2018年10月28日「私たちを創られた神」

20181028日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ヨブ記38118 

私たちを創られた神

 

 

 

ヨブ記38118節《主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。/

 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。/男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。/

わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。/誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。/基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。/そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた。/海は二つの扉を押し開いてほとばしり/母の胎から溢れ出た。/わたしは密雲をその着物とし/濃霧をその産着としてまとわせた。/しかし、わたしはそれに限界を定め/二つの扉にかんぬきを付け/「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。/

お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか/大地の縁をつかんで/神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。/大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる。/しかし、悪者どもにはその光も拒まれ/振り上げた腕は折られる。/

お前は海の湧き出るところまで行き着き/深淵の底を行き巡ったことがあるか。/死の門がお前に姿を見せ/死の闇の門を見たことがあるか。/お前はまた、大地の広がりを/隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ

 

 

 

「この世界は神によって創られた」という世界観

 

 スクリーンの画像をご覧ください。言う間でもなく、地球の画像ですね。私たちが生きる星、地球――地球は「奇跡の星」と呼ばれています。皆さんもご存じのように、幾つもの要因が奇跡的に重なって、私たち生命が生まれるに適した環境となっています。

 

たとえば、太陽との距離。地球と太陽との距離はおよそ15000万キロと言われていますが、この距離は生命が生きるに適した、絶妙な距離です。これ以上太陽に近すぎても、遠すぎても、生命は誕生することはできませんでした。

 

この他にも、様々な要因が重なって現在の地球の姿となっています。ある天文学者の方はかつて、地球に生命が誕生する確率は104万乗分の1であったと述べたそうです。1010乗分の1100億分の1の確率ですから、104万乗分の1は想像を絶する確率です。とにかく、確立としては「あり得ない」ことが起こって、地球が誕生しているということが言いたいのでしょう。まさしく、奇跡としか言いようのないことが起こり続けて、いま私たちはここに存在しています。

 

 このような話を聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか。地球の誕生・生命の誕生は確かに奇跡的であるが、あくまでそれらは偶然の結果だと受け止める人もおられるでしょう。または、このように偶然が奇跡的に重なり続けることの背後には、私たちを超えた何者かの意志が働いているに違いない、と感じる人もいるかもしれません。

 

 キリスト教は伝統的に、後者の受け止め方をしています。この宇宙は、そして私たち一人一人は、「たまたま(偶然的に)」ここに存在しているのではなく、神(創造主)の意志によって「必然的に」ここに存在しているのだ、とする受け止め方ですね。よって、一つひとつの存在には、意味がある、ということになります。

 

このような世界観というのは、私たちの住む日本においては、あまり持たれないものであるかもしれません。日本においては、「この世界は神によって創られた」と意識的に考えるということは少ないかもしれません。私たちは偶然の積み重ねによってここに存在している、という受け止め方の方が一般的であるように思うからです。

 

もちろん、受け止め方は人それぞれです。それぞれの持つ世界観、人生観が尊重されてしかるべきです。キリスト教は「この世界は神によって創られた」という世界観をもっています。キリスト教文化圏では現在も、いまだ多くの人がそのような世界観をもって生きていることと思います。互いの世界観を理解することは、これからの時代、より大切なことになってくるのではないでしょうか。

 

 

 

『創世記』が記す二つの人間の創造の場面

 

さて、「この世界は神によって創られた」という受け止め方をキリスト教がしていることの第一の理由は、聖書がそのように記しているからです。

 

 旧約聖書の冒頭の『創世記』には、よく知られていますように、神がこの世界を創造する場面が記されています。《初めに、神は天地を創造された。/地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。/神は言われた。/「光あれ。」/こうして、光があった。/神は光を見て、「良し」とされた。…(創世記114節)。たとえばこのような場面をもとにして、キリスト教の世界観が形づくられています。

 

 もちろん、現代の科学の視点からすると、これら創世記の記述はそぐわないところがあるでしょう。現代に生きる私たちはこれら記述を事実の描写したものとして受け止めるのではなく、古代イスラエルの人々の世界観(世界をどのように捉えているか)が表現されたもの、と受け止めるのがよいと思います。創世記を通して、聖書を記した人々がどのように世界を捉えていたのか、どのように人間を理解していたのかを後世の私たちも汲み取ることができます。

 

『創世記』には有名な、人間の創造の場面があります。アダムとエバが神によって創られる場面ですね。創世記には不思議なことに、人間の創造の場面が二つあります。二通りの人間の創造の場面が記されているのですね。

 

 一つ目は、神がご自分にかたどって人を創造された、と記されている場面です。《神は御自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって想像された。男と女に創造された(創世記127節)。ここでは、人間は神に似たものとして創られたということが表現されています。

 

 もう一つは、神が土の塵で人を形づくった、と記されている場面です。《主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(創世記27節)。この後、アダムのあばら骨の一部からエバが創られる場面が記されます22123節)。ここでは、人間はあくまで神によって創られたもの=被造物であることが強調されています。

 

 いま引用しました二つの人間の創造の場面では、それぞれ、異なる人間観(人間をどのように捉えているか)が提示されていることが分かります。「私たちは神によって創られた」ということでは共通していますが、人間の理解の仕方はまた異なっているのですね。

 

前者は、私たちは神に似たものとして創られた存在であること――それほど神の目に貴い存在であることが強調されています。この場面は私たちに自尊心を教えてくれています。

 

