2017年5月28日「乏しい人は永遠に忘れられることなく」

2017528日 主日礼拝

聖書箇所:詩編9

「乏しい人は永遠に忘れられることなく」

 

 

詩編9121節《指揮者によって。ムトラベンに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。

わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。/いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。/御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。/

 

あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。/異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。/敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。/

 

主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。/御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。/虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。/主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。/

 

シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。/主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。/

 

憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。/

 

おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍ることができますように。/

 

異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。/主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり〔ヒガヨン・セラ/神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。/乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。/

 

立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。/主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ

 

 

 

アルファベットによる詩

 

月に一度、旧約聖書の詩編から説教をしています。本日ご一緒にお読みするのは、詩編の第9編です。

 

私たちが読んでいる新共同訳聖書では、章を示す数字の下に、「アルファベットによる詩」という一文が付されています。これは、この詩が原文のヘブライ語では、各節の冒頭の頭文字が「アルファベット順」になっていることを示しています。このような詩の形式を「折句(アクロスティック)」と言います。身近な例でいうと、「あいうえお作文」などもその一つですね。

 

この詩編9編では、1節おきに、冒頭の頭文字がヘブライ語のアルファベットになっています。アレフ(a)、ベート(b)、ギメル(g)……。日本語の翻訳ではさすがにそこまでは再現できませんが、原文を見るとそのように「アルファベットによる詩」になっているのですね。9編ではアルファベットは途中で終わっており、次の10編へと続いています。つまり、9編と10編はアルファベット詩として元来は一つであったと考えられています。

 

 このように冒頭の頭文字がアルファベット順になっていることで、暗唱がしやすくなる利点があったのではないかと言われています。確かに、頭文字がアルファベット順になっていたら、覚えやすいですよね。

 

 一方で、この詩編9編に関しては、少し不思議なところもあります。と言いますのは、完全にアルファベット順にはなっていない部分があるからです。ヘブライ語のアルファベットはアレフ(a)、ベート(b)、ギメル(g)と来て、次はダレト(d)という文字がきます。しかし、この詩ではそのダレトが抜けているのです。ダレトを飛ばしてしまって、次のヘー(h)という文字がきてしまっています。他にも、この詩は詩文として形が整っていない部分もあります。アルファベット詩として破たんしてしまっているのがこの詩編9編です。そういう意味では、この詩は暗唱しやすくするために頭文字がアルファベット順になっているわけではないようです。

 

 ではなぜ、この詩はわざわざ「アルファベットによる詩」の形式を取り入れているのでしょうか。

 

 私が思い起こすのは、旧約聖書の『哀歌』という書です。哀歌は廃墟となったエルサレムを眼前に、預言者エレミヤが記したとされている書です。旧約聖書において、最も痛切な調子を帯びた嘆きの書です。この哀歌も原文のヘブライ語では、第1章から4章までがアルファベット詩になっています。

 

ただしこの哀歌も、第2章で「アイン([)」という文字と「ぺー(p)」という文字の順番が逆になってしまっています。詩編9編と同様、アルファベット詩としては不完全なものとなっているのですね。けれども、哀歌のこの不完全さは、意図的なものなのではないか、という受け止め方もあるようです。

 

 

 

何とか嘆きを言葉にし

 

神学生の時、旧約聖書の原典購読の授業で哀歌を読む機会がありました。先生は、非常勤講師として来てくださっていた左近豊先生でした。左近先生は、哀歌のアルファベット詩としての破たんは意図的なものである、言い換えれば、あえてそのままに残されているものであるという解釈を紹介してくださいました。

 

先ほど申しましたように、哀歌という書は、大変な苦難の中で記された書です。都エルサレムが他国によって破壊され、エルサレム神殿が壊され、大勢の人々が殺されてしまった中、哀歌の歌い手は言葉を綴ってゆきます。もはや何も言葉にすることができないような現実の中で、それでも言葉を紡ぎ出そうとしているのです。左近先生は、授業の中で、「アルファベットの詩という枠を作ることで、何とか嘆きを言語化することができたのではないか」とおっしゃっていました。技巧を凝らすためのアルファベットの詩ということではなく、形式を定めることで、何とかかろうじて心の内の嘆きを言葉にしようとしたのではないかという解釈でした。

 

そのように枠を作ることで何とか嘆きを言葉にしようとするけれども、途中で、文字の順序が逆さになる。アルファベットとしての詩としては破たんしてしまう。しかしその破たんそのものが、いかに嘆きが痛切なものであるのかを示しているのではないでしょうか。「枠をつくることで何とか嘆きを言語化する。でも、どうしても破れてゆくのです」という先生の言葉が強く心に残っています。

 

