2018年3月25日「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

 

2018325日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書274566

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

 

 

 

マタイによる福音書274566節《さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。/三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。/そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。/そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。/ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。/しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。/そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、/墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。/そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。/百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。/またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。/その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。/

 

夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。/この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。/ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、/岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。/マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。/

 

明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、/こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。/ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」/ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」/そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた

 

 

 

受難週

 

私たちはいま、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架の死を心にとめ、想いを巡らす時期です。

 

今週は特に受難週と呼ばれる週に当たります。木曜日には洗足木曜日礼拝を行い、イエス・キリストが十字架におかかりになった受難日の金曜日には、受難日祈祷会を行う予定です。ご都合の宜しい方はご参加ください。そして、受難日から三日目の日曜日は、イースターです。今年はちょうど新しい年度がはじまる41日がイースターになります。

 

先週の礼拝のメッセージの中で、「十字架の道行き」を取り上げました。十字架の道行きはカトリック教会で伝統的に行われているもので、イエス・キリストの受難の場面を14に分け、一つひとつの場面に想いを巡らしつつ主イエスの十字架の道をたどるものです。

昨日の夕礼拝ではこの十字架の道行きを主題とし、参加された皆さんと祈りを合わせました。今週金曜日の受難日祈祷会でも取り上げたいと思っています。

 

 先ほどお読みした聖書箇所は、十字架の道行きの14の場面のうち、最後の3つにあたるものです。第12留「主イエス、十字架上で息を引き取る」、第13留「主イエス、十字架から降ろされる」、そして第14留「主イエス、墓に葬られる」。

 

 本日は特に、主イエスが十字架上で息を引き取られた場面を取り上げ、ご一緒に想いを巡らしたいと思います。

 

 

 

主イエスの叫び ~「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

 

主イエスが十字架におかかりになって3時間ほどがたった昼の12時に、全地が暗くなり、それが3時まで続いた、とマタイ福音書は記します2745節)。地上のすべてが闇となった。まるでこの世界から光が失われてしまったかのように。

 

そうして暗闇が世界を覆う中、三時頃に、主イエスは大声で叫ばれました。《エリ、エリ、レマ、サバクタニ46節)。これは《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という意味の言葉です。マタイによる福音書においては、これが主イエスの最期の言葉となりました。

 

主イエスが最期に叫ばれた言葉が、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉であった。これは見方によっては、ショッキングなことであるかもしれません。

 

この叫びは、さまざまな受け止め方ができることと思います。この叫びを文字通り「絶望の叫び」として受け止めることもできますし、そうではない受け取り方もできるでしょう。

 

 旧約聖書の詩編という書の中に、この主イエスの叫びと同じ文言があります(詩編222節)。《わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。/なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか》。

 

主イエスは十字架上で、この詩編の言葉を祈られたのだ、という受け取り方があります。詩編22編は嘆きの言葉から始まりますが、最後には神への信頼の言葉で終わります。このことから、主イエスはこの詩編の冒頭を口にすることでむしろ神さまへの信頼を述べたのだ、という解釈です。

 

想像を絶する心身の苦痛の中で、主イエスは最後まで神さまへの信頼を失わなかった。大切な受け取り方であると思います。

 

また一方で、この最後の言葉を、「絶望の叫び」として解釈することもできます。弟子たちから裏切られ、そして神ご自身からも「見捨てられた」と感じた主イエスの、心からの叫びとして。これも、大切な受け取り方であるでしょう。

 

私たちもまた、生きている中で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びたくなる瞬間を経験することがあります。大変な困難の中で、突然の不条理な出来事に襲われる中で。「神に見捨てられた」と叫びたくなる時があるでしょう。主イエスは「見捨てられた」と叫ばれることで、私たち一人ひとりの痛み苦しみと結び合わさってくださった――そう受け止めるとき、私たちは深い慰めを得ます。

 

 主イエスの十字架上の言葉には、汲んでも汲み尽くせないメッセージが含まれています。どれか一つだけの解釈が正しいということではないでしょう。この十字架の主のもとに立つとき、それぞれが、その時にもっともふさわしいメッセージを神さまから与えられるのではないでしょうか。皆さんは今朝、十字架の主から、どのような語りかけを受けるでしょうか。

 

 少なくともはっきりと言えることは、主イエスはこの十字架の道行きにおいて、真実に、苦しみを受けられたということです。身体的に、精神的に、主イエスは想像を絶する苦しみを受けられました。主イエスは何か脚本があるドラマの演者のようにして、受難の道を歩まれたのではもちろん、ありません。主イエスは十字架への道を、本当に、苦しみ、悲しみ、呻きながら、何度も倒れながらゴルゴタの丘まで歩かれ、そして十字架の上で激しい苦悶の末、息を引き取られたのです。

 

 

 

