2017年9月3日「人々はしるしを欲しがる」

201793日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書123845

「人々はしるしを欲しがる」

 

 

 

マタイによる福音書123845節《すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。/イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。/つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。/ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。/また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」/

 

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。/それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。/そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 

 

 

「人々はしるしを欲しがる」    

 

 本日の聖書箇所には、律法学者とファリサイ派の人々とイエス・キリストの会話が記されています。数人の律法学者とファリサイ派の人々は、「先生、しるしを見せてください」と主イエスに願い出ました(マタイによる福音書1238節)

 

《しるし》というのは聖書独特の言葉遣いですが、言い換えれば、「奇跡的な出来事」のことです。律法学者やファリサイ派の人々は、主イエスを試すために、「先生、奇跡を見せてください」と言ったのですね。「もし、あなたが奇跡を起こすことができるのなら、私たちはあなたを神の力をもつ救い主として信じてもいいですが、いかがでしょう……?」というようなニュアンスでしょうか。

 

 確かに、奇跡的な出来事を目の当たりにすれば、人はいや応なく信じずにはおられなくなるでしょう。律法学者やファリサイ派の人々の言葉に対して、しかし、主イエスはうなずくことはなさいませんでした。そして「人々は、《しるし》を欲しがる――奇跡を欲しがる」と批判的な言葉を述べられました(マタイによる福音書1239節)。いまの時代の人々は、すぐに目に見える《しるし》を求める風潮がある、困ったものだ、と嘆かれたのですね。

 

 

 

すぐに「結果」や「答え」を求めてしまう私たち

 

「人々は、すぐに《しるし》を欲しがる」という主イエスの言葉は、いまの私たちの時代にも当てはまるのではないでしょうか。現代を生きる私たちもやはり、性急に目に見える《しるし》を求めてしまう部分があるように思うからです。その意味で、これはどの時代に生きる人間にも共通する課題であるということができるのかもしれません。

 

《しるし》を何か「奇跡的な出来事」と言いかえることもできますし、「結果」と言いかえることもできるでしょう。また「答え」と言いかえるもできるのではないでしょうか。

 

 私たちはすぐに「結果」を求めてしまう。すぐに「答え」を求めてしまう。忍耐して待つ、ということがなかなかできません。ここ最近、私たちは忍耐することがさらに苦手になってきているかもしれません。私たちの社会において、すぐに「結果」や「答え」を求めようとする傾向はさらに強くなってきているように思います。

 

ふと思い出したのは、幼い時のアドベントの思い出です。クリスマスを待ち望む期間であるアドベントの時期に飾るアドベントカレンダーというものがあります。カレンダーの中の小さな窓を一日ずつ開けてゆくもので、小窓の下には、クリスマスにちなんだ絵が描かれています。カレンダーによってはチョコレートなどのお菓子が入っている場合もあります。幼稚園の頃、アドベントに入って数日経った時、クリスマス当日の25日の小窓の下に何が描かれているのかが待ちきれなくなって、隙間から覗いてしまったことがあります。そこには確か、マリアとヨセフと赤ん坊のイエスさまの絵が描かれていたように思いますが、見てしまって何だか大切な楽しみを失ってしまったようで、がっかりしてしまったことを覚えています。一日ごとに小窓を開けてゆく、そうしてクリスマスを楽しみに待ち望むその時間がアドベントカレンダーの醍醐味であることを当初は理解できていませんでした。

 

また、小学生の低学年の頃、子ども向けの推理小説を初めて読んだときのことです。まだ冒頭の部分しか読んでいないのに、事件の犯人が気になって、途中を全部飛ばして犯人が書かれているページを読んでしまいたい衝動に駆られたことを覚えています。推理小説は犯人をつきとめるまでの過程が醍醐味であるわけですが、その楽しみをいまだ理解することができていなかったのですね。

 

と、我ながら幾分可愛らしい例を挙げましたが、私たちは大人になっても、日々の生活においてそのような――いわば「幼い」――心持ちになることがあるのではないでしょうか。性急に「結果」や「答え」を求めてしまう、という心持ちです。アドベントカレンダーは待ち望むその時間が醍醐味であるように、推理小説において犯人をつきとめるまでの過程が醍醐味であるように、私たちの人生では「答え」に至るまでの過程こそが大切な意味をもつ、ということがあるのですが、そのことを忘れてしまうのですね。言いかえれば、私たちは生きてゆく中で、「問い」を持つこと、「問い」に向かい合い続けることこそが大切であるように思います。

 

自分なりに「問い」を持ち続けること――それは確かに私たちにとって、大変なことであるかもしれません。忍耐、エネルギーのいることでもあるでしょう。しかしそこに生きることの豊かさがあるように思います。その過程を通して、かけがえのない出会いや喜び、楽しみもまた与えられてゆくように思います。

 

 

 

自分の心を「明け渡してしまう」ことの危険性

 

 私たちは生きてゆく中で、さまざまな問題、課題に出会います。その大部分が、すぐには「答え」が出ない問題です。私たちの目の前には、容易に「答え」が出ない問題、なかなか「結果」が出ない問題が山積しています。

 

