2017年6月25日「わたしはあなたを忘れない」

 2017625日 主日礼拝

聖書箇所:詩編10

「わたしはあなたを忘れない」

 

 

詩編10118節《主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。/貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。/

 

神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。/神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。/あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのようなときにも力をもち/自分に反対する者に自分を誇示し/「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない」と心に思う。/口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。/

 

村はずれの物陰に待ち伏せし/不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。/茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ/貧しい人を捕えようと待ち伏せ/貧しい人を網に捕えて引いて行く。/不運な人はその手に陥り/倒れ、うずくまり/心に思う/「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。/

 

立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。/なぜ、逆らう者は神を侮り/罰などはない、と心に思うのでしょう。/あなたは必ず御覧になって/御手に労苦と悩みをゆだねる人を/顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。/逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き/彼の反逆を余すところなく罰してください。/

 

主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。/主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし/みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう

 

 

 

「祈りに覚える」

 

教会独特の言葉遣いの一つとして、「覚える」という言葉があります。本日の週報でも、来週の花巻教会の創立記念礼拝を《お覚え下さい》と記しています。「覚える」というと、一般には「記憶する」という意味で使われることが多いですが、教会でこの言葉が使われる場合、単に「記憶する」という意味にとどまらず、その事柄を「祈りの中で思い起こす」というニュアンスが含まれているように思います。すなわち、教会での「覚える」とは、「祈りに覚える」と同意であるということができるでしょう。

 

やはり教会独特の表現である「祈りに覚える」――。英語では、「I remember you in my prayers」という表現があります。「あなたのことをお祈りしています」という意味ですが、この文章を直訳すると、「あなたのことを祈りの中で覚えています」となります。もしかしたら明治時代にキリスト教が入って来た時、宣教師たちが使っていた英語の表現が直訳的に定着して、「祈りに覚える」という言い方がなされるようになったのかもしれません(単なる想像で、文献的な根拠はありません)。いずれにしましても、「祈る」ということと「記憶している」(remember)ということは切っても切れない関係にあるのだということを改めて思わされます。当たり前のことですが、ある人のために祈る、ということは、その人の存在を「覚えている」(remember)ということが前提となっています。その人のことが自分の心から一時的に消えてしまっていたなら、そもそも、その人のために祈ることも起こり得ないわけです。

 

 

 

愛をもった思い起こし

 

もちろん、私たちは何かに集中して取り組んでいるとき、たとえ自分にとって大切な人々であっても、心から一時的にそれら人々の存在が消えてしまうということはあるでしょう。しかし立ち止まり、心を静かにしてゆくと、自分の心の中が、再び大切な人々の存在で満たされてゆきます。そのように大切な人々の存在を「思い起こす」(remember)ことが、すでに「祈り」であるのかもしれません。

 

 どこかで今誰かが、自分のことを思い起してくれているとしたら。否定的な感情によってではなく、愛をもって、思い起こしてくれているとしたら。何と心強く、嬉しいことでしょうか。愛をもった思い起こし――すなわち祈りは、時と場所を超え、相手の存在を衣のように包み、守り続けます。私自身、日々の生活の中で、その見えない衣によって守られていることを感じる瞬間があります。

 

 

 

「貧しい人を忘れないでください」という叫び

 

一方で、反対に、誰も自分のことを思い起こしてくれないとしたら。非常に辛く、悲しいことです。私たちにとって、もっとも辛いことの一つは、自分のことが「忘れられる」ことではないでしょうか。自分のことが「忘れられている」という感覚は、自分という存在が「見捨てられている」という感覚とつながっています。自分のことを忘れないでほしいというのは、私たちが抱えるもっとも深い願いのひとつであると思います。

 

私たちは時に、自分のことが「忘れられている」という感覚に陥ることがあるでしょう。誰も自分のことを大切に思い起してくれていないのではないか、という疑念に囚われることもあるでしょう。それは非常に辛いことです。

 

また、信仰をもった人であれば、その疑念が神にも向かってゆくこともあるでしょう。神さまはもはや自分のことなど忘れておられるのではないか。だから、自分に辛いことが起こっても放置されているのではないか。このような疑念をもったことがある方もいらっしゃることでしょう。「神は自分のことをお見捨てになった」――信仰をもつ人にとってこの疑念ほど恐ろしいものはないのではないでしょうか。

 

本日の詩編10編にも、「神は自分のことをお忘れになったのではないか」という叫びの言葉が出てまいります。11節《神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない》。