マタイ固有の場面 ~復活の示唆する出来事

 

主イエスが息を引き取られた直後、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた、とマタイ福音書は記します。神殿というのは、エルサレム神殿です。続けて、マタイは印象的な場面を記します。他の福音書では描かれていない、マタイ固有の場面です。

 

51b53節《…地震が起こり、岩が裂け、/墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。/そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた》。

 

マタイによる福音書はここで、主イエスが復活された後の出来事を記しています。墓穴をふさぐ石が裂けた、眠っていた死者がよみがえった……これら不思議な出来事は、主イエスの復活を示唆する出来事として受け止めることができます。マタイによる福音書は、主イエスの十字架の死と同時に、復活を示唆する出来事を描き出しているのです。十字架の悲惨な死をはっきりと描きつつ、同時に、復活の命の喜びをマタイは懸命に指し示そうとしています。ここに、マタイによる福音書固有の、私たちへの重要なメッセージがあるように思います。

 

 

 

この暗闇の先に、復活の主が待ってくれている

 

 2013年、私が花巻教会に赴任して1年目の年のことでした。岩手地区の牧師が集まる教師会で、先生方より震災直後のことをお伺いする機会がありました。私は震災が起こったときは東京におり、岩手で震災を経験したわけではありませんでした。こちらに来てから、さまざまな方から震災直後の様子をお聞きし、色々なことを学んでいます。

 

そのとき私がお話しをお聞きして強く心に残ったのは、その場にいた数人の先生が皆、震災直後に自分の心にあったのは「復活の主のお姿だった」とおっしゃったことでした。

 

福音書は十字架の死の後に、復活の場面を記します。お墓を見に来た女性たちの前に復活の主イエスが現れ、彼女たちに伝言を託す場面が出て来ます。《行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる2810節)

ガリラヤとは主イエスと弟子たちの故郷であると共に主イエスが弟子たちと初めて出会った場所であり、弟子として召してくださった場所です。また一緒に神の国を伝える活動をした、大切な場所です。絶望の暗闇の中にいる弟子たちに、「またガリラヤで会おう」と約束をしてくださったのです。

 

岩手地区のある先生は、沿岸部の道を、支援物資を積んで車で走っていたとき、「ガリラヤで会おう」という復活の主イエスの言葉をずっと思い続けていた、とおっしゃっていました。道路もいまだ整備されておらず、電灯も消えて真っ暗な中、車を走らせていたとき。非常に心細く、不安でいっぱいでいらっしゃったことと思いますが、この暗闇の先に、復活の主が待ってくれている、先にガリラヤで待ってくれている。この希望があったから頑張れた、とお話しくださいました。

 

東京にいた頃の私は、被災地の方々の苦しみに想いを馳せようとし、十字架の主イエスのお姿をずっと心に思い描いていました。主のご受難、十字架の道行きを想っていました。けれども、津波の被害のただ中にいらっしゃった先生方は、十字架の主のお姿と共に、復活の主のお姿を想い、それを支えとしていたことを知りました。東京にいた自分と、岩手にいた先生方との間には意識の差、感じ方の差があったのです。無知であった自分のことを顧みつつ、岩手に来たからこそ教えて頂けたエピソードとして、以来、ずっと大切に心に刻んでいます。

 

マタイによる福音書のメッセージも、このことと共通するものがあるように感じます。マタイによる福音書が十字架の死の場面の直後に、同時に、復活を示唆する出来事を付け加えたこと。それは、いまはどんな暗闇の中にいるようであっても、その先には復活の光があることを伝えたかったからではないでしょうか。どれほどの暗闇が私たちを覆っていても、その暗闇の先に、約束通り復活の主が待っていてくださる。この光は消え去ることのない光、いつも私たちと共にいてくださる光であることをマタイ福音書は伝えてくれています。

 

 

 

暗さから目を逸らすことなく、光を見失うことなく

 

「十字架の道行き」は元来、主イエスが墓に葬られた第14の場面で終わるものですが、近年は、第15の場面として「主イエスの復活」が加えられることもあるようです。主イエスのご受難と十字架を心に留めつつ、同時に、その悲惨さの向こうに輝く復活の光を希望とする。

 

この復活の命の光は、暗闇の中に輝いている光です。この光は、私たちの内外を覆う「暗さ」をはっきりと受け止めようとする中で、少しずつ見えてくる光であるのだと思います。

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。この主の叫びを受け止める中で、少しずつ見えてくる光。私たちの内外に、私たちの社会に満ちている「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という叫びに心を開こうとする中で、少しずつ、しかし確かに、私たちの心の目に見えてくる光です。

 

私たちは今週、受難週を過ごし、日曜日にイースターを迎えます。私たちの内外を覆う暗さから目を逸らすことなく、同時に、希望の光を見失うことなく、共に歩んでゆきたいと願います。