私たちは心から余裕が失われてゆくとき、もはやその「困難さ」「複雑さ」に堪え得ない心持ちになることがあります。答えの見えない問題にこれ以上耐えていることはできない。いっそすべてをはっきりさせてほしい、白黒をはっきりつけてほしい。誰か自分に答えを与えてほしい、また、目に見える結果を与えてほしい……そのような衝動に駆られてしまうことがあるでしょう。また、何か「奇跡的な」出来事が起こって、目の前にある現実がすっかり変わったらいいのに……と心のどこかで願ってしまう瞬間が私たちにはあるのではないでしょうか。私たちの社会全体が、そのような衝動に駆られてしまっている傾向があるようにも思います。

 

 そのような時、私たちが求めてしまうのは、何かはっきりとした「答え」や「結果」を与えてくれそうな人物です。力強い、いわゆる「カリスマ的」人物とでも言いましょうか。そのようなリーダーの出現を待望してしまう危険性があります。

 

 確かに、誰かにはっきりとした「答え」や「結果」を与えてもらったら、私たちは楽になるような気がします。その指令に従って、ただ行動すれば良いのですから、それはある意味、楽なことです。ただし、そのとき私たちはその安楽さと引き換えに、大切なものを失ってしまうことになります。それは他でもない、「自分自身」です。安楽さと引き換えに、代替不可能な「個人」としての「私」を相手に「明け渡してしまう」ことになります。

 

 本日の聖書箇所の後半部には、主イエスの語られた不思議なたとえ話がありました。マタイによる福音書124345節《汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。/それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。/そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう》。

 

 このたとえ話において、「家」は私たちの「心」を表しています。このたとえ話をどのように受け取るかはさまざまな解釈が可能ですが、本日は、私たちの心を誰かに「明け渡す」ことへの警鐘を鳴らすたとえ話として受け止めてみたいと思います。

 

私たちが自分の心を空き家にしてしまう時、すなわち誰かにすっかり「明け渡してしまう」時、私たちの心の中は以前よりもさらに深刻な状態になってしまう場合があります。空き家になった私たちの心には、以前よりもさらにたくさんの「悪しきもの」――私たちの主体性を奪い、私たちを支配しようとする力――が住み着いてしまう危険性があるのです。

 

私たちはたとえ苦しくても、誰かに心を「明け渡す」ことはせず、自分なりの「問い」、人生の課題に向かい合い続けることが求められています。それが、かけがえのない=替わりがきかない「自分自身」であり続けることになるからです。

 

旧約聖書の箴言にはこのような格言があります。《何を守るよりも、自分の心を守れ。/そこに命の源がある》(箴言423節)

 

 

 

聖書という書について

 

「答え」を性急に求めるのではなく、「問い」にとどまり続けることの重要性について触れました。では、聖書はどうなのでしょうか。聖書という書は、私たちに人生の「答え」を与えるための書なのではないか、という意見もあることでしょう。

 

 私としては、聖書は私たちの人生に「答え」を与える手引書ではない、と受け止めています。聖書は、私たちの「問い」に対して、必ずしもすぐにはっきりとした「答え」を与えてくれるわけではありません。もちろん、時に聖書の御言葉が、自分が現在抱えている問題へのはっきりとした「答え」となる時もあるでしょう。それは本当に素晴らしい、恵みの出来事です。ただし聖書を開くごとにその都度、自分が抱えている問題への「答え」が与えられるということは、基本的にはないように思います。むしろ多くの場合、聖書の言葉は私たち一人ひとりが自分なりの「答え」を見出すための力となってくれるのではないかと思います。言いかえますと、私たちが人生の「問い」に「向かい合い続ける」ための確かな支えとなってくれるものだということです。私たちが思考停止に陥ることなく、目の前の「難しい問題」にとどまり続けることできるように、その力を与えてくれるものが聖書の言葉であると受け止めています。

 

ただし、これはあくまで私自身の受け止め方ですので、皆さんもそれぞれ自分としての聖書の受け止め方を大切にしていただければと思います。

 

 

 

復活の主が共にいてくださる「奇跡」 ~「問い」に向かい合い続けるための力

 

「答え」は、私たち一人ひとりの心の内にあります。「答え」は、他でもない、私たち一人ひとりの内にある――私はそのように受け止めています。人生の「答え」は、誰かに教えてもらったり、誰かに与えてもらったりするものではありません。私たちが一歩一歩人生を歩む中で、時間をかけて、自身の内に見いだしてゆくものなのではないでしょうか。

 

主イエスは私たちの内に共にいてくださり、私たちが自分の「答え」を見出すための支えとなってくださっています。私たちが「問い」に向かい合い続けるための支えとなってくださっています。主イエスは私たちと共に苦しみ共に喜びながら、目の前にある「難しい問題」に踏みとどまり続けるための力となってくださる方です。

 

 マタイによる福音書の最後には、復活された主イエスの言葉が記されています。《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイによる福音書2820節)

 

 復活の主がそのようにいつも「私たちと共にいてくださる」こと、それが私たちにとっての「奇跡」です。この決して消えることのない《しるし》があるので、私たちは困難な「問い」にも向かい合い続ける力を得ることができると信じています。またその歩みの中で、愛する人々とのかけがえのない出会い、生きることの喜び、楽しみもまた与えられるのだと信じています。