2017年8月20日「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」

2017820日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書123337

「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」

 

 

 

マタイによる福音書123337節《「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。/蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。/善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。/言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。/あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

 

 

 

「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」

 

お読みしました聖書箇所の中に、《人の口からは、心にあふれていることが出て来る(マタイによる福音書1234節)という言葉がありました。私たちの口からは、心にあふれていることが出て来る。確かにその通りですね。私たちたちは日々の生活の中で発するさまざまな言葉――良い言葉も、悪い言葉も、私たちの心の中にあるものが出てきているものです。

 

この御言葉を読んで私が思い浮かべたのは、ここ最近のトランプ大統領の言動でした。812日にアメリカのバージニア州のシャーロッツビルで白人至上主義団体とそれに反対する団体が衝突し、一人の女性の命が奪われた事件に対し、トランプ氏は、15日に「両者に非がある」という発言をしました。人種差別を容認しているとも受け止められるこれらトランプ氏の言動が、現在アメリカで大変大きな問題となっていることは、皆さんもよくご存じの通りです。

 

トランプ氏は前日の14日、「人種差別は悪だ」と会見で訴えました。ただしそれは用意された原稿を読み上げるかたちでなされた発言でした。対して、「両者に非がある」とした15日の発言は会見の中で元来予定されていなかったもので、用意された原稿ではなくトランプ氏が自分の言葉で語ったものでした。このことから、トランプ氏の「本音が出た」ものとして強い批判が巻き起こっています。これらトランプ氏の言動は、「普段彼の心にあふれていることが出て来た」ものだと私も感じています。

 

一方で、オバマ前大統領は13日、自身のツイッターに、南アフリカの故ネルソン・マンデラ前大統領の自伝の言葉の引用を投稿しました。《〝No one is born hating another person because of the color of his skin or his background or his religion. People must learn to hate, and if they can learn to hate, they can be taught to love. For love comes more naturally to the human heart than its opposite." - Nelson Mandela》(誰も、肌の色や出自や宗教を理由に他者を憎むように生まれついた者はいない。人は憎むことを学ぶ。もし憎むことを学べるのであれば、愛することも教わることができるだろう。愛はそれら反対のものより人間の心にもっと自然なものであるはずだ。――ネルソン・マンデラ)。このオバマ氏のツイートに史上最多の「いいね」がついた(20日現在で4,459,000以上)ことでも話題となっています。

 

ネルソン・マンデラ氏のような信念がもしトランプ氏の心の中にあふれているのなら、そもそも、今回のような言葉を発することはなかったでしょう。トランプ氏の心の中にあふれているものが一体何であるのか、強い危惧を抱かざるを得ません。

 

「失言」という言葉があります。言ってはならないことをうっかり行ってしまうことですが、トランプ氏の発言は失言というより、「心にあふれていることが思わず口から出てしまった」ということなのだと思います。

 

私たちの国に目を向けてみましても、今年に入ってからだけで、政治家の人々のさまざまな「失言」が続きました。それら言葉は「誤解を与える表現」であったというより、やはり、「心にあふれていることが口からついて出てしまったもの」であったのでしょう。

 

 本日の聖書箇所の冒頭には、《木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる33節)と記されていました。木が良ければ、その実も良いものとなる。すなわち私たちの心が良い状態であれば、そこから生じる言葉も良いものとなる。反対に、木が悪ければ、その実も悪いものとなる。私たちの心が悪い状態であれば、そこから生じる言葉も悪いものとなると語られています。言葉というのは私たちの心を映し出すものであることを、改めて思わされます。

 

 

 

舌を制御できる人は一人もいない

 

新約聖書のヤコブの手紙には、次のような言葉があります。《わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です32節)、《舌を制御できる人は一人もいません38節)

 

私たちは皆、言葉で度々過ちを犯すものであり、言葉で過ちを犯さないという人は一人もいないということが語られています。過ちを犯すことが少ない、という人はいるでしょう。けれども、過ちを犯すことがない、そのような完全な人間というのは存在しないのです。

 

振り返ってみると、自分が発してしまった言葉に対する悔いというのが、私たちにはたくさん思い出されることでしょう。日々、言葉によって過ちを犯し続けてしまうのが率直な私たちの姿です。そしてそれら言葉は、他ならぬ私たちの心の中にあふれているものが口から出て来たものです。

 

 

 

「つまらない言葉」、「憐れみの言葉」

 

本日の聖書箇所では次のようなことも語られていました。《言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる》。私たちは、自分の発した言葉に対して責任があるというのですね。ドキッとさせられる言葉です。

 