 後者は、私たちはあくまで被造物であること――神によって生かされている存在であることが強調されています。私たちは神によって創られた存在であって、私たちは神ではない。この場面は、私たちに謙虚さを教えてくれています。先ほどお読みしましたヨブ記の箇所も、そのようなメッセージを語っている箇所であると言えるでしょう(ヨブ記38118節)。主なる神はヨブに対して創造の神秘を語ります。それはヨブの理解を超えたものであり、ヨブは等身大の自分に立ち帰ります。

 

 

 

自尊心を育みづらい社会

 

 ご紹介した二つの人間の創造の場面。どちらも大切な視点ですが、本日は特に前者の視点――私たちは神に似たものとして創られた存在であり、それほど神の目に貴い存在であるという捉え方に注目してみたいと思います。というのは、私たちがいま生きている社会は、自尊心を育みづらい、自己肯定感を持ちづらい社会になっていると思うからです。日々の生活において、自分が大切な存在であるとはなかなか思えない現状があります。

 

 人間が神に似たものとして創られた場面には、次の文章が出て来ます。《神はお造りなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である(創世記131節)。天地創造の第六日目、神は御自分が創られた一つひとつのものをご覧になって、《極めて良かった》と満足されたことが語られています。神の「よい」という祝福の中で、私たち人間も誕生したことが語られています。

 

 私たちの社会ではいま、この「よい」という声が見失われているように思います。むしろ、自分の存在が何か「悪い」もののように思えてしまい、苦しんでいることが数多くあるのではないでしょうか。

 

 

 

私自身の経験 ~心に語りかけられた「よい」という声

 

思い出すのは、十代から二十代前半の頃のことです。当時私は自分なりに聖書を読んでいましたが、聖書を読んでいて辛い気持ちになることがありました。

 

それは、「罪」という言葉を巡ってのことでした。当時、私自身、自分が存在していること自体が何か「悪い」ことであるように感じ、その意識が心のどこかからどうしても離れませんでした。「罪悪感」または「原罪意識」と言いかえることもできるでしょう。「自分が自分であること」自体が何か「悪い」ことなのではないか……という意味での「罪悪感」です。聖書には「罪」という言葉が繰り返し出て来ますが、「罪」という言葉を目にする度、この罪悪感が呼び覚まされ、辛い気持ちになっていたのでした。

 

 そのような時期が何年も続きましたが、ある時、自分にとって大切な経験をしました。大学4年生の時でした。机に向かって考え事をしていた私はふと、自分の心に、イエス・キリストが語りかけて下さったように感じたのです。その声をあえて言葉にするなら、「よい」という言葉でした。「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」とキリストが私の心に語りかけてくださったように思いました。

 

この語りかけを受けて、私は、「ああ、わたしがわたしであることは、『よい』ことであったのだ」と知らされました。天地創造の初めから、この世界に響き渡る「よい」という神さまの祝福の声を聴いたような気がしました。この経験により、私の世界観は根底から変えられてゆきました。そしてこの「よい」という声が、私の世界観、人間観を形づくる根幹となってゆきました。

 

もちろん、私自身、自分が大切な存在であると思えなくなる時があります。そのような時は、この「よい」という声に自分を立ち帰らせようとします。

 

 

 

私たちが存在していること自体は極めて「よい」こと

 

 その中で気づかされたことは、私たちは自分の世界観の根幹に肯定的なものを据えるからこそ、自分自身の至らなさや過ちも率直に受け入れることができるようになってゆくのではないか、ということです。

 

自分が何か「悪い」存在なのではないかと思う「罪悪感」と、自分の過ちを率直に受け入れる「罪の自覚」とは異なります。「罪の自覚」とは、自分が神さまに対して、また隣人に対して犯してしまった過ちを、心からの痛みをもって悔いることです。「本当に申し訳なかった」と率直に自分の過ちを認めることです。聖書が私たちに教えているのはこの「罪の自覚」であって、「罪悪感」ではないのだ、ということに気付かされました。私たちは様々な過ちを犯さざるを得ない弱い存在であるとしても、私たちが存在していること自体は極めて「よい」ことである、これが聖書のメッセージです。他ならぬ、私たちを創られた神さまがそうおっしゃってくださっている、聖書はそう語っています。私たちの罪よりももっと深いところで、神さまの「よい」という祝福の声は響いています。いま、私たち一人ひとりの存在を包んでいます。

 

 

 

私たちは神によって創られた。極めて『よい』ものとして創られた

 

 本日は聖書が語る世界観、人間観についてお話しました。また、私自身の個人的な体験についても少しお話しました。私たちが持つ世界観にはそれぞれ違いあり、だからこそ豊かさがあります。と同時に、私たちはより良い世界観、人間観を求めて、共に祈りを合わせてゆくこともまた大切なのではないでしょうか。私たちがもっと自分自身を大切にすることが出来るような世界観を、私たちがもっと他者を大切にすることが出来るような世界観を育んでゆくことができるように。そのことを共に祈り求めてゆくことも大切でありましょう。そしてその際、「私たちは神によって創られた。極めて『よい』ものとして創られた」とする聖書の世界観が、私たちにとって大切な手がかりとなってくれると信じています。

 

 どうぞ私たちがより自分自身を大切にし、互いを大切にしてゆくことができますように。一人ひとりが自分自身を肯定的に受け止め、もっと自分らしく生きてゆくことができますように、そのような社会を共に実現してゆくことができますように。私たちを創られた主にご一緒に祈りをおささげいたしましょう。