2018年1月7日「口から出て来るものは心から出て来る」

201817日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書15120

「口から出て来るものは心から出て来る」

 

 

 

マタイによる福音書15120節《そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。/「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」/そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。/神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。/それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、/父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。/偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。/『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。/人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」/

 

それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。/口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」/そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。/イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。/そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」/するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。/イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。/すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。/しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。/悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。/これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 

 

 

公現日

 

2018年になり、はじめての主日礼拝です。今年一年、皆さんの上に、主の恵みとお守りがありますようにお祈りいたします。

 

本日の午後2時から花巻教会にて、村上顕先生のご葬儀が執り行われます。村上顕先生は長らく関東学院大学宗教主事を務められ、宗教音楽をご専門とされていた方です。この花巻では、東和ハーモニー指揮者でもいらっしゃいました。また花巻教会を会場として奏楽者のための学びを行ってくださいました。心より感謝申し上げます。

ご遺族の皆さまの上に、村上顕先生につらなるすべての皆さまの上に、主の慰めをお祈りいたします。

 

 

 教会の暦では、昨日16日は公現日(エピファニー)と呼ばれる日でした。「公に現れる」と書いて「公現日」。イエス・キリストが人々の前に公に現れたことを記念する日です。教会の暦では、この公現日までがクリスマスになります。年が明けても教会でリースやクリスマスツリーが飾られていたのは、しまい忘れていた(!)わけではありません。

 

公現日の聖書箇所として伝統的に挙げられるのは、赤ん坊のイエス・キリストを東方の学者たちが訪ねる場面です(マタイによる福音書2112節)。東方の学者たちは輝く星に導かれ、誕生したイエス・キリストのいる場所を探し当てました。 クリスマス物語においても、よく知られた場面ですね。

 

この公現日において重要な点は、イエス・キリストが、イスラエル民族ではない東方の学者たちの前に現れた、というところです。聖書には「異邦人」という独特な言葉が出てきますが、異邦人とはつまり、イスラエル民族以外の人々のことを指しています。異邦人である東方の学者たちの前にイエス・キリストが公に現れてくださった。すなわち、イスラエル民族のみならず、全世界の人々にキリストの光がもたらされたことを記念して、公現日という日が定められています。

 

 

 

闇の中に輝く光

 

聖書において、イエス・キリストは「世の光」であると言われます。イエスさまは私たちが生きる世界を照らす光である、というのですね。クリスマス・イブ礼拝の際にお読みした聖書箇所では、このように書かれていました。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書19節)

 

 イブ礼拝ではろうそくに火をともして礼拝をささげるキャンドルサービスを執り行いましたが、これらろうそくの光も、イエス・キリストがもたらしてくださった光を表していました。世の光キリスト――同時にそれは、「暗闇の中で輝く光」であると言われています。《光は暗闇の中で輝いている》。

 

 目の前のすべてが光に満ちている、というのではなく、むしろ、辺り一面が真っ暗なような中に、一筋の光が差し込んでいる、というイメージでしょうか。光だけを語るのではなく、むしろ暗い部分をも率直に見つめて語っているのが、聖書という書です。クリスマスの光は、まさに、暗闇の中にともされたろうそくの光がイメージとしてぴったりであるのかもしれません。

 

 

 

キリストの光 ~「わたしの目に、あなたは価高く、貴い」

 

旧約聖書のイザヤ書に、次の神さまの言葉があります。《わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している(イザヤ書434節)。神さまの目から見て、あなたという存在が、かけがえなく、貴いことを語っている言葉です。

 

主イエスは、この光の言葉を私たちに伝えるため、私たちのもとにやってきてくださいました。神さまの目から見て、一人ひとりの存在が、かけがえなく貴いということ。「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。神さまから見て、あなたの替わりになる人は存在しないのだという真理を、このキリストの光は伝えてくださっています。

 

このキリストの光を、神さまからの「尊厳の光」と言いかえることができるでしょう。主イエスは私たち一人ひとりの存在に、尊厳の光をともしてくださっています。

 

一方で、私たちのいまの社会を見て見ますと、この尊厳の光が見失われてしまっているように思います。一人ひとりの存在の大切さが見失われ、各人が「替わりがきく」存在にされている。社会の構造自体が、どんどん私たちにそう思わせるようなものとなっていってしまっている現状があります。尊厳の光が見失われたその暗さが、いま、私たちの社会を覆っているように感じます。

 

私たちが経験する最も深い悲しみの一つに、自分の存在が「どうでもいい」と思えてしまうことがあるのではないでしょうか。自分なんて、いてもいなくてもいい、と思えてしまう。自分の替わりになる人なんていくらでもいるし、自分より優れている人もたくさんいる。そう思う時、私たちは心に深い悲しみ、痛みを感じます。(自分はいてもいなくてもいい存在なのではないか。自分は替わりがきく存在なのではないか……)、その悲しみが、私たちの近くに遠くに、満ち満ちているように思います。

 

 

 

口から出て来るものは、心から出て来る

 

私たちの社会から尊厳の光が見失われている――それは、私たちの社会で発されている言葉を見ても、そういうことができるのではないでしょうか。たとえばインターネット上では、人を軽んじる言葉、平気で傷つける言葉、尊厳をないがしろにするような心無い言葉があふれています。

 

先ほどお読みした聖書箇所には、《口から出て来るものは、心から出て来る18節)という言葉がありました。言葉というものは、私たちの心から出て来るものです。言葉は、私たちの心の中を映し出しています。私たちたちが発するさまざまな言葉――良い言葉も、悪い言葉も、他ならぬ私たちの心の中から出てきているものです。つい人を傷つける言動を繰り返してしまうのが、私たちの率直な姿ではないでしょうか。

 

マタイによる福音書151620節《イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。/すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。/しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。/悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。/これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」》。

 

口から入り、腹を通って外に出される――《外》というのは、直截的に言えばトイレのことです。私たちは食べ物を口に入れ、それを、お腹を通して外に出します。それら外に出されるものは、別に汚くはありません。それらは神さまの定められた大切な自然の営みの一つです。

対して、私たちの心を通って口から出てくるものが、人を汚すのだ、と主イエスはおっしゃいました。心を通って出て来る言葉と振る舞いが、時に人を汚し、傷つけてしまうのだ、と。

 

私たちの心から、一人ひとりの存在が「かけがえがないものだ」だという真理が見失われてしまうとき、私たちは平気で人の尊厳を傷つける言葉を発してしまうようになるのでしょう。

 

 

 

心に光の言葉をともして

 

暗さが私たちの社会を覆っている今こそ、私たちはそれぞれの心に、光の言葉をともすことが求められています。いや、私たち一人ひとりの内に、その光はすでにともされています。暗闇の中に輝く小さな光、しかし決して消えることない光として。 《わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している》。神さまは私たちの心の深いところから、いつも語りかけてくださっています。

 

私たちがどのような暗闇の中にいるようであっても、それでも消えることがない光。それがクリスマスの光――イエス・キリストを通してともされている光であり、その光が私たちの歩みを、一歩一歩、照らし続けてくれることでしょう。この光は、何か魔法のように、私たちの抱える問題を一瞬で解決してくれるものでは必ずしもないかもしれません。しかし、私たちがどのような困難の中にあっても、私たちが完全に絶望することがないように、私たちを支え続けくれるものです。私たちに再び立ち上がる力、生きる勇気を与え続けくれるものです。

 

わたしの目に、あなたは価高く、貴い》――この命の光の言葉を私たちの心にともし、新しい年も共に歩んでゆきたいと願います。