2017年7月30日「主は正しくいまし、恵みの業を愛し」

2017730日 主日礼拝

聖書箇所:詩編11

「主は正しくいまし、恵みの業を愛し」

 

 

詩編1117節《指揮者によって。ダビデの詩。/

 

主を、わたしは避けどころとしている。/どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。/見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。/世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。/

 

主は聖なる宮にいます。/主は天に御座を置かれる。/御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。/主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み/逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。/

 

主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる

 

 

 

讃美歌『やさしい目が』

 

讃美歌470番『やさしい目が』を先ほどご一緒に賛美しました。『こどもさんびか』にも収録されており、教会学校で何度も歌ったことがある曲です。

1番の歌詞を改めて読んでみたいと思います。

 

《やさしい目が、きよらかな目が、

きょうもわたしを 見ていてくださる。

「まっすぐに あるきなさい」と 見ていてくださる》。

 

ここでの《やさしい目》とは、もちろん、イエス・キリストのまなざしのことですね。主の《やさしい目》が、今日もわたしを見ていてくださる。その安らぎ、喜びをこの曲は謳っています。

 

作詞者は深沢秋子さんという方です。深沢秋子さんがこの曲について、次の言葉を寄せていらっしゃいました。《日々の生活の中で、弱い信仰の歩みを、主イエスが支えてくださっていることを感じます。主のまなざしが注がれ、み手がさしのべられ、主の愛に満たされていることを知らされます》(日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21略解』、日本キリスト教団出版局、295296頁)

 

この讃美歌を歌いながら、幼き日のことを思い起こす方もいらっしゃるのではないでしょうか。まだ自分が幼い頃、親に見守られながら歩いたときの記憶。親の微笑み、そのまなざしを感じながら、飛び跳ねるようにして歩いた幼い日の記憶。

子どもは、誰かが自分を「見てくれている」からこそ、頑張れる、ということがありますね。信頼する存在がいつも自分を見ていてくれているんだという実感は、子どもに勇気を与えます。

 

先ほどの讃美歌『やさしい目』がでも、《やさしい目が、きよらかな目が、/きょうもわたしを 見ていてくださる》とありました。主のまなざしが、いつも自分に注がれていることの喜び。神さまの前では、私たちはみな幼な子です。神さまが自分を見てくださっていると信頼するとき、私たちは大きな力を得ます。

 

 

 

「神は見ておられる」

 

神さまが自分をいつも見てくださっている――一方で、私たちは場合によってはドキッとしてしまうこともあるかもしれません。神さまが自分を見ていてくださるのはもちろん嬉しいけれども、ちょっと困ることもある、と。私たちは日々の生活の中で、見てほしくない瞬間もあるからです。

 

子どもも、だんだんと成長してゆくにつれ、親に「見られたくない」という気持ちが生じて来ます。時に、親に「してはいけない」と言われていたことを、隠れてしたりもします。そうして私たちは大人になってゆくわけですが、「神は見ておられる」という言葉に、私たち自身、喜びや安心を感じることもあれば、また反対に、不安や畏れを感じることもあるのではないでしょうか。

 

聖書が語る主のまなざしは、私たちをやさしく包み込むまなざしであり、また同時に、わたしたちのすべてを見通しておられるまなざしでもあります。

 

本日の詩編11編にも、主のまなざしについての言葉が出てきました。詩編11編の場合、やさしくわたしたちを包み込むまなざしというより、厳しくすべての見通すまなざしとして語られています。

 

詩編1146節《主は聖なる宮にいます。/主は天に御座を置かれる。/御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。/主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み/逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。/

主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる》

 

《逆らう者に災いを火を降らせ》など強烈な表現も用いられていますが、ここで述べられているのは、すべてを見ておられる主は私たち人間がなすどんな不正も見逃されない、ということです。そのことへの固い信頼が語られています。神さまは、闇の中で行われた悪事もすべてを見通しておられる。

 

神はすべてを見ておられるという信仰は、とりわけ、困難の内にある人々、虐げられている人々の希望となりました。3節には《世の秩序が覆っている》という言葉もありましたが、世の秩序が乱れ、何が正しいのか正しくないのかが見失われているような状況の中、しかしそれでもなお神さまがすべてを見ておられるということは古代イスラエルの民の最後の希望となったのです。

主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる》。

 

 

 

良心とその痛み

 

聖書は「神のまなざし」ということを語りますが、日本でも昔からそれに近い表現があります。たとえば、「お天道様が見ている」という言葉です。誰も見ていなくても、天が見ている。だから、できる限り善いことをしよう。または、悪いことはしないでおこう、という意味の言葉ですね。

 

