2018年2月11日「ペトロの信仰告白」

2018211日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書161320

「ペトロの信仰告白」

 

 

マタイによる福音書161320節《イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。/弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」/イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」/シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。/すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。/わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。/わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」/それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた

 

 

 

211日 ~信教の自由を守る日

 

本日の211日は「建国記念の日」の祝日ですが、私たち花巻教会が属する日本キリスト教団は今日を「信教の自由を守る日」としてきました。211日が「建国記念の日」の祝日とされたことに抗議する意味を込めて、意図的に同じ日に設定されたものです。以来、この日の前後に、全国で「信教の自由」を覚えての集会が催されてきました。日本キリスト教団のみならず、さまざまな教団、団体において、「信教の自由を守る」ための集会が持たれています。岩手地区でも毎年、2・11集会と題して集会を行っています。明日、奥羽キリスト教センターにて集会がもたれますので、ご興味のある方はどうぞご参加ください。

 

 211日はもともとは神武天皇が即位したとされている日で、明治期から昭和初期にかけては「紀元節」という祝日でした。神武天皇は初代の天皇で、実在はせず神話上の人物とされている人物です。紀元節は敗戦後、GHQによって廃止されましたが、1966年に「建国記念の日」と名前を変えて再び祝日として取り上げられ、現在に至っています。この祝日を設定する目的は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」ことであると記されています。

 

 

 

信教の自由と政教分離の原則

 

なぜキリスト教会は「建国記念の日」に抗議をし続けて来たのでしょうか。それは、「信教の自由」という大切な原則がないがしろにされる危険性があると考えたからです。信教の自由とは、ある特定の宗教を信じる自由のことをいいます。またここには同時に、ある特定の宗教を信じない自由も含まれています。

 

 建国記念の日の元となっている紀元節は、もともと神道の一祭日です。それを国民の祝日とし、なおかつ日本という国の建国の日とするということは、国と神道が再び密接な結びつきをもってゆくということを意味します。皆さんもよくご存じのように、戦時中、神道が国教化され(国の宗教とされ)、天皇を頂点とする国家神道が国民を厳しく統制しました。戦局が厳しくなるにつれどんどん個々人の「信教の自由」が制限され、国家のために個人が犠牲にされていきました。このことへの深い反省により、戦後に新しくつくられた憲法では「信教の自由」と「政教分離の原則」が明確に定められました。個々人の信教の自由を確保するため、政治(国家)と宗教とは、分離していなければならない、と定められたのですね。つまり、いまの憲法の下では、国教は認められていないのです。

 

日本国憲法第20条《信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない》。

 

現行憲法の下では神道も宗教の一つとして扱われています。仏教やキリスト教やイスラム教と同じく、宗教の一つとして扱われています。そのような中にあって、紀元節を再び建国記念の日として祝日にすることは、再びこの国を戦前の体制へと戻ってゆくことにつながってしまうのでないか。ということに危惧を覚えた人々が、211日に意図的に「信教の自由を守る日」を設定し、さまざまな集会を行っているのです。

 

 

 

国家と宗教が結びついて市民を抑圧することの危険性

 

「建国記念の日」に対抗するようにして「信教の自由を守る日」を制定していることを快く思わない方々もいらっしゃることでしょう。特に、神道を信仰している方の中には、何か自分たちが批判されているように感じる方もいらっしゃるかもしれません。けれども、信教の自由を守る集会において、神道という宗教自体が何か悪いものとして批判されているわけではありません。

 

私は神道も、仏教も、大切に思っています。自分の大切なルーツの一つであると思っています。神社仏閣を訪ねて回るのも大好きです。神武天皇を祀る橿原神宮を友人と訪ねたことがありましたが、厳かな雰囲気で、背筋がまっすぐにされるような感覚になりました。神道も仏教も私にとって大切な存在です。さまざまな要因によって、この人生においてはキリスト教を選び取っている、ということです。

 

 神道自体に何か問題があるというのではなく、国家とある特定の宗教が結びつき、市民の信教の自由を制限しうる構造が作られつつある、ということが問題なのだということができると思います。

 

たとえばもし今後、キリスト教が国家と結びつき、国教的な位置を占め――ほぼあり得ないことですが――、国家が市民の信教の自由を脅かすようなことをするのなら、やはり私はその体制に反対するでしょう。そうなると今度は、キリスト教徒以外の人々の信教の自由が侵害されかねないからです。

 

国家と宗教が結びついて市民を抑圧することの危険性は、私たちはアジア・太平洋戦争で思い知りました。また欧米の歴史においては、国家と教会が結びつくことの悲劇が繰り返されてきました。かつてヨーロッパ諸国は政教一致でありましたが(政治と教会が一体)、それゆえに数多くの人権の侵害や、悲惨な戦争が引き起こされました。その反省を踏まえて、欧米の諸国では政教分離の原則が生み出されました。苦難の歴史を通して、先人たちの計り知れない努力の積み重ねによって、少しずつ勝ち取られてきたのが、信教の自由です。私たちはそれら歴史を重く受け止め、これからもこの原則が守られるよう不断に努力をし続けてゆかねばなりません。

 

 

 

国家の栄誉よりも、個人の尊厳を

 

一方で、私たちの国においては、進むべき方向とは逆の方向へ向かっていこうとしている現状があります。建国記念の日が定められた際に一部の人々が危惧した通り、国家と神道が再び密接な関係を結ぶ方向へ――国家神道が再興される方向へ進んでいっています。自民党改憲草案からははっきりとその方向性を読み取ることができますし、4月から公立の小学校で道徳の授業が教科化されることにもその徴候が感じられます。宗教的な部分を前面に出さないかたちで、さりげなく、しかしあからさまに、その方向が推し進められていっています。

