2018年3月18日「この悲しみの道の上に」

 2018318日 花巻教会 主日礼拝説教

 聖書箇所:マタイによる福音書272744

 

「この悲しみの道の上に」

 

 

マタイによる福音書272744節《それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。/そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、/茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。/また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。/このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。/

 

兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。/そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、/苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。/彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、/そこに座って見張りをしていた。/イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。/折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。/そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、/言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」/同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。/「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。/神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」/一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった

 

 

 

十字架の道行き

 

 私たちはいま、受難節の中をご一緒に歩んでいます。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架に思いをはせる時です。いまお読みした聖書箇所には、イエス・キリストが死刑の判決を受け、十字架を背負って処刑場のゴルゴタの丘まで歩かされ、そして十字架に磔にされるまでの場面が記されていました。主イエスが十字架を背負って歩いたとされる道は、「悲しみの道」(ラテン語でヴィア・ドロローサ)と呼ばれています。私はまだ行ったことはありませんが、エルサレムには実際に主イエスが歩かれた(であろう)道があり、人々の巡礼地となっています。

 

カトリック教会には、死刑の判決から埋葬までのご受難を14の場面に分け、その一つひとつの場面に想いを巡らしてゆく「十字架の道行き」というものがあります。黙想の助けとなるように、一つひとつの祈る場(『留』と呼ばれます)にはその場面を描いたレリーフ(絵画や彫刻などさまざまな種類があります)が掲げられています。人々はレリーフを前に佇み、主のお苦しみの一つひとつに想いを馳せながら、受難の道を追体験してゆきます。

 

 3月の夕礼拝と来週金曜日の受難日祈祷会でもこの「十字架の道行き」を取り上げ、ご一緒に黙想をしたいと思っています。本日は、「十字架の道行き」の14の場面をご一緒に見てゆきたいと思います(参照:『信徒の友 201604』「主の受難を黙想する 短歌でたどる道行」、日本キリスト教団出版局、1419頁)。スクリーンに「十字架の道行き」の各場面の写真を映しますのでそちらもご参照しつつお聞きください。写真は、妻がフランスのルルドを訪ねた際、撮って来たものです。

 

 

 

1留~第5留 ~悲しみの道の上で

 

 第1留の主題は「主イエス、死刑の宣告を受ける」。主イエスがローマ総督ポンテオ・ピラトの下でなされた裁判で、死刑の宣告を受けるところから「十字架の道行き」は始まってゆきます。先週、ご一緒に礼拝の中でお読みした場面ですね(マタイによる福音書271126節)

 

この場面では、ピラトが、バラバという人物とイエス・キリストと、どちらを解放するかを集まっていた群衆に問う場面が出て来ました。ピラトの問いに、集っていた人々は「バラバを」と言い、主イエスについては「十字架につけろ」と叫びました。人々の勝手な都合のために、無実の主イエスは死刑に処せられることになりました。自分たちの都合や利益のために、神の御子を磔にしてしまった私たち人間の姿がここに率直に描き出されています。

 

死刑の判決を受けた後、主イエスは鞭打ちの刑を受けられました。この鞭打ちはそれによって亡くなる人がいるほど、残酷なものであったと言われています。その後、主イエスはローマ兵士たちによって着物をはぎ取られ、赤い外套を無理やり着せられ、そして茨の冠をかぶせられ、「ユダヤ人の王、万歳」と侮辱されます(マタイによる福音書272631節)。肉体的、精神的に激しい暴力を受け、心身が衰弱しきった主イエスは、十字架刑に処せられるために外へ引き出されます。

 

第2留は「主イエス、十字架をになう」。当時、十字架刑に処せられた人は、十字架の横木を背負って処刑場まで歩かせられるという習慣がありました。人々の好奇のまなざしや中傷に曝されながら、主イエスは中処刑場のゴルゴタの丘まで歩いてゆかれました。主イエスが歩かれたこの道が「悲しみの道」です。

 

3留「主イエス、初めて倒れる」。ここで、主イエスが倒れる場面が描かれます。この場面は福音書に記されているわけではありませんが、衰弱しきった主イエスが横木の重さに耐えかねて倒れるということはもちろん起こったことでしょう。

 

