2018年1月21日「主の愛を分かち合う」

2018121日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書152939

「主の愛を分かち合う」

 

 

 

マタイによる福音書152939節《イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。/大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。/群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。/

 

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」/弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」/イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。/そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、/七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。/人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。/食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。/イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた

 

 

 

「憐れみ」という言葉

 

聖書の中には「憐れみ」という言葉が繰り返し出て来ます。神の憐れみ、とか、イエス・キリストが人々を憐れまれた、など。聖書において、非常に大切な言葉として使われています。

 

私たちの日本の社会では近年、「憐れみ」という言葉にはあまりよくないイメージがもたれていることが多いかもしれません。「人を憐れむ」という語に、どこか「上から目線」のようなイメージが伴っているからでしょうか。安全な場所から苦しんでいる人を見降ろして、「ああ、気の毒な人たち」と言っているというようなイメージ。そのようなイメージが伴う「憐れみ」であれば、確かに私たちはたとえ自分が困っていたとしても人から「憐れみ」など受けたくはないと思うことでしょう。

 

聖書は「憐れみ」という言葉を大切にしています。しかしそれは、いま言ったような意味での「憐れみ」ではないのだと思います。

 

福音書の中には、イエス・キリストが打ちひしがれている人々を見て「深く憐れまれる」という場面が出て来ます(マタイによる福音書936節など)。岩波訳聖書では「深く憐れまれた」という部分を、「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた」と訳しています。原語(ヘブライ語)の「憐れむ」という動詞が、「内臓」を意味する名詞に由来していることから、そのニュアンスを生かして「腸のちぎれる想いに駆られる」と訳出しているのですね。大胆な訳し方ですが、聖書における「憐れみ」がどのようなものであるか、分かりやすく私たちに示してくれているものであると思います。聖書における「憐れみ」とは「上から目線」のものではなく、自分の腸が引き裂かれるような「共感」――「他者の痛みを自分の痛みのように感じること」だということが伝わってきます。

 

主イエスは、打ちひしがれている人々を御覧になって、「腸のちぎれる想いに駆られた」。すなわち、人々の辛そうな表情を見て、心が引き裂かれて、いてもたってもいられなくなった。人々の痛みを、ご自身の痛みとして受け止めてくださった。そのような主のお姿を示すものとして、「憐れみ」という言葉を受け止め直してみるとき、また違ったものとしてこの言葉が私たちの目の前に立ち現われてくるかもしれません。

 

 

 

「奇跡」よりも根本的なもの

 

 本日の聖書箇所にも、主イエスが人々を「深く憐れまれる」場面が出て来ます。ご自身のもとに集ってきた大勢の人が、食べ物がなくて困っている姿を御覧になり、《群衆がかわいそうだ》とつぶやかれた場面です。

 

32節《群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない》。

 

先ほどご紹介した岩波訳聖書はこの部分をやはり《この群衆に対して、私は腸(はらわた)のちぎれる想いがする》と訳しています。食べ物がなく弱っている人々の苦しみを共にしてくださっている主のお姿が示されています。

 

本日の聖書箇所には、病いの人をいやす奇跡や、7つのパンと少しの魚で四千人もの人々を満腹させた奇跡が記されていて、私たちはついついそちらの方に関心を集中させてしまいがちですが、これらいわゆる「奇跡物語」の土台に主の「憐れみ」があるということを心に留めておきたいと思います。この主の憐れみが源泉となり、さまざまな力が――時に人知を超えた力が生み出されているのだと受け止めることができます。

 

「奇跡」よりもより根本的なものとして、この「憐れみ」があるということができるでしょう。主イエスが自分たちの痛みをご自身の痛みとしてくださったということ。腸がちぎれるような想いで、共に受け止めてくださったということ。そのことが、集ってきた人々にとって、何よりも力になった――魂の癒し、励ましになったのだと思います。そのことが、その人自身の心身に癒しをもたらした、立ち上がれなかった心身を再び立ち上がらせた「奇跡」につながっていったのでしょう。

 

たとえ病いが治らない場合があったとしても、私たちの痛みを主がご自分の痛みとしてくださっているのだということが、私たちにとって生きる力となるのだと信じています。

 

 

 

痛みに対して無感覚になってしまう私たち

 

 この主の「憐れみ」に触れるとき、一方で、私たちは自分自身の内にその憐れみが乏しいことを知らされます。日々の慌ただしい生活の中で、気が付くと私たちは他者の痛みに対して無感覚になってしまっているように思います。