本日の詩編9編も、もしかしたら共通する背景があったのかもしれません。歌い手の「わたし」はアルファベットの詩という形式を定めることで、何とか祈りの言葉を紡ぎ出そうとした。途中でアルファベットが一文字抜けてしまっていることも、自らの嘆きのしるしとして、あえてそのままにしたのかもしれません。

 

 皆さんもよくご存じのように、詩には定型詩と自由詩があります。定型詩は規則的な形式をもっている詩で、俳句や短歌がその代表ですね。俳句は「5・7・5」という定まった形式、短歌は「5・7・5・7・7」という定まった形式があります。一方で、そのような形式を一切定めない自由詩があります。

 

 形式が定まっていることに不自由さを感じることもあるかもしれません。一方で、定まった形式があることが、私たちにとって助けになることもあるように思います。普段、たとえば俳句や短歌を作っていらっしゃる方は、それを実感されたことがあるのではないでしょうか。ある形を定めることで、私たちは自分の心の内を言葉にできることがあります。何も形式がなければ、時に私たちの心の中はあまりに混沌としているので、言葉を紡ぎ出すことができない。形式が与えられ、秩序が与えられることによって、私たちは自分の胸の内を言葉にする糸口を見いだしてゆけることもあります。

 

 しかしその形式もついには破たんしてしまう。破たんせざるを得ないほど、時に私たちの混乱と嘆きは深いのだということができます。

 

 

 

まるで魂が暗い穴に落ち込んでいるかのように

 

本日の詩編9編の歌い手の「わたし」も、言葉にできないような嘆き、辛さを抱えていたのでしょう。その嘆きに何とかかたちを与え、祈りの言葉を紡ぎ出そうと努めたのでしょう。

 

歌い手の「わたし」が具体的にどのような苦難の中にいたのかは、分かりません。一つ言えることは、「わたし」が周囲の不正や暴力によって、ひどく苦しめられているということです。そうして、まるで魂が暗い穴の中に落ち込んでいるかのようになり、そこから出られないように感じていたということです。14節《憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。…》。

 

 私たちもまた、それぞれに状況は違えど、生きてゆく中でこのような心境になることがあるのではないでしょうか。心がひどく乱れ、落ち込み、暗い穴の中から出られないでいるような心境になることがあるでしょう。

 

 自分の心の中もそのようであるし、また社会もそのような状態です。混沌とし、取り乱しています。何かに頼ろうと思っても、寄る辺のない状態。日々、信じがたいニュースが新聞やテレビで報じられています。現在、多くの人が、足もとの土台が崩れていってしまうような不安を覚えているように思います。

 

 

 

神さまの言葉は私たちの道の光

 

 そのような混沌とした状態の中にあって、私たちの心に形を与え、私たちの内に秩序を取り戻してくださるもの、それが神の言葉です。「あなたという存在が決して失われてはならない」という願いをもって、神さまは言葉を発してくださっています。暗闇の中に輝く光として――。

 

別の詩編にはこのような言葉があります。《あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯(詩編119105節)

 

神さまの言葉は、混沌の中に浮かび上がるアルファベットのようです。それは混乱するこの世界にはっきりとしたかたちを与え、秩序を回復させ、私たちの歩みに一つの道筋を示してくださっています。

 

創世記の冒頭を改めて思い起こしたいと思います。《初めに、神は天地を創造された。/地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。/神は言われた。/「光あれ。」/こうして、光があった112節)

 

 

 

乏しい人は永遠に忘れられることなく

 

詩編9編の「わたし」は、少しずつ自らの内に秩序を取り戻してゆきます。神は正しい方であること、私たち苦しむ者たちの叫びを必ず聞き届けてくださるということの信頼を取り戻してゆきます。5節《あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる》。

 

そして、主は私たちを決して見離すことはなく、自分たち苦しむ者たちの叫びを必ず聞き届けてくださることを告白します。13節《主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない》。暗い穴に落ち込んだような心境でいる「わたし」の心に、光が差し込んでゆきます。

 

神さまの言葉は抜け落ちたり、順序が逆になったりはしません。アルファベットが一文字一文字、秩序をもって続いてゆくように、神さまの言葉は私たちの道の光となり、私たちの一歩一歩の歩みを照らしてくださっています。そのことに気づいたとき、私たちの心は秩序を取り戻し、信頼を取り戻してゆきます。

 

混沌とし正義が見失われてしまったようなこの社会にあって、私たちはそれでも、苦しむ者たちの希望は決して失われることがないことを信じたいと思います。本日の詩編は歌います、《乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない》と19節)

 

誰一人、失われることがあってはならない。決して忘れ去られることがあってはならない。一人ひとりの命と尊厳が守られること、これが神さまの願いです。神さまはあなたが喜びをもって、幸せに生きてゆくことをこそ願ってくださっています。これ以上、不条理な敵意や暴力によって人々が傷つけられることのない平和な社会を求め、共に祈りを合わせてゆきたいと思います。