4留「主イエス、母マリアに出会う」。主イエスは母マリアに出会います。我が子の苦しみを見て、腸がちぎれる想いで、苦悶の表情を浮かべているマリア。我が子の苦しむ姿を見るというのは母親として最も辛い苦しみでしょう。心が剣で刺し貫かれ(ルカによる福音書23435節)苦しむ母を見て、主イエスも心が剣で刺し貫かれる想いになったことでしょう。

第5留「主イエス、キレネ人のシモンの助けを受ける」。この場面は本日の聖書箇所にも記されています(マタイによる福音書2732節)。たまたまそこに通りかかったキレネ人のシモンという人物にローマ兵士たちは主イエスの十字架を担がせました。主イエスがもはやご自分では十字架の横木を担げないほど衰弱しきっておられたのだということが伺われます。

 

 

6留 ~ベロニカ

 

 第6留「主イエス、ベロニカより布を受け取る」。ここで、ベロニカという一人の女性が登場します。十字架を背負って歩く主イエスに駆け寄り、ベールを差し出した人物です。血と汗と泥にまみれた主イエスのお顔をぬぐいたいと想い、駆け寄らずにはいられなかったのでしょう。兵士たちが警備をする物々しい雰囲気の中で、ベロニカは勇気を出し、もしくは無我夢中で、主イエスのもとに駆け寄りました。主イエスはベロニカからベールを受け取り、顔をぬぐわれました。すると、そのベールには主イエスの顔の跡がそのまま残った、という伝承が残されています。この場面は、福音書の中には出て来るわけではありません。ベロニカも実在した人物であるのかは定かではありませんが、大切な場面として人々の間に受け継がれてきたものです。

 

岩手県立美術館にて開かれた舟越保武彫刻展(『舟越保武 彫刻展―まなざしの向こうに―』20141025日~127日)を観に行ったとき、「聖ベロニカ」1986年)という作品が展示されていました。最も心に残った作品の一つです(スクリーンの写真を参照)。この作品は舟越さんが右半身の自由を失う前の最後の作品であるとのことでした。

 

舟越さんの彫刻作品の女性像と言えば、少し俯いて静かに微笑んでいるイメージがありますが、このベロニカ像は異なるものでした。ベロニカは前を見つめ、力なく口を開け、苦悶の表情を浮かべています。主イエスのもとに駆け寄る直前の心の動きを表したものかもしれないと感じました。

 

ベロニカという人物は、人々が主イエスのご受難を黙想する中で、形づくられた存在なのではないか、と私は受け止めています。主のお苦しみを前に、居てもたってもいられなくなり、主のもとに駆け寄らずにはおられなくなった人々の想いが具現化した存在であるということができるのではないか。

 

大切な人のために思わず走り出さずにはいられない愛、駆け出さずにはいられない愛。その溢れ出た愛が、ベロニカという一人の人物の形をとって、主イエスのもとに駆け寄った。そうして主イエスにベールを差し出した。主イエスは深い感謝をもって、そのベールを受け取り、顔をぬぐわれた――そのような場面として受け止めています。その意味で、ベロニカは他ならぬ私たち一人ひとりの心の中にいるのだ、ということができるでしょう。私たちは日々の生活の慌ただしさの中で、心の中からこのベロニカを見失ってしまってはいないだろうかと自問させられます。

 

 

 

7留~第10留 ~人間の尊厳をないがしろにされた主イエス

 

 改めて「十字架の道行き」に戻りましょう。ここからは後半部になります。第7留「主イエス、再び倒れる」。主イエスが再び倒れられる姿が描かれます。主イエスがいかに肉体的に衰弱しておられるかが私たちに示されます。

 

第8留「主イエス、エルサレムの婦人を慰める」。この場面はルカによる福音書232731節)に記されています。主イエスの後を泣きながら従う女性たちの方を振り向いて、主イエスは「私のために泣くな、あなたとあなたの子どもたちのために泣け」とおっしゃいました。

 第9留「主イエス、三度倒れる」。もはや主イエスが肉体的に限界を迎えておられることが示されます。

 

 

 すべての力を出し切り、「悲しみの道」を歩み切った主イエス。ようやく、処刑場のゴルゴタの丘に辿り着かれます。「ゴルゴタ」というのは「されこうべの場所」という意味です。

 

 