《つまらない言葉》という表現が出て来ました。ここでの《つまらない言葉》とは、冗談やたわいもない話のことを意味しているのではない、というのはもちろんのことです。《つまらない》と訳されている語の形容詞は、原語では「何もしない」「何も動かない」という意味をもっているそうです。体を動かさない、心も動かさない。そういう中で発された言葉。本日はこの《つまらない言葉》を、他者の痛みに対して何も心を動かさないで発した言葉、という意味で受け止めてみたいと思います。

 

この《つまらない言葉》の反対の言葉は、「憐れみの言葉」でありましょう。他者の痛みを我がことのように感じ、その痛みに心を揺り動かされる中で発された言葉です。振り返ってみると、私たちは日々の生活の中で「憐れみの言葉」を発することがいかに少ないことでしょう。

 

 先ほど、私たちの国で政治家の方々の「失言」が続いているということについて触れました。今年の425日に、東日本大震災の被害に対して、今村(元)復興相が「これがまだ東北で、あっちの方だったから良かった」という発言をしました。復興大臣がこのような発言する、まことに信じがたいことで、皆さんも深い憤りをお感じになられたことと思います。東北に生きる私たちにとっては看過することのできない言葉です。この発言も「失言」というより、まさに「心にあふれていることが口からついて出てしまったもの」であるということができますが、この今村氏の言葉から感じるのは、他者の痛みに対する感受性の欠如です。

 

「これがまだ東北で、あっちの方だったから良かった」という発言は、被災地の人々の痛みを少しでも共有していれば、決して口から出て来ることはないであろう言葉です。このような言葉が口から出て来るということは、被災地の方々の痛みに対して何も心を動かしていない、被災地の方々の痛みに対して無理解である証拠だと考えざるを得ません。

 

東北で生活している私たちは、今村氏のような発言をすることは決してないでしょう。一方で、別の事柄に対しては、何らかの失言をしてしまうことは起こり得ると思います。私たちもまた、日々の生活の中で、自分がいまだよく知らない事柄に対しては、《つまらない言葉》――人の痛みに無理解な言葉を発してしまうことがあるのではないでしょうか。そうして、自分の心を身勝手な想い、過った思い込みでいっぱいにしてしまっているのです。

 

それら《つまらない言葉》に対して、やはり私たちは責任があるのだと思います。たとえ誰も聞いていなくても、主が聞いておられます。

 

本日の主の言葉は私たちの言葉を問うと共に、私たちの心を、そして生き方そのものを問うています。他者の痛みに鈍感なままでよいのですか、と。そのような生き方は結果的に他者を傷つけ、自分自身を傷つけることにつながっていってしまうものだからです。

 

 

 

人の痛みが分かる心を取り戻すこと

 

 マタイによる福音書に、《『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい》という主イエスの言葉が記されています(マタイによる福音書913節)。《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない》は旧約聖書のホセア書66節)からの引用です。本田哲郎神父はこれを《わたしが求めるのは人の痛みが分かることであって、いけにえではない》と訳しています。(本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音書――四福音書および使徒言行録』、新世社、2001年)

 

主イエスは私たちに憐れみの心をもつこと――すなわち、人の痛みが分かる心を取り戻すことを求めておられます。そのために、主イエスが重要なこととして挙げてくださっているのは、「行って学ぶ」という姿勢です。《『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい

 

私たちが痛みに対する感受性を取り戻すには、現実に痛みを感じている人のところに行って、学ぶことが重要であることを主は伝えてくださっています。痛みを感じている人々のところに行って、その声に耳を傾けること。そのことを通して、私たちの心の中にあふれているものは、少しずつ変えられ、新たにされてゆくのだと思います。私たちは自分の舌を完全に制御することはできないのだとしても、心の中にあふれていることを日々少しずつ新たにしてゆくことはできるでしょう。

 

 

 

主の憐れみの心

 

福音書は、主イエスご自身が町や村を巡って痛みを感じている人々のところに赴いてくださったことを伝えています。《イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。/また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(マタイによる福音書93536節)

 

「深く憐れまれた」という部分を、岩波訳聖書は《腸のちぎれる想いに駆られた》と訳しています。主は私たちの痛みに対して心を激しく動かしてくださる方であり、私たちの痛みをご自分の痛みとしてくださる方であることが示されています。聖書が私たちに伝えているのは、この主の憐れみの心です。この主の憐れみの心に包まれる中で、頑なであった私たちの心は再び柔らかなものになってゆきます。

 

どうぞ私たちの心にこの主の憐れみが沁みわたってゆきますように、そして、心からあふれ出るものとして言葉を発してゆくことができますようにと願います。