2017年8月27日「今、わたしは立ち上がり」
2017年8月27日 主日礼拝
聖書箇所:詩編12編
「今、わたしは立ち上がり」
詩編12編1-9節《指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。/
主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。/人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します。/主よ、すべて滅ぼしてください/滑らかな唇と威張って語る舌を。/彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」/
主は言われます。「虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」/主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。/主よ、あなたはその仰せを守り/この代からとこしえに至るまで/わたしたちを見守ってくださいます。/
主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき》
「言葉」について
月に一度、旧約聖書の詩編から説教をしています。詩編は古代イスラエルの人々の神さまへの賛歌が集められたものです。本日ご一緒にお読みするのは詩編12編です。
詩編12編は、神さまへの懸命な祈りから始まります。2節《主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました》。 語り手の「わたし」は現在、大きな苦しみの中にいることが伺われます。
続く3節には、《人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します》という言葉があります。どうやら語り手の「わたし」は、周囲の人々の偽りの言葉、偽善的な言葉によって苦しめられているようです。
4-5節《主よ、すべて滅ぼしてください/滑らかな唇と威張って語る舌を。/彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」》。
自分の都合や利益のためには、嘘を言ってもよい。事実を曲げても良い。そのように考える人が周りに多くいる状況があったようです。言葉というものがそのように、自分の都合のためだけに用いられてしまっている状況。真実なる言葉が見失われてしまっている状況。語り手のわたしはその状況を嘆いています。
本日の詩編12編は、「言葉」について、改めて考えさせられる詩編です。私たちは日々の生活の中で数多くの言葉を発していますが、どのような言葉を発しているか、ふと立ち止まって考えさせられます。私たちもまた、気が付くと、自己中心的な言葉を発してしまっていることが多いのではないでしょうか。
神さまの言葉 ~いま痛みを感じている人々のために
本日の詩編の後半では、私たちの言葉に対比するようにして、神さまの言葉について記されています。たとえば、7節《主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀》。神さまの言葉は、七度も精錬された銀のようだ、と語られています。七というのは古代イスラエルでは完全を意味する言葉です。神さまの言葉は、混じりけがない銀のように完全である。その言葉には裏表はなく、どこまでも誠実なものであるということが語られています。
6節には、神さまが発される具体的な言葉が記されていました。6節《主は言われます。「虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」》
ここでは、《虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために》ということが語られています。いま痛みを感じている人々のために発された言葉、発されずにはいられなかった言葉、それが神さまの真実なる言葉であるのですね。
ここに、本日の詩編が私たちに伝えてくれている大切なメッセージがあるように思います。
自己中心的な言葉、そうではない言葉
私たちが普段の生活の中で自己中心的な言葉を発してしまっている時、それは言いかえますと、他者の痛みへの感受性を失ってしまっている時です。嘆き苦しんでいる人がいても、その人の気持ちに想いを馳せることなく、自分の言葉を語ってしまう。気が付くと私たちはそのような言葉を発してしまっています。そのような私たちの自分勝手な言葉は、時に深く人を傷つけてしまうことになってしまいます。そのような言葉は現状を変えることにはつながらず、私たちの関係性をバラバラに断ち切ることにつながってしまいます。
対して、私たちの心が他者の痛みに対して開かれている時。嘆き苦しんでいる人の存在に気づき、その痛みに想いを馳せることができた時。その時、私たちの発する言葉はもはや、単に自己中心的なものではなくなってゆくでしょう。他者の痛みに心を動かされる中で発された言葉は現状を変える力となってゆきます。また私たちを互いに結び合わせてゆくことにつながってゆくのだと信じています。