玄関に飾ってある「イースターガーデン」を御覧になったでしょうか。昨日、摩耶子さんと瑞穂さんで作ってくれたものです。こんもりと盛り上がったゴルゴタの丘には三本の十字架が立てられ、道を隔てて、主イエスが葬られた墓が作られています。

 

10留「主イエス、衣をはがされる」。十字架に磔にされる際、主イエスは着ていた衣服をはぎ取られました。これは、ローマ兵士たちがくじを引いて主イエスの服を分け合った、という福音書の記述に由来しています(マタイによる福音書2735節)。目の前に苦痛の極みにいる人がいるのに自分たちの遊びに熱中している兵士たちの姿は、他者の痛みに無感覚な私たちの姿を映し出しているのではないでしょうか。

 

絵画では伝統的に、十字架上の主イエスの腰には布があてがわれています。しかし実際には、主イエスは来ている服をすべてはぎ取られ、裸の状態で十字架に磔にされたのだということが分かります。当時のイスラエルの人々にとって、着物をはぎとるということほどの人間否定の行為はなかったそうです(参照:佐藤司郎氏、『説教黙想アレテイア マルコによる福音書』、475頁)。主イエスは「十字架の道行き」において、身体的な苦痛のみならず、精神的な苦痛――人間の尊厳を徹底してないがしろにされる経験をされました。

 

 

 

11留~第12留 十字架の死

 

11留「主イエス、十字架につけられる」。そして、主イエスは十字架上に釘付けにされます。

 

十字架刑は当時、ローマ帝国が行っていた処刑の仕方で「最も残酷な処刑法」であると言われていました。絵画などでは伝統的に、十字架の横木に固定された両手のひらに釘が打ち込まれているように描かれていますが、実際には手首に打ちこまれました。それだけでは体は支えられないので、足もとには小さな足場が設けられていました。

 

激しい苦痛と心身の衰弱によりだんだんと足が体を支えられなくなると、肺が圧迫されてゆきます。結果、息ができずに窒息によって亡くなるか、または大量の出血により亡くなる、という場合が大半であったようです。

これほどまでに残酷な刑を主がお受けになったのだということを思いますとき、私たちは心が痛み、いたたまれない気持ちになります。

 

 十字架刑があまりに苦痛を伴うものであったため、時に没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませることがあったようです。麻酔の効果を狙ってのことと思われますが、主イエスはそれをなめただけで飲もうとされなかったことをマタイによる福音書は記しています2734節)

 

 主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きが掲げられていました2737節)。これは、主イエスが「ユダヤ人の王を自称し、民衆を扇動しようとした」罪、すなわちローマ帝国への反逆罪で十字架刑に処せられたということを表しています。主イエスの両隣には、二人の強盗が一緒に十字架に磔にされていました。

 

 そうして、主イエスは十字架上で息を引き取られます。第12留「主イエス、十字架上で息を引き取る」。

 

 

 

「痛みを痛みとして感じとる心」を取り戻す

 

その後、「十字架の道行き」は第13留「主イエス、十字架から降ろされる」、第14留「主イエス、墓に葬られる」の場面を示して、終わります。本来、「十字架の道行き」はこの第14留で終わるものですが、近年は、第15留として「主イエスの復活」の場面を加えるものもあります。

 

ご一緒に「十字架の道行き」の14の場面を見てまいりました。これらこの主のお苦しみを想い起こすことによって、私たちはそれぞれ、色々なことを感じ、考えさせられることと思います。

 

「十字架の道行き」では、イエス・キリスト御自身が人々から「尊厳をないがしろにされる経験」をされたことを証しています。他者から存在を軽んじられ、侮辱されることの痛みを、主イエスは極みまで経験されました。私たちはこれら箇所を読むと、辛い気持ちになります。できれば読まずにいたいとも思いますが、同時に、読まなければならないことを知っています。私たちはこれら受難物語を通して、「痛みを痛みとして感じとる心」を取り戻すようにと招かれているように思うからです。自分自身の痛みを、また、他者の痛みを。

 

 受難節のこと今、他者の痛みを感じ取る心を取り戻したいと願います。主のお苦しみを前に、主のもとに駆けださずにはおられなかったベロニカのように、私たちも大切な誰かのために自分のベールを差し出し、できることを行ってゆきたいと願います。