分が経験していない痛みについては、分かりません。私たちは基本的に、他者の痛みについて「分からない」と自覚することがまず必要であるように思います。私たちは他者の痛みについて無理解であり、知らずしらず人を傷つけてしまっていることが多くあるでしょう。だからこそ、私たちは他者の痛みについて、学び続けてゆかねばなりません。

 

自分がまったく痛く感じない領域も、他の人にとっては、痛くて耐え難いものであるかもしれません。また、同じような痛みを抱えている人々においても、その痛みは、一人ひとり異なるものであり、固有のものです。痛みはそれぞれ固有のものであり、だからこそ私たちは互いに互いの痛みを学び続けてゆく必要があります。

 

本日の主イエスの言葉は、大切なことを私たちに伝えてくださっています。それは、「行って、学ぶ」ことの大切さです。《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい》。

 

 いま現実に痛みを感じながら生きている人のところに行って、その声に耳を傾けること。そのことを通して、私たちは自分が知らない痛みについて学んでゆきます。「行って、学ぶ」ことを通して初めて、私たちの心のそれまで頑なだった領域はやわらかになり、開かれてゆくのだと思います。私たちは基本的に人の痛みに無感覚であるのだとしても、「行って、学ぶ」という姿勢を持ち続けているか、いないかは大きな相違であるでしょう。

 

主イエスは生前、痛みを抱えて生きる人々を自ら訪ね、その痛みを自らのこととして共有してくださいました。徴税人であったマタイを始め、痛みを抱えながら生きている人と出会い、神さまからの尊厳の光をともしてくださいました。主自らが「行って、学ぶ」ことを実践してくださいました。《彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。…(イザヤ書533節)。ご自分の歩みに「従いなさい」と主イエスは私たちを招いてくださっています。

 

先週の328日から31日にかけて、京都で開かれた日本基督教団主催の国際青年会議に出席してきました。主題は「エネルギー持続可能社会の実現を目指して」。福島原発事故の深刻さを受け止める中で、私たちはこれからいかに歩んでゆくか、共に課題を共有し、若い世代を中心として意見を交わし合うための会議です。会議で学んだことを、また皆さんにもご報告したいと思います。

 

会議の中で、何人もの方々が、現在の放射能の被害の深刻さを証言されました。事故から6年が経ち、原発事故による被害はさらに深刻なものとなってきています。原発事故とそれに伴う放射能被害が、一人ひとりにどれほど耐え難い痛みを与えているものであるのか、改めて知り、学びました。無知や無理解により頑なになっていた心の一部分が変えられ、新たに開かれていった数日間でした。

 

受難節のこの時、どうぞ私たちが「人の痛みが分かる」心を取り戻してゆくことができますように、主イエスに従い、互いに互いの痛みに寄り添いながら歩んでゆくことができますようにと願います。