2018年12月2日「正義の若枝」
2018年12月2日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:エレミヤ書33章14-16節
「正義の若枝」
エレミヤ書33章14-16節《見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。/その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。/その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう》
アドベント
気が付けば、もう12月、今年もあと一か月となりました。本日から教会の暦ではアドベント(待降節)に入ります。アドベントは、イエス・キリストがお生まれになったクリスマスを待ち望む時期です。アドベントは本日から12月25日のクリスマスまで、4週間の間続きます。
皆さんの中にはクリスマスに向けて、ご自宅にアドベント・カレンダーを飾った方もいらっしゃるかもしれません。私も幼い頃、家に飾られたアドベント・カレンダーを一日一日めくってゆくのが楽しみでした。ある年は待ちきれなくて、クリスマスの数日前に、こっそり25日の絵を隙間からのぞいてしまったことがありました。飼い葉桶に眠る赤ん坊のイエスさまの絵が描いてあったかと記憶しています。アドベントは、主イエスのご誕生を「待ち望む」時期ですから、子どもにもそれを伝えるのにアドベント・カレンダーはよいものですね。
また、アドベントの時期になると教会では、クリスマスリースを飾ったり、建物や木に電飾を取り付けたりします。私たちの教会も金曜日に有志の皆さんでリースづくりや飾り付けをいたしました。皆さんも今朝、会堂に入る時、玄関に飾っている大きなリースを御覧になったかと思います。
講壇の上に飾っているこちらリースも、教会の方々が手作りしてくださったものです。このタイプのリースは「アドベントクランツ」といいます。教会では、このクランツに立てたろうそくに、毎週1本ずつ火をともしてゆくという風習があります。
御覧のように、アドベント第1週目の本日は、こちらのクランツのろうそくの1本に、火がともされています。第2週目には2本に火が、第3週目には3本に火が、そして4週目のクリスマスには4本すべてのろうそくに火がともります。この風習も、クリスマスが週ごとに近づいている様子を私たちに感じさせてくれるものです。
このろうそくの光は、イエス・キリストが私たちにともしてくださる光を表しています。新約聖書では、イエス・キリストは「まことの光」と呼ばれます。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである》(ヨハネによる福音書1章9節)。私たちはアドベントの期間、この光の到来を待ち望む想いを新たにします。
《目を覚ましていなさい》
アドベントの第1週によく読まれる聖書の言葉があります。それは、《目を覚ましていなさい》という言葉です。先ほど読んでいただいたルカによる福音書の中にも、《いつも目を覚まして祈りなさい》という言葉がありました(21章36節)。
ここでの《目を覚ましていなさい》という呼びかけは、居眠りせずにずっと起きていなさい、という意味ではありません。ここで言われているのは、「心の目を覚ましていなさい」という意味です。心がまどろんで眠り込んでしまわないように、目を覚ましていなさい、とこの言葉は呼びかけています。
なぜ心の目を覚ましていることが求められているか。それは、イエス・キリストの到来が近いからです。クリスマスが近づいている今、心の目を覚まして、イエスさまをお迎えするための準備をしなければならない、という意味で、この言葉はアドベント第1週に読まれることが多いようです。
先ほど、教会ではアドベントの時期にリースを飾ったり、イルミネーションを取り付けたりする、ということを申しました。アドベントはそのような準備を行うと共に、自分自身の心の中を見つめ直すための時期でもあります。12月に入り、何かと忙しい時期ですが、心を静かにして、自分の心を見つめてみる――どこかまどろみ、眠り込んでしまっている部分はないだろうかと見つめ直してみる、アドベントはそのような時期でもあるのですね。
痛みが「なかったこと」にされてしまうこと
慌ただしく、余裕のない生活の中で、私たちの心はどのような部分がまどろみに陥りやすいでしょうか。自分自身を顧みる時、特に、「痛みを感じとる感受性」がまどろんでしまうことが多いように思います。他者の痛みを感じ取る感受性、また、自分自身の痛みを感じ取る感受性です。忙しい日々の中で、特にこの感受性がまどろみ眠り込んでしまうことが多いように思います。
アドベントの時期になると、私は《目を覚ましていなさい》というイエス・キリストの呼びかけを、「痛みに対して目を覚ましていなさい」という意味に受け止め、自らを顧みることにしています。私は痛みを痛みとして感じとる心を持つことができているだろうか。その感受性を見失い、誰かの痛みに対して無感覚になってしまってはいないだろうか。また、自分自身の痛みをしっかりと感じてあげることができているだろうか。
痛みが「なかったこと」にされてしまうこと、それは私たちが経験する最も大きな苦しみの一つではないかと思います。確かに痛みを感じているのに、それが「ない」ものとされてしまうとき、私たちはどれほど苦しいことでしょうか。
