2017年4月23日「キリストに触れる」

2017423日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書91826

「キリストに触れる」

 

 

 

マタイによる福音書91826節《イエスがそのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」/そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。/すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。/「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。/イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。/イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、/言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。/群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上った。/このうわさはその地方一帯に広まった

 

 

 

三田照子さん召天

 

417日(月)午前717分、愛する三田照子さんが心筋梗塞により天に召されました。99歳でした。

 

11日(火)より北上の中部病院に緊急入院をされていましたが、17日の朝、平安のうちに最期を迎えられました。傍らにいらっしゃったご家族から、苦しみもなく平安のうちに息を引き取られたとお聞きしました。

18日(火)の午後6時より前夜式が、19日(水)の午後3時より火葬が執り行われました。ご葬儀は429日(土)午前10時より、花巻葬祭センターで執り行われる予定です。ご遺族の皆さま、照子さんにつながるお一人お一人の上に主よりの慰めがありますようお祈りいたします。

 

召される前日の16日(日)は、イースターでした。花巻教会ではイースター礼拝において洗礼式、転入会式が行われ、恵みに満ちた一日となりました。照子さんはイースター礼拝に行きたいと強く願っていらっしゃいました。出席は叶いませんでしたが、お気持ちは花巻教会の礼拝と共にあったことと思います。愛餐会後、中部病院を訪ねました。病室にてご一緒に聖書を読み、賛美歌を歌うことができました。教会から、イースター・エッグもお持ちしました。照子さんがもってきてくださったイースター・エッグということで、その晩、ご家族の皆様が大切に召し上がってくださったそうです。

ご家族の皆さまは、照子さんはイースターまで頑張られたのだとおっしゃっていました。その強さは、やはり照子さんの信仰の力によるものが大きかったのではないかと改めて思わされました。最期に改めて、信じることの力を私たちに示してくださったように感じました。

 

また、中部病院に入院されているその数日間に、大切な方々と再びお会いできたことも照子さんにとって大きな喜びであったことと思います。言葉を発することは難しい状態でいらっしゃいましたが、照子さんは大切な方々に感謝の想いを伝えたかったのではないかと思いました。またそのお気持ちは確かに、皆様に届いていたことでしょう。金曜日には、お孫さんが「バイバイ」と声をかけると「バイバイ」とお返事されたとお聞きし、驚きました。愛する方々のことを想う、そのお気持ちの強さに胸を打たれました。

 

照子さんは99年というその長い生涯の間、たくさんの方々から愛を受け、またたくさんの方々に愛を返してゆかれました。人を愛する生き方を貫かれた方であると思っております。

 

お連れ合いの善右ヱ門さんが天に召されて56年。いまは神さまのもとで、再会しておられることでしょう。また、先に天に召された愛する方々とも再会しておられることでしょう。

イースターが私たちに伝える希望は、「死は終わりではない」ということです。私たちの生が終わってもなお、続いてゆく命があることをイースターは伝えています。その復活の命の中で、照子さんも、先に召された方々も共に生きています。

照子さんにつながるお一人お一人に主よりの慰めを祈ると共に、イースターの希望を改めて私たちの胸に刻みたいと願います。

 

 

 

年間主題聖句 ~人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい

 

 本日は礼拝後、教会総会がもたれます。この1年間神さまから与えられた恵みを振り返ると共に、今年度、教会をより良いかたちにしてゆくためにご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

2017年度の年間主題聖句としまして、マタイによる福音書712節《だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》を選びました。少し前に、ご一緒に礼拝の中でもお読みしたみ言葉です。この言葉は、山上の説教の「まとめ」にあたる言葉であると言われています。イエス・キリストが山上の説教の中で述べられたたくさんある教えを、一言でまとめると、この言葉になるというのですね。

 

この言葉は伝統的に、「黄金律(英語ではゴールデン・ルール)」と呼ばれています。ゴールデン・ルールとは、時代を超え、国境を超えて、すべての人に通用するルールのことを言います。

 

私たちが人にしてもらいたいこと、してもらってうれしいこととは、「人から大切にされる」ということでありましょう。尊厳ある存在として、尊重されることでありましょう。その最もうれしいことを、他者に対して積極的に行うことの重要性が語られています。

 

主イエスはそのご生涯の中で、このゴールデン・ルールを実行してくださいました。山上の説教を語り終えられた後、主イエスはその教えを実行していってくださいました。

 

 

 

社会から弱い立場に追いやられていた人々と共に

 

 私たちが心に留めたいのは、その際、主イエスが真っ先に出会ってくださった人々が、当時の社会の中で疎外され、弱い立場に追いやられていた人々であったということでした。レプラを患う人(新共同訳《重い皮膚病を患っている人》、814節)、「異邦人」8513節)、病いを持つ人81417節)、「悪霊に取りつかれた」とみなされている人82834節)、中風の人918節)、「徴税人」また「罪人」と呼ばれていた人々9913節)……。これら人々の共通点は、社会から不当な差別を受け、弱い立場に追いやられていた人々であったということです。人間の尊厳がないがしろにされている状態にあったということです。主イエスは真っ先にそれら人々と出会われ、神さまからの尊厳の光を取り戻すためにお働き下さいました。