 

語り手の「わたし」は、社会的に弱い立場にある人々が搾取され、追い詰められている現状を目の当たりにしていたようです。貧しい人、虐げられている人が苦しみ続けている現状。その現状は放置され、見過ごされたままでした。いったい、正義はどこにあるのか。なぜ神は黙ったままでいらっしゃるのか。

 

そのような中、「わたし」は懸命に祈ります。12節《立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください》。もはや神は自分たちのことをお忘れになったのではないかという疑念の中で、それでも「わたし」は主に向かって、「貧しい人を忘れないでください」と訴えています。

 

 

 

神は私たちを「思い起こしてくださる」方

 

 聖書が語るのは、神さまは私たちを「思い起こしてくださる」方だ、ということです。私たちが苦しみの中で叫ぶとき、神は必ず私たちの叫びを聴き、私たちを「思い起こしてくださる」ことを聖書は語っています。

 

たとえば、出エジプト記には次の文章が記されています。エジプトで奴隷として働かされるイスラエルの民が叫び声をあげる場面です。《それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。/神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。/神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた》(22325節)。

 

 神さまは私たちのことを「記憶してくださる」方であり、「覚えていてくださる」方である。神さまは決して私たちのことを「忘れない」方である。聖書全体を、この信頼が貫いています。

 

本日の詩編10編でも、最後にその信頼を告白しています。1718節《主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし/みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう》。

 

 

 

「わたしはあなたを忘れない」

 

新約聖書は神さまがイエス・キリストを私たちのもとにお送りになったことを語ります。神さまが私たちのことをお忘れになってはいない証として。「わたしはあなたを忘れない」――私たちはイエス・キリストを通して、この神さまの声を聴きます。

 

神さまの私たち一人ひとりに対する愛をもった思い起こしは、まるで衣のように私たちを包んでいます。その目には見えない衣は、キリストの衣です。このキリストの衣はいつも、どんなときも、私たちを包み、私たちを守ってくださっています。

 

「わたしはあなたを忘れない」。キリストの衣に包まれる中で、私たちはこの声を聴きます。主は私たちの存在を、私たちの人生を、私たちが経験してきた喜び、悲しみ、その一つひとつを、決してお忘れにはならない方です。これまでも、いまも、そしてこれからも。

 

 

 

神は私たちの苦しみや痛みを「なかったことにはなさらない」方

 

 本日はご一緒に詩編10編をお読みしました。私たちがいま生きている社会もまた、状況は違えど、詩編10編で描かれる状況と通じているものがあるように思います。弱い立場にある人々の苦しみや痛みが、まるで「なかったかのように」見過ごされているという現状です。そのような現状が、さまざまな場面において見受けられるのではないでしょうか。たとえば、原発事故による放射能の被害もその一つであると思います。放射能の被害がまるで「なかったかのように」見過ごされている現状があり、さらには原発事故自体がまるで「なかったかのように」されてゆく状況があります。

 

 そのような状況の中にあって、最近、とても心に残った言葉がありました。1ケ月ほど前に前川喜平前文部科学事務次官が発言した、「あったものをなかったことにはできない」という言葉です(525日の会見にて)。

 

 皆さんもよくご存じの通り、連日、加計学園の獣医学部新設を巡って報道がなされています。「存在を確認できなかった」と言って内部文書が闇に葬られようとしていた中、前川氏は「あったものをなかったことにはできない」と言って事実を公にしました。「あったものをなかったことにはできない」というこの前川氏の言葉は、私がちょうど最近考えていたこと同じで、深く共感を覚えました。

 

 いまの私たちの社会は、存在を「なかったかのようにする力」が猛威を振るっているように感じています。前川氏の言葉を踏まえるなら、「あるものをないことにする」という不正義が横行しています。そのような中、前川氏は勇気をもって「あるものをないことにはできない」という正義を示しました。当たり前と言えば当たり前のことですが、「あるものをないことにはしない」というこの正しさを、私たちの社会に再び取り戻してゆくことが求められているように思います。

 

 神さまは、私たちの存在を決して忘れず、私たちの苦しみを決して「お忘れにならない」方である、ということを申しました。それは言い換えますと、神さまは私たちの苦しみや痛みを決して「なかったことにはなさらない」方である、ということです。

 

 この神さまの切なる願いを、私たち自身の願いとしてゆきたいと思います。