2018年1月14日「あなたの願いどおりになるように」

2018114日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書152128

「あなたの願いどおりになるように」

 

 

 

マタイによる福音書152128節《イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。/すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。/しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」/イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。/しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。/イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、/女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」/そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた

 

 

 

一度はじめたことを「止められない」社会

 

 新しい年になり、2週間が経ちました。皆さんはどのような今年の目標や計画を立ててらっしゃるでしょうか。今年一年、皆さんにとって素晴らしい年になりますようにお祈りいたします。

 

 自分が立てた計画どおり行っていくのは、なかなか難しいことですね。立てた目標が三日坊主で終わってしまうことも私たちにはよくあります。

 

 また一方で、自分が立てた計画に自分で縛られてしまうということもあると思います。一度立てた計画であるから、なかなかそれを変更できない。特に、自分一人ではなく、多くの人が関わる計画であればあるほど、一度立ててしまった計画を変更することが難しくなるということがあります。より良い計画に変更したり、また場合によっては計画を中止するという決断を下すことができなくなってゆくのですね。

 

 私たちの日本の社会は、一度立てた計画を変更したり中止したりすることが苦手(?)です。一度動きはじめたら、なかなか「止める」ことができない傾向があるように思います。計画の規模が大きくなれば大きくなるほど、たとえば国家的なプロジェクトになると、それこそ一度動きはじめたら「止める」ことが困難になります。『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(矢部宏治、集英社インターナショナル、2014年)という本もありますが、「止める」べきことが「止められない」という現状があります。

 

 そのことにはさまざまな要因がありますが、その理由の一つに、私たち日本に住む者の考え方が関わっているように思います。いったん計画が動き始めたら、もはやそれを自分たちの手から離れて自動的に動いてゆく「自然現象」のように捉えてしまうという傾向です。

 

それら仕組みや構造はあくまで私たちが自分たちの手で造り出しているものであるのに、まるで天から与えられた現象のように受け止めてしまうのです。そうして、何か問題が起こっても、「仕方がない」ものとして受け入れてしまう。問題に正面から向かい合うことをせず、「仕方がない」ものとして「諦めモード」になってしまう傾向があるように思います。

 

私たちの社会ではさまざまな問題がありますが、それらほとんどすべてが、私たち自身が造り出している人災であることに、常に私たちは立ち戻る必要があるでしょう。戦争は、その人災の最たるものです。戦争は天から与えられた災い(天災)などではなく、他ならぬ私たち自身が造り出している人災です。ですのでその責任ははじめから終わりまで、私たち自身にあります。戦争は決して、「仕方がない」ものとして受け入れてしまってはならないものです。

 

私たちの目の前にあるさまざまな課題、問題――それらを造り出しているのが私たち自身であるならば、それをより良い方向へ変えてゆくのも、やはり私たち自身です。

 

 

 

運命論と自由意志

 

 古代から人々の心を捉えてきた考え方に、「運命論」というものがあります。「この世界に起こる出来事ははじめからそうなるように定められている、それを私たち人間の意志や力で変えることはできない」という考え方です。大昔から、この考え方は大きな力をもってきました。目の前のさまざまな問題を、天が定めた運命として、「仕方がない」ものとして受け入れ、耐え忍ぶ考え方ですね。

 

このような考えというものは、確かに現状を耐え忍ぶためには有効ではありますが、現状をより良いものに変えてゆくことにはつながらないものでしょう。

 

では、キリスト教はどうでしょうか。聖書には「神さまの計画」ということが記されています。このことから、聖書は「運命論的な視点」に基づいて書かれているという印象を受ける人もいるかもしれません。確かに、聖書の中にはそのようなニュアンスで書かれている物語もあります。

 

けれども一方で、聖書は、神さまが人間に「自由意志」を与えたことを語っています。神さまは私たち人間に、自由にものごとを考え、自由に決定をすることができる自由意志をお与えになった。もしすべてのことが神さまによってはじめから決定づけられているのなら、そもそも私たちに自由意志が与えられていることの意味は失われてしまうのではないでしょうか。

 

 私個人の考えですが、私は「聖書は運命論に基づいて書かれてはいない」と受け止めています。むしろ私たちの主体的な意志決定を重んじている書である、と。

 

この世界に起こる出来事は、初めから神さまによってそうなるように定められているのではなく、むしろ私たち人間の態度によって変わり得るものである。私たちが心の持ちようを変え、生き方を変えてゆくことによって、私たちの未来もまた変わってゆく。そのように私は受け止めています。どんなに困難な現実が目の前にあろうとも、私たちの内にはそれをより良い方向へ変えてゆく可能性が秘められているのです。

 

 私たちの未来はいわば、常に「白紙」の状態です。そのまっさらなページに何を書き込んでゆくかは、それは私たち一人ひとりの自由な意志に委ねられています。

 

 神さまは私たちが自由に、尊厳をもって生きてゆくことをこそ、願ってくださっているのだと信じています。

 

 

 

主イエスとカナン人の女性

 

先ほどお読みした聖書箇所には、悲観的な運命論に陥ることなく、主体性をもって新しい未来を切り開いた一人の人物が登場します。一人のカナン人の女性です。名前は記されていませんが、このカナン人の女性は確かな意志をもって、未来を切り開いてゆきました。