今年一年、私が改めて思わされたことは、しかし、私たちの社会がいま、たくさんの人々の痛みをあたかも「なかった」かのようにする社会になってしまっている、ということです。私たちの社会には様々な問題があり、その問題によって苦しんでいる人々がいます。けれどもそれら重大な問題がいつの間にか「なかったこと」にされてしまうことが、至るところで起こっています。問題が「なかったこと」にされるということは、それによって傷ついている人々の痛みが「なかったこと」にされることを意味します。その不正義が悲しむべきことに、私たちの社会では至るところに存在しているというのが現状です。その暗さが、私たちの社会を覆っています。
出エジプト記より ~「わたしはある」
聖書を読んでいて思わされるのは、神さまは、私たち人間の痛みを決して「なかったこと」にはなさらない方である、ということです。神さまは私たちの痛みを決して見過ごされない。この神さまの正義への信頼が、聖書全体を貫いています。
そのことに伴って、私がこの一年、よく思い起こしていた聖書の場面があります。旧約聖書の出エジプト記の中に記されている、「モーセの召命」と呼ばれる場面です(出エジプト記3章1-14節)。
「出エジプト」というのは、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を、神がモーセという人物を通して救い出した出来事を言います。旧約聖書の中で最も重要な出来事とされており、古代イスラエルの人々にとって信仰の「原体験」となっている出来事です。
「出エジプト」の物語は、エジプトで奴隷とされ苦しんでいるイスラエルの人々の叫び声を神が聴く、というところから始まります。過酷な労働を強制され、自由を奪われ、人間としての尊厳をないがしろにされているイスラエルの人々の痛みを「なかったこと」にはしないため、神さまはモーセという人物を指導者として立たせられます。
私がよく思い起こしている聖書の箇所というのは、モーセが指導者として神に呼び出される場面です。
ある日、モーセはホレブという山で、柴の木に炎のようなものが宿っているという不思議な光景を目にします。すると神はその炎のようなものの中からモーセに語りかけます。そうしてこれからエジプトに行って、イスラエルの民をエジプトから救い出すようにと呼びかけます。
しかしモーセはすぐには神の招きには応えることはできず、神さまとさまざまなやり取りをします。その対話の中で、モーセが神さまに名前を尋ねる場面が出て来ます。モーセの問いかけに対し、神さまは《わたしはある。わたしはあるという者だ》と答えられました(出エジプト記3章14節、新共同訳)。
《わたしはある。わたしはあるという者だ》――この不思議な名前をどう捉えるかは、様々な解釈があります。正解も一つではないでしょう。名前がその本質を表すものであるとすると、この不思議な言葉の中に、神さまがどのような方であるかが表されているのだと捉えることができます。本日はこの名前の中に、神さまが存在を「なかったこと」になさらない方であることが示されているのだと受け止めたいと思います。
「ある」というのは、言い換えれば、「存在している」ということです。「存在している」ことを力強く宣言しているのが、「ある」という言葉です。
私たちの社会には、存在しているのに、あたかも存在していないかのようにされている痛みがあります。私たちもすぐ近くにいる誰かの痛みに気づかず、通り過ぎていることがあるかもしれません。また、私たちそれぞれの心にも、誰からも顧みられない痛みがあるかもしれません。神さまはいつもはっきりと目を覚まして、それら痛みを見出し、そこに光を当て、「ある=確かに存在している」と宣言してくださっている方です。
わたしはあなたの痛みを決して「なかった」ことにはしない。それは「ある!」。わたしはあなたの存在を決して「なかった」ことにはしない。それは「ある!」。柴の木に宿る炎の中から、私はこの神さまの決意の声を聴く想いがいたします。
正義の若枝 ~キリストはあなたの痛みを決して「なかったこと」にはなさらない方
冒頭に、旧約聖書のエレミヤ書33章14-16節をお読みしました。キリスト教会では伝統的に、イエス・キリストの誕生が予告されていると受け止めて来た場面です。
《見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。/その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。/その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう》
ここで《正義の若枝》(15節)と呼ばれている存在を、キリスト教会はイエス・キリストと受け止めて来ました。《彼は公平と正義をもってこの国を治める》。廃墟のようになったエルサレムの街に、いつか必ず《正義の若枝》が生え出でる、という神の約束が語られています。
私たちの痛みを決して「なかったこと」にはしないために、その正義を果たすために、神さまはイエス・キリストを私たちのところにお送りくださいました。その《正義の若枝》はいま、私たちと共におられます。暗闇の中で輝く光として来て下さり、いま、私たちと共におられます。
イエス・キリストは、あなたの痛みを決して「なかったこと」にはなさらない方です。主はいつも目を覚まし、あなたにまなざしを注ぎ、あなたの痛みを癒そうとしてくださっています。またそして、その痛みを癒してゆくために、私たち一人ひとりを呼び出し、用いようとしてくださっています。
痛みが「なかったこと」にされることがない社会を創ってゆくために、私たちもいま心の目をはっきりと覚まし、主と共に働いてゆきたいと願います。