 

いまの政府が推し進めようとしている方向は、第一義に国家に価値が置かれるという方向です。国家神道においては「天皇を中心とする国のかたち」が最大に価値あるものとされますが、それに通じる方向性です。この価値体系においては、国民は国に奉仕するべき存在とされます。いわば、国に貢献するために、国民があるのだ、と。

 

現行憲法ではもちろん逆ですね。市民一人ひとりのために国がある。個々人のために国があるのであり、その逆ではありません。これは現在、世界の多くの国で保障されている普遍的な原則です。しかし日本の一部の政治家の方々はその原則とはまた異なった、いわば戦時中の国家神道に通ずるような考えをもっていらっしゃるようです。それら愛国的な思想信条を個人として持つのはもちろん自由です。けれども、それを国家の政策として市民に強要しようとするのであれば、それは極めて大きな問題であり、見過ごすわけにはいきません。憲法の原則が覆され、人権侵害につながってゆく危険性があるからです。

 

 実際、いまの政府の政策からは、「国を愛し、国に貢献できる人」は重んじるけれども、それ以外の人――さまざまな事情でそうできない人――をどこか軽んじる傾向が見受けられ、危惧を覚えています。一部の人が一方的に定めた「よい国民」「模範的な日本人」という枠組みからこぼれ落ちてしまう人たちはいまも、これからも、大勢出て来てしまうことでしょう。それら弱い立場に追いやられた人達はどうなってしまうのでしょうか。より精神的・経済的に困窮してゆくことになってゆくのではないか、と危惧を覚えざるを得ません。

 

弱い立場にある人々にまず第一に目を注ぐことができる社会の在りかたを願い求めてゆきたいものです。そしてそれこそが、主イエスが私たちに伝えてくださった姿勢であるのだと思います。

 

主イエスはさまざまな事情によって律法を守ることができない人々、そうして社会から隅に追いやられている人々のところをまず第一に訪ね、神さまからの尊厳の光を伝えてくださいました。神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴い存在であることを伝えてくださいました。もちろん、国を愛することは大切なことです。けれども、国家の繁栄よりも民族の栄誉よりも、個人の尊厳こそが大切であることを主イエスは私たちに教えてくださったのだ、と受け止めています。

 

 

 

ペトロの信仰告白

 

本日の聖書箇所には、弟子のペトロの信仰告白が記されています。主イエスに、《それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか15節)と問われて、ペトロは《あなたはメシア、生ける神の子です16節)と答えました。「メシア」とは、「キリスト」という意味です。ペトロは「あなたこそキリスト、生ける神の子です」と自分の信仰を告白したのですね。

 

主イエスはペトロのこの告白を高く評価され、次のようにおっしゃいました。《シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。/あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。/わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる1719節)

 

 あなたの告白は、神があなたに与えてくださったものなのだ、と主イエスはおっしゃいます。そうして、ペトロを「岩(ギリシャ語で『ぺトラ』)」と呼び、この岩の上にわたしの教会を建てる、とおっしゃいました。《あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる19節)という不思議な言葉が続きますが、地上でものごとを「ゆるす」または「禁ずる」ことの権威を与える、という意味の言葉のようです。

 

この言葉の背景には、当時のキリスト教会が置かれていた状況があります。当時の教会はまだ規模の小さなものであり、周囲より迫害される立場にありました。そのような弱い立場にあった教会の信仰が、しかし、いかなる権威からも自由であることを主イエスは宣言してくださいました。当時ユダヤ教は大きな力をもっていましたが、そのユダヤ教の権威からも、あなたがた教会は自由である。あなたがたが自身の良心に基づき、つなぎ、またほどく権利を、神さまご自身が保障してくださっている。心からの信仰の告白の下であなたがたがなすことを、誰かが侵害したり、制限したりすることは誰にもゆるされないのだ、と(その後、教会は次第に権力を得、国家と結びつくことによって強大な権威を帯び、人々を迫害する側になってゆきますが、その問題はまた別の機会で取り上げたいと思います)。

 

 

 

一人ひとりの信仰はいかなる束縛からも自由

 

主イエスは信仰を告白したペトロを「岩」と呼び、《わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる》とおっしゃってくださいました。この固い「岩」は、どんな権威もどんな暴力も、動かすことはできない。福音書ではペトロ一人にそれが告げられていますが、それはいま、私たち一人ひとりにも語られている、と受け止めたいと思います。私たち一人ひとりが心から信じることは、何ものも侵害することはゆるされない。その「岩」なる信仰は、他ならぬ、神さまご自身が与えてくださっているものであるからです。

 

私たちはそれぞれ、自らの内を深く掘る中で、神さまが与えてくださった世界にただ一つの「岩」と出会うでしょう。この「岩」を土台として、私たちの人生は織りなされ、形づくられてゆきます。

 

一人ひとりの思想、良心、一人ひとりの信仰、それはいかなる束縛からも自由です。個人の尊厳が守られる社会を目指し、これからも共に祈りを合わせてゆきたいと願います。また、神さまが私たち一人ひとりに与えてくださっている尊厳をないがしろにしようとする動きに対しては、はっきりと「否」を言うことができますように。どうか主が私たちにその力と勇気とをお与えくださいますように。