2018年1月28日「心も体も魂も」

2018128日 主日礼拝

聖書箇所:詩編16111

「心も体も魂も」

 

 

 

詩編16111節《【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。/

主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」/この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。/「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」/

主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。/測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。/

わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。/わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。/わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。/あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます

 

 

 

詩編の言葉 ~時と場所を超えて

 

 いまご一緒にお読みしましたのは、旧約聖書の詩編の16編です。詩編は、古代イスラエルの人々の神さまへの賛美歌が集められたものです。いわば、賛美歌集ですね。もともとは詩編の言葉にはメロディや伴奏も付いていたと言われています。それらメロディや伴奏は時代が下ると共に失われ、いまは詩の部分のみが残っています。

 

詩編の中にはさまざまな内容の詩が収められています。神を賛美する歌だけではなく、自分たちの苦しみや悲しみを率直に神さまに訴える「嘆きの歌」もたくさん含まれています。詩編はこれまで無数の人々の人生を支え続けてきました。今から2000数百年前、古いものでは3000年近くも前に、中東のパレスチナで記された歌が、時と場所を超えていまも私たちの心と共鳴し合っているというのは、考えてみると不思議なことですね。

 

 

 

《避けどころ》 ~神さまは私たちの「避難所」

 

 改めてご一緒に詩編16編を読んでゆきたいと思います。詩編16編は次の言葉で始まります。《神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを》。

 

《避けどころ》という独特な言葉が出てきました。《避けどころ》は、困難に遭遇したときに私たちが逃げ込むことができる場所、私たちを守ってくれる場所を意味する言葉です。

 

この言葉は詩編16編だけではなく、詩編全体の中で繰り返し使われています。詩編の中で大切な言葉の一つであるということができるでしょう。詩編においては、神さまが、私たちの《避けどころ》であるということが謳われています。

 

新生釜石教会の柳谷雄介先生は、この《避けどころ》という言葉を「避難所」と表現されていました。柳谷先生は釜石で、震災後の大変な状況の中で詩編のこの《避けどころ》という言葉を読み、それを「避難所」という言葉をもって受け止められたそうです。

 

震災の大変な状況の中で、避難所がいかに大切な場所であったか。その経験を踏まえて、柳谷先生は《避けどころ》を「避難所」と受け止められた。このことを柳谷先生からお聞きして、私も《避けどころ》という言葉を、自分なりに以前より実感をもって感じとることができるようになりました。

 

 

 

心も体も魂も                 

 

  神さまは私たちの《避けどころ》、「避難所」である――。詩編はそのことを私たちに伝えています。本日の詩編16編は、「避難所」である神さまのもとに身を寄せる中で与えられる平安が謳われています。

 

 79節《わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。/わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。/わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います》。

 

  読んでいて、語り手の「わたし」の安心感、喜びが伝わって来るようです。印象的なのは、「心」と「魂」と「体」という言葉が出て来るところです。避難場所である神さまのもとにいる中で、「心」の中が喜びで満たされてゆく。「魂」、心の深い部分が平安を取り戻してゆく。またそれだけではなく、「体」も安心し、リラックスしてゆく。心も体も魂も、その全部を含めた平安と喜びが語られているところが心に残ります。

 

 心、体、魂、この三つは、いずれも切り離すことができないものです。心と体はつながっているし、魂ともつながっています。心が緊張しているときは、体もどこか緊張しています。心も体も魂も安心し、リラックスすることは非常に大切なことですね。

 

私たちは日々の生活の中で、体は休めていても、心は休めていないということがあります。心と体がリラックスしているようでいて、心の深いところ――魂が平安を失ったまま、ということもあるでしょう。詩編16編は、心も体も魂もぜんぶ含めた平安を語っています。

 

それほどまでの安心感が与えられる機会というのは、私たちの日々の生活の中ではむしろ少ないことかもしれません。私たちが生きている社会は残念ながら、一人ひとりにとって必ずしも安全な場所とは限らない現状があるからです。

 

