2018年10月14日「信仰によって」

20181014日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヘブライ人への手紙112328

 

 

信仰によって

 

ヘブライ人への手紙112328節《信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。/信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、/はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、/キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。/信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。/信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました

『星の王子さま』より ~《いちばんたいせつなことは、目に見えない》

 

スクリーンに映している絵をご覧ください。ご存じの方もたくさんいらっしゃることと思いますが、『星の王子さま』という本の挿絵です。サン=テグジュペリの『星の王子さま』は世界中で愛されている物語で、私も大好きな一冊です。『星の王子さま』は、サハラ砂漠に不時着した飛行機乗りの「僕」と、そこで出会った一人の男の子――すなわち、王子さまの物語です。

 

『星の王子さま』の中で、よく知られた言葉として、《いちばんたいせつなことは、目に見えない》という言葉があります。 主人公の王子さまに向かって、親友のキツネが言った言葉です。

 

《キツネが言った。「じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」

「いちばんたいせつなことは、目に見えない」忘れないでいるために、王子さまはくり返した》(サン=テグジュペリ『星の王子さま』、河野万里子訳、新潮文庫、2006年、108頁)

 

 物語の中では、そのことの具体的な例として、砂漠の美しさが語られます。

物語の終盤、「僕」と王子さまは広大な砂漠の中を、井戸を求めて歩き続けます。何時間も歩き続けた後、月に照らされた砂漠を見ながら、 王子さまはぽつりとこのようなことを語ります。

 

《「砂漠って、美しいね」王子さまが、ぽつりと言いたした……

そしてそれは、ほんとうだった。僕はずっと、砂漠が好きだった。なだらかな砂の丘にすわれば、あたり一面、なにも見えない。なにも聞こえない。それでもその静寂のなかで、なにかがひっそり光っている……

「砂漠が美しいのは」王子さまが言った。「どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね……」》(同、116頁)

 

  「僕」と王子さまは、なぜ砂漠を美しいのかに気づきます。砂漠が美しいのは、そのどこかに、目には見えない井戸を一つ隠しているから。目には見えない貴いものを内に秘めているからこそ、砂漠は美しい。砂漠の美しさは、目に見える美しさではなくて、目には見えないものから来る美しさであったことが語られます。

 

《「そうだね」僕は王子さまに言った。「家や、星や、砂漠を美しくしているものは、目には見えないね!」

「うれしい」王子さまが言った。「きみが、ぼくのキツネと同じ考えで」》(同、116-117頁)

 

 私たちは普段の生活の中で、つい目に見えるものばかりに意識が向かってしまっていることが多いものです。目立つもの、分かりやすいもの、または一見とても華やかできらびやかなものに。そうしてそれらを追い求めてしまいがちです。

 

 そのような中にあって、『星の王子さま』が語るこの世界の見つめ方は、私たちに大切なことを思い出させてくれるようです。《いちばんたいせつなことは、目には見えない》。当たり前のようでいて、すぐにでも忘れてしまいがちなこと。一見目立たないような地味なもの、目には見えないもの――しかしかけがえなく貴いもの――が、実は私たちの人生を支えてくれているということ。この世界の美しさとは、目には見えないものから来る美しさであることを、私たちはハッと思い起こします。そうして胸の内に懐かしいような、いとおしいような気持がよみがえってきます。

 

 

 

聖書より ~《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます》

 

 目には見えない大切なもの。それは、何でしょうか。答えは一つだけではなく、お一人お一人にとって、ふさわしい答えがあることでしょう。

 

『星の王子さま』では、相手をかけがえのない存在として大切に想う心――すなわち、人を愛する心が目には見えない、大切なものとして語られています。王子さまの胸の内には一輪のバラに対する愛が宿されており、その愛が王子さまの存在を美しく輝かせていました。

 

聖書の中にこのような言葉があります。『星の王子さま』の《いちばんたいせつなことは、目には見えない》に通ずる言葉です。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(新約聖書 コリントの信徒への手紙二418節)

 

 いま私たちの目に見えているものは、いつかは過ぎ去っていってしまうものです。堅固な建物も、いつかは崩れ去ってしまうことでしょう。目に見えるものはすべてが過ぎ去ってしまうものですが、しかし、目にはみえないものは、過ぎ去らない。だから、私たちは目に見えないものに目を注ぐのだ、と語られています。そして目には見えないものは、永遠に存続するのだと力強く宣言されています。

 

