2017年6月4日「言葉に表せないうめきをもって」

 201764日 ペンテコステ礼拝

 聖書箇所:ローマの信徒への手紙81830 

「言葉に表せないうめきをもって」

 

 

 

ローマの信徒への手紙81830節《現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。/被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。/被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。/つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。/被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。/被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。/わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。/わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。/同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。/人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。/神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。/神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。/神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです

 

 

 

ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝

 

本日はペンテコステ礼拝です。教会学校の皆さんと合同で礼拝をささげています。ペンテコステは「聖霊降臨日」とも呼ばれます。聖霊とは、「神さまの霊」という意味です。イエスさまのお弟子さんたちに、聖霊が降ったことを記念する日です。

 

聖霊なる主は、私たちの目には見えません。聖書では、さまざまなイメージをもって、この見えない聖霊の働きが表されています。たとえば、聖霊は「鳩」のイメージをもって表されます。今朝、礼拝前の教会学校の分級の時間に、ハトのかたちをしたクッキーのアイシングをしました。礼拝後、皆さんとご一緒にいただきたいと思います! イエスさまが洗礼を受けられたとき、聖霊が「鳩のように降った」と聖書には記されています(マタイによる福音書316節を参照)

 

また、聖霊は「風」や「息吹」(創世記26節参照)のイメージで表されることがあります。風は目には見えないけれど、私たちは肌の感覚や耳で、確かにその気配を感じとることができます。そのように、聖霊は目には見せませんが、私たちにいつも働きかけてくださっているのだと聖書は語ります。

 

聖霊なる主 ~「火」や「炎」のイメージで

 

 

 聖霊は「火」や「炎」のイメージで表されることもあります。真っ赤に燃える炎です。聖書には、ペンテコステの出来事の際に、《炎のような舌》が一人ひとりの上にとどまった、と記されています(使徒言行録214節を参照)。今日は講壇の布も赤色になっていますね。わたしがつけているストールも赤色です。教会には典礼色というものがあり、ペンテコステの際は赤色が用いられます。講壇の上のお花も、今日は赤色ですね。『信徒の友 20165月号』の「礼拝で捧げるフラワーアレンジメント」のページ4647頁)を参考に、菊池瑞穂さんが活けてくださいました。一番上のグローリオーサリリーという赤い花は天から降り注ぐ聖霊を表わし、下のガーベラやバラなどの花は聖霊に満たされた人々を表現し、石の器は教会を表わしているそうです。

 

 

神さまの愛を

 

改めて、「炎」というものをイメージしてみてください。たとえばキャンプでのたき火。パチパチと音を立てながら、勢いよく燃える火。近づくと、あたたかいですよね。そのように、聖霊は私たちの心を燃やしてくださいます。私たちの心の中を、あたたかく、また、熱く。

 

すなわち、「炎」は、神さまの愛を表しています。私たち一人ひとりに対する、燃えるような神さまの愛です。聖霊が私たちの心にともしてくださっているのは、神さまの愛です。

 

時に私たちの心は冷たくなってしまうことがあります。石のように硬くなり、動かなくなってしまうことがあります。辛いことがあったり、悲しいことがあったり、また自分の心に余裕がないときも、そのようになってしまいます。そんな私たちの心を動かし、やわらかにし、再びあたたかなものに戻してくださるのが、聖霊なのですね。

 

たとえいま、どれほど自分の心がヒンヤリと冷えてしまっているように感じていたとしても、手を当ててよくよく自分の心の奥を探ってみると、そこに神さまの愛が燃えていることに気づくでしょう。心の奥にともされた炎に耳を澄ませてみてください。そこから、「わたしは、あなたを、愛しています」という神さまの愛の言葉が聴こえてくるでしょう。「わたしは、あなたを、愛しています」――この愛の言葉を伝えるため、聖霊はいつも私たちの心に働きかけて下さっているのです。この愛の言葉と出会う時、私たちの心は再びあたたかく燃え上がり始めます。

 

 

 

言葉に表せないうめきをもって

 

しかし、どれだけ耳を澄ませても、自分の心の奥から神さまの言葉が聴こえないときもあるでしょう。聴こえてくるのは、「辛い」「しんどい」「悲しい」という自分の声にならない声だけ、というときもあるでしょう。

 

 神さまは、私たちのこの声にならない声に、しっかりと耳を澄ましてくださっています。あなたが部屋で一人きりの時にした深いため息も、真夜中に発した声にならない声も、すべて神さまは聴き取っていてくださいます。

 

「かけがえなく大切な」あなたが苦しんでいることは、神さまにとって何よりも辛いことであるでしょう。あなたの苦しみが少しでもなくなってゆくように、あなたが愛を感じて喜びをもって生きてゆくことをこそ、神さまは願っていてくださいます。

 

先ほどお読みした聖書の言葉に、このような言葉があります。ローマの信徒への手紙826節《同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです》。

 

「うめき」とは、言葉にはならない、口から思わずもれる声のことを言います。ここでは、聖霊自らが、呻いておられるということが語られています。聖霊なる神さまが呻き声を上げておられる――驚くべき表現ですね。

 

聖霊が言葉にならない呻き声を上げておられるのは、私たち一人ひとりのことを思うゆえです。聖霊なる神さまは、あなたが辛い想いを抱いていることに、同じように辛い想いでいてくださっている。私たちの苦しみを受け止めて、わが苦しみとしてくださっているのです。あなたを愛するがゆえに、思わずもれた呻き声、それがここで言われている「言葉に表せないうめき」です。そうしてその言葉を祈りの言葉としてくださっています。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、聖霊なる主ご自身が言葉にならない呻きをもって祈っていてくださり、私たちのために執り成してくださっているのですね。

 

辛い現実を前に、私たちの口から呻きがもれるとき、神さまもまた共にうめいてくださっているのだということを思いおこしたいと思います。私たちは、決して、独りなのではありません。 また、これらうめきを通して、私たちもまた互いに結び合わされています。一つに結び合わされています。ですので、私たちは、決して、独りなのではありません。

 

どうか聖霊なる主がいま降ってくださり、ここに集ったお一人おひとりの心を、燃える愛で満たしてくださいますように。