 

 主イエスの「群衆がかわいそうだ」という言葉に対し、弟子たちは「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」とそっけない返事をしました33節)。腸がちぎれる想いでいる主イエスと対照的なこの弟子たちの姿は、日々の私たち自身の姿を映し出しているようにも思えます。

 

苦しむ人を前にしても、なかなか心が動かない。日々の生活の中で、「他者の痛みを自分の痛みのように感じる心」がまどろんでしまっていることが私たちにはあります。心が動かないので、行動にもつながらない、ということになります。

 

 

 

理性だけではなく、感情を大切にすること

 

私たちが他者の痛みに対して無感覚になってしまう要因は、さまざまなことが考えられますが、その要因の一つとして、私たちが「心」ではなく「頭」でばかり物事に対処しようとしてしまうことがあるのではないかと思います。心を動かすことなく、頭でばかり対処しようとしてしまう。「頭でっかち」という言葉もありますが、「理性」を過剰に重視しようとするとき、私たちは他者の痛みに無感覚になっていってしまうように思います。

 

近年、より理性が偏重されている傾向があるのではないでしょうか。さまざまな問題に対処する際、感情が余分なものとして排除され、理性ばかりが重視されようとしている傾向があります。

 

何か困難が生じたとき、理性的に対処しようとすることは、もちろん重要なことです。ただし、自分の内に生じる感情を排除して、客観的に理性のみで対処しなければならないかというと、そうではないでしょう。確かに、何か大変なことが起こったとき、感情的になるあまり時に暴走したり我を忘れてしまったりすることはあるでしょう。けれども、だからと言って私たちの心の中にある感情を抑えつけなければならない、ということにはなりません。

 

理性ばかりが重んじられるとき、私たちは目の前の現実に十分に向かい合うことはできないでしょう。理性だけではなく、それと共に心の中にある感情を十全に大切にするとき――安心や喜びなどの前向きな感情だけではなく、不安や怒りなど否定的にも思える感情も、私たちにとってはとても大切なものです――、私たちは目の前に現実にまっすぐに向かい合ってゆくことができるのだと思います。

 

心が司る働き――とりわけ、「他者の痛みを自分の痛みのように感じる」働きこそが、私たち人間の営みの土台となるものであると考えます。この働きを土台に据えるとき、理性もまた本来の働きに立ち戻ることができるのではないでしょうか。

 

 

 

「頭」だけではなく、「心」をも激しく動かされる主イエス

 

本日の聖書箇所において、弟子たちの言動というのはまさに「理性的」なものです。四千人の人々が食べ物がなくて困っているという状況を前に、もう自分たちには何もすることはないと冷静に判断しています。手元には7つのパンと少しばかりの小さな魚しかない。客観的に考えて、これらわずかの食料で人々の空腹を癒すことはできない。

 

対して、主イエスは「頭」だけではなく、「心」を十全に動かされながら、目の前にある現実に向かい合おうとされています。「群衆がかわいそうだ」とご自分の激しい感情を露わにされ、人々の痛みをご自身の痛みとして、何か行動を起こそうとされています。理性的な視点からすると、主イエスの言動の方が、不合理なように思われます。確かに、手元には7つのパンとごくわずかの魚しかありません。理性的に考えると、それだけでは「何もできない」と思われますが、それでも人々のために行動を起こそうとなさいました。何より、「憐れみ」の心が、そうするようにと主を駆り立ててゆきました。

 

 

 

主の憐れみを分かち合い

 

弟子たちに対し主イエスは「パンは幾らあるか」と言われました。弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えます34節)

 

主イエスは人々に地面に座るように命じ、7つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになりました36節)。弟子たちはそれを群衆に配りました。すると驚くべきことに、そこに集った一人ひとりが、皆、食べて満腹した、と福音書は記します37節)。「頭」だけで考えると、どうすることもできないように思えていた現実が動き、そこに集った一人ひとりが満ち足りるという、新しい事態が生じたのです。

 

この驚くべき出来事が起こった根底には、主の「憐れみ」があるということを心に刻みたいと思います。私たちの痛みを我が痛みとし共に担ってくださる主の「憐れみ」が、目の前の現実を動かしてゆきました。驚くべき恵みを引き起こしてゆきました。

 

この主の憐れみを互いに分かち合い、私たちの日々の営みの土台としてゆくことができますようにと願います。どうぞ私たちが痛みを感じとる心を取り戻し、その心を通して、それぞれが行動を起こしてゆくことができますように。