 目には見えない、永遠に存続するもの。それは、何でしょうか。その答えも、きっとお一人お一人にふさわしい答えがあることでしょう。たとえば、聖書は、それは「信仰と希望と愛」であると語っています。《それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である(コリントの信徒への手紙一1313節)

 

「信仰」と「希望」と「愛」。この三つは、どれも目には見えないものですね。この目には見えないものは、いつまでも残る、と聖書は語っています。そして、その中でも最も大いなるものは、愛である、と。

 

 なぜ愛が最も大いなるものであるのでしょうか。それは、愛とは、神さまから生じているからであるからです。愛とは、神から生じ、私たち一人ひとりに分け与えられているものであることを聖書は語っています。

 

 

 

信仰とは

 

 信仰、希望、愛――。本日は、この三つの中の「信仰」について、少し述べておきたいと思います。キリスト教において、「信仰」が重要であることは、もちろんのことですね。では、信仰とはどのようなものであるか、と考えてみると、意外と難しいものです。神さまを信じること……? でも、私たちは時に神さまへの信頼を失ってしまうこともありますね。神さまを信頼することができる日もあれば、神さまへの信頼を失ってしまう日もあります。「信仰深い」という表現がありますが、そもそも「信仰深い」ってどういうことなんだろう、って考え出すと、よく分からなくなってしまうものです。また、洗礼を受けたクリスチャンだけが「信仰」があるのか、というと、それはそうではないでしょう。教会に行っていなくても、洗礼を受けていなくても、神への信仰を内から輝かせている人を私は何人も知っています。

 

 先ほど、ヘブライ人への手紙112328節をお読みしました。この文章の中では、《信仰によって》という言葉が繰り返されていましたね。旧約聖書の登場人物モーセをはじめ、信仰によってその生涯を歩んだ信仰の先達の姿が語られています。このヘブライ人への手紙11章の冒頭には、信仰について述べられた有名な一節があります。

 

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(ヘブライ人への手紙111節)

 

 先ほどの《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます》という言葉にも通ずる言葉ですね。信仰とは、目には見えない大切なものを見ようとすること、そしてその確かさを確認することであることが語られています。

 

 先ほど、信仰と希望と愛を聖書は大切な三つのこととして挙げていると述べましたが、信仰とは、目には見えない愛や希望を、私たちの心の目に「はっきりと見えるようにする働き」であるということができるでしょう。

 

 

 

神さまからの愛と希望とに、私たちの心の目を向ける

 

 聖書を読んでいると、神さまからの希望の言葉が様々な場面において記されています。希望というものも、私たちの目には見えませんね。愛と共に、私たちが生きてゆく上でなくてはならないものが、希望です。

 

 たとえば、旧約聖書の預言書のイザヤ書には、次のような言葉が記されています。《主はシオンを慰め/そのすべての廃墟を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。/そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く(イザヤ書513節)

 

非常に美しく、慰めに満ちた一節です。しかしこれら言葉をよく読んでみると、いまイザヤの目の前にあるのは、いまだ廃墟であり、荒れ地であるということが分かります。いま目の前にあるのは、廃墟のような、荒れ地のような、悲しい現実であるのですね。そのような辛い現実のただ中で、しかし、イザヤは荒れ地が美しい主の園となるのを確かに見たのです。そして、そこに喜びと楽しみ、感謝の歌声が響くのを確かに聴きました。これが、信仰による恵みなのだと思います。神さまからの希望のビジョンを受け取ることの恵みです。

 

 そのビジョンが見えたのは、もしかしたら一瞬のことであったのかもしれません。けれども、その一瞬垣間見た希望のビジョンが、その後のイザヤの人生を支え続けるものとなっていったのかもしれない、と想像します。その一瞬が、永遠につながる神さまからの「約束の言葉」となり、その一瞬が、イザヤの中で確かな希望となっていったのです。

 

 私たちは生きてゆく中で、時に、目の前の現実が廃墟や荒れ野となってしまったように感じることがあります。時に、何の希望も持てない気持ちになってしまうことがあります。けれども、神さまは私たちにいつも愛の言葉を、希望の言葉を語り続けてくださっています。私たちが心の目によってこの世界を見つめようとするとき、廃墟の中にエデンの園を、砂漠の中に泉を見出すことができるでしょう。そこには喜びがあり、楽しみがあり、感謝の歌声が響いています。

 

 この世界は、目には見えないものから来る美しさといとおしさに満ちています。いま、その美しさといとおしさに、そして神さまからの愛と希望とに、私たちの心の目を向けたいと思います。