「ここは安全、安心」と思って集うことができる場というのは、私たちにとって数少ないことであるかもしれません。私たちが社会の中で、さまざまな敵意や無関心に遭遇します。その中で、心に深い傷を負うこともあります。多くの人が不安や恐れを抱きながら、生活しているというのが現状であるでしょう。心も体も魂もどこか休まらないまま、それぞれが日々懸命に生きています。だからこそ、心も体も魂もその全部が安心し、休息することができる時と場所とが切実に求められています。

 

 

 

「よい」という祝福の光 ~まるごとのあなたを

 

詩編の語り手にとっては、その避難場所が、神さまでした。ではなぜ、神さまが私たちの《避けどころ》、「避難所」であるのか。それは、神さまが私たち一人ひとりをかけがえのない存在として見つめて下さっているからだ、と受け止めています。

 

神さまは、心も体も魂も含めたまるごとのあなたを、「よい」ものとして祝福してくださっています。この祝福の光の中では、もはや敵意も無関心も存在しません。この神さまの光に触れ、包まれるとき、私たちの心と体と魂は平安を取り戻してゆきます。詩編16編が「心は喜び、魂は躍り、体は安心して憩います」9節)と語るように。

 

この場所においては、一人ひとりが、なくてはならない存在として、大切にされています。神さまの目に、必要のない人、価値のない人は存在しません。一人ひとりが極めて「よい」ものとして、かけがえのない存在として大切にされている、この神さまの光の中で私たちは負ったその傷が少しずつ癒され、再び立ち上がる力を与えられてゆきます。もしかしたら時間がかかることもあるかもしれませんが、私たちは必ず再び立ち上がる力を与えられてゆくのだと信じています。

 

 

 

《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》

 

 イエス・キリストは《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイによる福音書1128節)とお語りになりました。疲れた人は誰でも、神さまのもとに来てよい、「避難所」なる神さまの御手の中で休息を得てよい。また再び立ち上がる力が湧き上がるそのときまで、心ゆくまで休んでよいのだと語られています。

 

 疲れた時は、「休んでよい」のだということ。自分ではどうしても解決できないような難しい問題がある時は、「逃げてよい」のだということ。むしろ、どうか一刻も早く、私のもとに逃げて来てほしい、と主イエスは訴えられています。

 

それは、かけがえのないあなたが、「生きてくれている」ことが、何より大切なことであるからです。神さまの目から見て大切なあなたが、いまこうして「生きている」ことこそ、何より大切なこと、価値あることであるからです。

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》。神さまは主イエスを通して、いま、私たちに語りかけてくださっています。あなたが生きているだけで、「よい」。存在しているだけで、「よい」。この神さまの祝福の声が、避難所に響き渡っています。

 

私たちはこの避難場所において重荷を降ろし、心と体と魂の安息を得ます。そしてまた私たちはこの場所において、再び立ち上がってゆく力が与えられてゆきます。神さまは私たちの「避難所」であり、また同時に、共に困難な現実に向かい合ってゆくための「拠点」です。

 

私たち教会は、この《避けどころ》の存在を伝える役割を担っています。また私たち教会が、集う一人ひとりにとって《避けどころ》となることができるよう、共に祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

共に《命の道》を

 

 最後にご一緒に詩編16編の結びの1011節をお読みしたいと思います。《あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます》。

 

《命の道》という表現が出て来ました。一人ひとりがかけがえのない存在として、尊厳をもって生きてゆくことができる道、それが《命の道》でありましょう。私たちは避難場所である神さまから力を与えられつつ、そこから押し出されて、この地に共に《命の道》を切り開いてゆくことが求められています。

 

 かけがえのないあなたが、決して失われることがないように。大切な一人ひとりが、決して失われることのないように。すべての人が、尊厳をもって、平安と喜びをもって生きてゆくことができるように。私たちがそのような社会を少しずつ実現してゆくことができますように――。この《命の道》への祈りのあるところに、主イエスはいつも共におられます。私たちの道であり、真理であり、命である主(ヨハネによる福音書146節)を信頼しながら、これからも一歩一歩をご一緒に歩んでゆきたいと願います。