 

物語の舞台となっているのはティルスとシドンいう古代都市で、現在のレバノンの南西部に位置している地域です。地中海に面したティルスは、古くからフェニキア人の重要な港町として繁栄していました。主イエスはこの時パレスチナを離れ、外国の人々が多く住む街を訪れていらっしゃったのですね。

 

そのとき、一人の女性が主イエスの前に現れます。先ほどのカナン人の女性です。

女性には《悪霊》に取りつかれて苦しんでいる娘がいました。ここでの《悪霊》が何を示すのか、現在の私たちにははっきりとは分かりませんが、何かの病気であったのでしょう。女性は娘を癒してほしいという切なる想いをもって、主イエスのもとに駆けつけたのでした。《主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています22節)

 

しかし主イエスは何もお答えになりませんでした。女性は再び《主よ、どうかお助け下さい》と訴えます。すると主イエスは《子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない26節)と言って、女性の訴えをやんわりと退けました。

 

子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない》というのはことわざのような不思議な言葉ですが、教会では伝統的にここでの《子供たち》とは同胞のイスラエルの人々を意味し、《小犬》とは外国の人々を意味すると解釈してきました。《パン》は神さまの救い、恵みを意味しています。その解釈を踏まえて主イエスの発言を言い直しますと、「神さまの救いはまずイスラエルの人々に与えられることになっている。外国人であるあなたがたの順番はまだ来ていない」となります。

 

主イエスがなぜこのように突き放すような言い方をなさったのか、はっきりとは分かりません。その意図は分かりませんが、ここで福音書が記しているのは、それでもこの女性はあきらめることをしなかった、ということです。

 

 

 

すでに決定づけられていたような状況が動き出す

 

「神さまの救いはまずイスラエルの人々に与えられることになっている。外国人であるあなたがたの順番はまだ来ていない」。そうはっきりと宣告されたら、多くの人は「それならば、仕方がない」とあきらめて引き返してしまうのではないでしょうか。それが「神さまのご計画」ならば、「仕方がない」と諦めてしまうかもしれません。けれどもこの女性は「仕方がない」こととして諦めることをしませんでした。

 

女性は主イエスの言葉を受けて、さらに言葉を返しました。《主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです27節)。女性はそう言って、自分に言われた言葉の内容を、見事に肯定的な意味へと方向転換させました。同胞の人々にまず救いの手を差し伸べねばならない、それはごもっともです。しかし、外国人である私たちも神さまの満ちあふれる救いの恵みに与ることができます、と。

 

女性のこの言葉を受けて、主イエスはお答えになりました。《婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように28節)。そのとき、娘の病いは癒されました。女性の娘を想う気持ちと主イエスへの信頼が、主イエスを動かし、「神さまのご計画」とされていることをも変えたのです。

 

本日の物語の女性の姿から、「神さまのご計画」とされていることにただ従順であるだけが、信仰者の姿ではないということを知らされます。「神さまのご計画」とされていることも、それは人間の意志によって修正され得ることであるかもしれないのです。私たちが懸命に願い、行動する時、すでに決定づけられていたような状況が動き出し、より良い未来が切り開かれてゆくということが起こり得ます。

 

私たちの社会を見渡してみますと、物事がすでに決定づけられているということがさまざまな場面で起こっています。私たちの主体的な意志とは関係なく、また私たちの意志に反して、物事が決められ進められてゆく、ということが起こっています。一部の人が「これはこういうことになっています」と言って、ものごとを進めてしまっている現状があります。いわば、一種の運命論に基づいて、社会が動かされてしまっているということができるのではないでしょうか。

 

目の前にあるさまざまな問題ある現状を「仕方がない」ものとして受け入れてしまっているのだとしたら、私たち自身もまた運命論に支配されてしまっているのだということになるでしょう。もし目の前に苦しんでいる人がいるのだとしたら、もし人々の尊厳がないがしろにされている現実があるのであれば、私たちはその現実を、「仕方がない」ものとして受け入れてしまってはなりません。

 

 

 

《あなたの願いどおりになるように》

 

 主イエスは女性に対して、《あなたの願いどおりになるように》とおっしゃってくださいました。人がどう思うっているかではなく、他ならぬ、あなたが願っているとおりになるように。あなたが心から願っていることが実現するよう、私も願うとおっしゃってくださったのです。あなたが心から願っていることを手助けするため、主はいまも共にいて、支えて下さっています。

 

それは、神さまの目から見て、あなたの存在がかけがえなく大切なものであるからです。かけがえなく大切なあなたが自分らしく、喜びをもって生きてゆくことが、神さまの願いであるからです。そのために、神さまは御子イエス・キリストを私たちのもとにお遣わしくださいました。神さまは人間の尊厳がないがしろにされている現実を、決しておゆるしにはならない方です。 

 

私たちの生きる社会が少しでもより良いものとなってゆきますように、私たち一人ひとりが心から願うことが十分に実現される社会となってゆきますように。主の愛を信頼し、共に歩んでゆきたいと願います。