 

 ではなぜ、これら人々が社会から弱い立場に追いやられていたのか。そこには、旧約聖書に記されている「律法」が関係しています。

  当時のイスラエルの社会においては、神さまから与えられた律法を忠実に守ることこそ、人間の第一の務めとされてきました。律法を遵守している人が信仰深く、「正しい人」であるという認識ですね。律法を遵守するという姿勢自体は尊いものですが、問題であったのは、律法を守っていない人・守ることができない人を差別するという現状があったことでした。

 それら差別されていた人々の中には、律法を守りたくても守ることができない人も大勢いました。身体の状態によって、また職業によって。主イエスが第一に訪ねてくださったのは、それら社会の隅に追いやられ、苦しみを抱えて生きる人々でした。

 

 

 

主イエスの服の房に触れた女性

 

 本日の聖書箇所には、主イエスの服の房に触れた一人の女性が登場します。この女性も律法の規定により、社会の隅に追いやられていた人の一人でした。彼女は、女性特有の出血が定期的にではなく継続的に続く症状を抱えていたようです。その症状は12年間続いていました。

 

なぜ彼女が律法に違反しているとみなされねばならなかったかというと、そこには、浄・不浄についての律法の規定が関係しています。

旧約聖書のレビ記には、女性が生理の期間にあるときは、家の中にとどまっていなければならない、という律法の規定が記されていました(レビ記151931節)。その症状にあるとき、女性は身体が「ケガれた」状態にあるものとみなされたのです。そしてその「ケガレ」が移ってしまわないように、この時期、女性は他者と接触したり、外出したりしてはいけないとされていました。本日の物語に登場する女性の場合、それが定期的にではなく継続的に続くものであったので、「ケガレ」をもつ存在としてずっと家の中に閉じ込められている状態にありました。それが12年間続いていたというのは、どれほどの苦しみであったことでしょう。もちろん、この慣習はあくまで古代の社会の話であり、現代であれば人権侵害に相当する事柄です。

 

この女性にとって、人としての当たり前の生活が取り上げられ、「ケガれた」存在として周囲から遠ざけられ続けることこそが、苦しいことであったのではないでしょうか。 人と接触することも、外出することもできない。女性は12年もの長い間、人としての尊厳が傷つけられた状態にありました。

 

その日、女性は意を決して、主イエスに近寄り、後ろから主イエスの服の房に触れました。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからです。ここで女性は、「家にとどまっていなければならない」という律法の掟、「人に触れてはならない」という律法の掟を破って、懸命な想いで主イエスの服に触れました。マタイによる福音書92022節《すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。/「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。/イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った》。

 

主イエスは律法に違反したことを一切とがめることはなさらず、《娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った》とおっしゃいました。女性の何かを信じようとする心が、彼女自身を救ったとおっしゃってくださったのです。その瞬間、女性の身体もまた癒されました。

 

主イエスはここで、律法に書かれている「ケガレ」という観念そのものを否定されていることが分かります。女性に触れられても、主イエスご自身は何ら汚れることにはなりませんでした。むしろその触れ合いによって、主イエスと女性との間に、大切な出会いが引き起こされました。

 

女性は、主イエスに触れました。それは、神の愛に触れた、ということに他なりません。律法の垣根を超えて、このとき女性は神さまの愛に触れたのです。主イエスもまた、律法の垣根を超えて、女性に神さまの大いなる愛を示してくださいました。

 

女性はその愛に包まれる中で感じ取ったことでしょう。自分は「ケガれた」存在などではなかった。神さまの目に、かけがえなく貴い存在であった、ということを。この真実が、彼女を失望の闇から救い出しました。立ち上がれずに座り込んでいた魂を、再び立ち上がらせてゆきました。

 

 

 

福音を土台として

 

主イエスは、神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえなく貴い存在であるということを伝えてくださっています。だからこそ、誰一人として、差別や迫害などの不当な苦しみを受けてはならないのです。

 

 一人ひとりが「かけがえのない=替わりがきかない」存在として、神さまから愛されている。聖書はこの真実を、「福音」(良き知らせ)という言葉で呼んでいます。この「福音」を土台とした具体的な行動、それが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にする」ことでありましょう。

 

自分がかけがえのない存在として尊重されること、それこそが、私たちが人にしてもらいたいと思うことです。自分がしてもらって嬉しいそのことを、私たちも互いにするようにと招かれています。そしてその土台にあるのは、「一人ひとりが神さまの目から見て大切な存在だ」という真実であり、福音です。

 

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》――。この教えを互いに実行してゆくことができますよう、この2017年度もご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。