「誰かが見ている」「誰も見ていなくても天が見ている」という感覚は、「良心」ということと深いつながりがあります。古代イスラエルの人々も、「主のまなざし」を感じ、深く信頼する中で、「良心」というものを育んでいったのではないかと思います。

 

良心は英語ではconscience。語源は「共に知る」という意味だそうです。確かに、良心は他者との関係の中で、それを共有する中で、育まれてゆくものですね。

良心を育むうえで重要な役割を果たすのが、「他者のまなざし」の存在です。はじめは、親の目の存在が大きいでしょう。親の目にはじまり、私たちは他者のまなざしを気にするようになる中で、良心を育んでゆきます。

 

信仰をもっている人であれば、天からのまなざし、神や仏のまなざしにも心を向けるようになります。他者のまなざしよりも、天のまなざしに重きを置くようになってゆくのですね。また、私たちは成長するにつれ、自分の内にもまなざしをもつようになります。自分で自分を見つめるもう一つの目です。

 

私たちが何かをしようとするとき、どこからかの「まなざし」を感じる、そこにすでに、私たちの内で良心は働いているということができます。一方で、まなざしを意識しつつ、しかし、私たちはしてはいけないことをしてしまうことが多々あります。そのとき、私たちは心に痛みを感じます。良心の痛みです。

 

「まっすぐに歩きなさい」と言われても、なかなか「まっすぐに歩けない」私たち。右にそれ、左にそれていってしまう。してはいけないと分かっているのに、してしまう。したほうよいと分かっているのに、しないままでいてしまう。良心に痛みを感じながら生きざるを得ないのが私たちの率直な姿です。

 

そのような私たちですが、場合によっては、良心が麻痺してしまうこともあります。してはいけないことをしても、しなければならないことをしなくても、もはや痛みを感じなくなってしまう状態です。そうすると、何が正しいのか、正しくないのかの分別も自分の中で曖昧になってゆきます。これは極めて危うい状態ですね。まどろんでいる良心を目覚めさせることは、いまの私たちの社会の切実な課題であると思います。

 

また一方で、良心が敏感になりすぎることもあります。その場合、良心が自分を縛り、苦しめるようになります。自尊心が低下し、かわりに罪悪感が大きくなり、自分は「罰」を受けるに違いないという意識につながることもあります。良心が敏感でありすぎることも、場合によっては、私たちの心身に深刻な影響をもたらします。若き日のパウロも、良心が大変敏感な人であったように思います。

 

 

 

神さまの愛のまなざし

 

改めて、「神のまなざし」について考えてみたいと思います。イエス・キリストが伝えてくださっている神さまのまなざしとは、どのようなものでしょうか。

 

「神のまなざし」と聞くと、神さまが自分を非難する目で見ておられるイメージを抱いてしまう方もいらっしゃるかもしれません。自分は裁きを受けるに違いないと思ってしまう方もいらっしゃるかもしれません。けれども、主イエスを通して伝えられている神さまのまなざしは、そのようなまなざしではありません。

 

神さまのまなざしが私たちに語りかけていることは、神さまの目に一人ひとりの存在がいかにかけがえなく貴いかということです。神さまのまなざしは、そのことをこそ伝えてくださっています。

 

わたしの目に、あなたは価高く、貴い、わたしはあなたを愛している(イザヤ書434節)。

 

神さまは非難する目で私たちを御覧になってはいません。怒りの炎に燃える目でご覧になってもいません。私たちが犯したさまざまな過ちを責めることよりも神さまがまっさきに伝えたいことがあります。それが、「あなたという存在がどれほどかけがえなく大切か」ということです。あなたという存在をどれほど愛しているか、ということです。そのことを神さまはイエス・キリストを通して、絶えず私たちに語り続けてくださっています。

 

 

 

良心を育む土台となるもの

 

この主の愛のまなざしに出会い、この主の愛のまなざしに包まれて、私たちの良心は立ち上がる力を得ます。まどろんでいた良心は目を覚まし、痛みを痛みとして感じる力を取り戻してゆきます。また、過剰に敏感であった良心は痛みが癒され、平安を取り戻してゆきます。私たちが健やかな良心を育む土台となるものが、この神さまの愛であると信じています。

 

神さまの目にかけがえなく大切な自分と隣人を、私たちも大切にしてゆく。そのことを神さまは願っていてくださいます。神さまの目にかけがえなく貴い自分と隣人をないがしろにすることは、神さまの願いではありません。

 

命と尊厳が傷つけられる状況があれば、私たちははっきりとそれに対して「否」を言わねばなりません。それは、土台に愛があるからこそ発される「否」です。

 

主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる》――

主の愛のまなざしに、いま、私たちの心をまっすぐに向けることができますようにと願います。