「わたしが求めるのは憐れみ(人の痛みが分かること)であって、いけにえではない」
先週もご紹介しましたが、イエス・キリストの言葉に、《『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい》という言葉があります(マタイによる福音書9章13節)。
《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない》は旧約聖書のホセア書(6章6節)からの引用ですが、この部分を、カトリックのフランシスコ会の司祭の本田哲郎神父は《わたしが求めるのは人の痛みが分かることであって、いけにえではない》と訳しています(本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音書――四福音書および使徒言行録』、新世社、2001年)。大胆な訳ですが、分かりやすい、素晴らしい訳し方であると思います。主イエスは私たちに、「憐れみの心をもつこと」――すなわち、「人の痛みが分かる心」を取り戻してゆくことを願っておられます。この憐れみの心から発された言葉が、力ある言葉、真実なる言葉となってゆきます。
互いの痛みを学び続ける
私たちは日々の生活の中で、すぐに「憐れみの心(人の痛みを分かる心)」が鈍っていってしまうものです。慌ただしい生活の中で、自分の心に余裕がない中で、気が付くと、私たちは人の痛みに対して無感覚になってしまっています。
他者の痛みに対して心を開いていることは、簡単なことではありません。私たちはすぐにでも他者の痛みに対して心を閉じてしまうものです。だからこそ意識的に、心を開こうとすることが重要なのでありましょう。他者の痛みについて学ぼうとする姿勢を持ち続けることが重要なのでありましょう。
私たちは、自分が経験した痛みに通じる人の痛みについてはある程度、我がことのように感じることができます。少なくとも、その痛みを想像することはできるでしょう。けれども、自分が経験していない痛みについては、分かりません。私たちは基本的に、他者の痛みについて「分からない」と自覚することがまず必要であるように思います。私たちは他者の痛みについて無理解であり、知らずしらず人を傷つけてしまっていることが多くあるでしょう。それは身近な家族や友人であってもそうです。
自分がまったく痛く感じない領域も、他の人にとっては、痛くて耐え難いものであるかもしれません。また、同じような痛みを抱えている人々においても、やはりその痛みは、一人ひとり異なるものでしょう。であるからこそ、私たちは互いに互いの痛みを学び続けてゆく必要があります。
「行って学びなさい」
先ほど引用しました主イエスの言葉は、「行って、学ぶ」ことの大切さを伝えてくださっています。《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい》。
いま現実に痛みを感じながら生きている人のところに行って、その声に耳を傾けること。そのことを通して、私たちは自分がまだ知らない痛みについて学んでゆくのだと思います。私たちは基本的に人の痛みに鈍感であるのだとしても、「行って、学ぶ」という姿勢を持ち続けているか、いないかは大きな相違であるでしょう。
主イエスは生前、痛みを抱えて生きる人々、嘆き苦しんでいる人々を自ら訪ねて回られました。そして人々の痛みを自分の痛みとして共有してくださいました。主自らが「行って、学ぶ」ことを実践してくださったのです。
主の憐れみ ~はらわたのちぎれる想いで
マタイによる福音書9章35-36節《イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。/また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》。
ここで《深く憐れまれた》と訳されている語は原語のギリシャ語では「スプランクニゾマイ」といい、名詞の「スプランクノン」は「内臓(子宮などの生殖系を含む)」を意味する言葉です(参照:荒井献『イエスと出会う』、岩波書店、2005年、147頁)。別の翻訳(岩波訳聖書)はこの部分を《腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた》と訳しています。
主は、はらわたがちぎれる想いで私たちの痛みを我が痛みとしてくださっている方であることが示されています。
私たちの目の前にあるさまざまな悲惨な現実。その現実を前に、主イエスはいまもはらわたがちぎれる想いで苦しみを共にしてくださっているのだと信じます。主はいつも私たちと共にいてくださり、私たちの痛みを我が痛みとしてくださっています。この主の憐れみは、いまここにいる私たち一人ひとりを包んでいます。この主の憐れみに包まれるとき、頑なであった私たちの心は再び柔らかにされてゆきます。
私たち一人ひとりをはらわたがちぎれる想いで見つめてくださっている主の憐れみに立ち還りたいと願います。そしてその憐れみに根ざした言葉を発することができますようにと願います。