2018年4月1日「わたしはいつもあなたと共にいる」

201841日 花巻教会 主日礼拝説教・教会学校と合同

聖書箇所:マタイによる福音書28120

「わたしはいつもあなたと共にいる」

 

 

 

マタイによる福音書28120節《さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。/すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。/その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。/番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。/天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、/あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。/それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」/婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。/すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。/イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」/

 

婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。/そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、/言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。/もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」/兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。/

 

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。/そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。/イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。/だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、/あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

 

 

イースター礼拝

 

イースターおめでとうございます! 本日はイースター礼拝をごいっしょにおささげしています。イースターはイエス・キリストの復活を記念する日です。

 

今日はちょうど41日がイースターになりました。新しい年度がはじまる、その始まりの日ですね。長い冬が終わり、春が本格的に訪れようとしているこの時期(3~4月の時期)に、毎年イースターは祝われています。皆さんも、ようやく暖かな陽気になってきて、ホッとしているのではないでしょうか。

 

先日、教会学校の皆さんで、タマゴ探しをしました。イースターの時期になると、教会ではタマゴを会堂の中に飾ったり(このタマゴはイースター・エッグと呼ばれます)、タマゴ探しのゲームをしたりします。

 

  なぜ、タマゴなのでしょうか……? タマゴには、「新しく生まれる」というイメージが伴っています。殻をやぶって、その中から、「新しい命」が生まれる。そのイメージと、イエスさまが暗い墓の中からよみがえられたイメージとが結び合わされ、伝統的にタマゴがイースターのシンボ ルとして用いられるようになったようです。

 

 

 

 昨日、教会の有志の皆さんがイースター・エッグを作ってくれました。礼拝の後、皆さんにプレゼントします。ゆで卵になっていて食べられますので、家でどうぞ召し上がってください。

 

 

イースターのシンボルとして、他に、よくウサギも登場します。ウサギは春先にたくさん子どもを産む動物です。ヨーロッパではやはり「新しい命」をイメージさせる存在として、タマゴと共にイースターのシンボルとして用いられるようになったようです。

 

 

 

讃美歌575番『球根の中には』

 

 先ほどご一緒に、『球根の中には』という賛美歌を歌いました(『讃美歌21575番、作詞・作曲 ナタリー・スリース)。私も大好きな曲です。一番はこのような歌詞でした。《球根の中には 花が秘められ、/さなぎの中から いのちはばたく/寒い冬の中 春はめざめる/その日、その時を ただ神が知る》。

 

《球根の中には 花が秘められ…》(スライドの文字と写真も参照)。球根は、教会学校の皆さんも見たことがありますよね。チューリップの球根を植えたこともあるかもしれません。私たちの目には、球根の中に秘められている花は見えませんよね。しかし中には確かに花が秘められています。時が来たら芽をだし、花を咲かせます。考えてみると、不思議なことですね。

 

球根はまだ寒い時期に土の中に植えます。土の中に埋められている球根は目には見えません。一面真っ白な雪景色になったら、なおさらですよね。冬の間、私たちの目には見えない球根。けれども球根は確かに存在し、土の中で、芽を出し花を咲かせるための準備をしています。

 

次に、《さなぎの中から いのちはばたく…》。さなぎは、教会学校の皆さんは見たことがあるでしょうか。木の枝などについていることがありますね。殻で身を包んださなぎは、まるで眠っているかのようです。このさなぎからチョウが出て来るなんて、見た目からは想像できませんよね。しかし、ジッとして動かないさなぎの中で――私たちの目には目ないけれど――命は活発に活動し続けており、時が来たら、美しいチョウになって、殻をやぶって大空に羽ばたいてゆきます。

 

 球根とさなぎについて歌った後、『球根の中には』の歌詞はこう続きます。《寒い冬の中 春はめざめる》。

 

 冬が終わると春が来る……それは当たり前のことですが、それはある日を境にパッと冬から春に変わるというものではなくて、寒い冬の中に、春はすでに目覚めているのだということができるでしょう。

 

ではいつ、球根は芽を出し花を咲かせるのか。さなぎはチョウになるのか。その日、その時を知っているのは神さまだと讃美歌は歌います。《その日、その時を ただ神が知る》。

 

私たちには、いつ球根が芽を出し花を咲かせるのか、さなぎがチョウになるのかは分かりません。でもその時はきっと、必ず、訪れる。神さまがそれをその日をちゃんと準備してくださっているからです。

 

 

 

《いのちの終わりは いのちの始め》

 

『球根の中には』の三番の歌詞もご一緒に読んでみましょう。1番とはまた少し雰囲気が違っています。《いのちの終わりは いのちの始め。/おそれは信仰に、死は復活に、/ついに変えられる 永遠の朝。/その日、その時を ただ神が知る》。

 

《いのちの終わりは いのちの始め…》。ちょっと不思議な表現が出て来ました。私たちの命というのは、いつかは終わりを迎えます。どんな命も、いつかは終わりを迎える……。悲しいことですが、これは私たちの力ではどうすることもできないことです。

 

「いのちの終わり」というのは私たちにとって、非常に重大なことです。大切なペットの命にも、いつかは終わりが来る。大切な家族や友だちの命にも、いつかは終わりが来る。さよならをしなくてはいけないときがくる。またそして、この私の命にも、いつかは終わりが来る……。

 

私たちは普段、この「いのちの終わり」からなるべく目を逸らそうとしています。「いのちの終わり」のことは忘れて、生活しているのですね。でも、何かの機会に、私たちはこの「いのちの終わり」についてハッと思い起こすことがあります。たとえば、東日本大震災のような、大きな災害が起こったとき。また、身近な、大切な人が死んでしまったとき。ああ、私たちの命には終わりがあるのだ、ということを痛感させられます。そうして、寂しくて、悲しくて仕方がない気持ちでいっぱいになります。不安で、恐ろしくて仕方がない気持ちでいっぱいになります。

 

 この讃美歌で不思議なのは、その「いのちの終わり」は、同時に、「いのちの始め」であると歌っていることです。「終わり」が「始まり」……? どういうことでしょうか。続きの歌詞を読んでみましょう。《おそれは信仰に、死は復活に、/ついに変えられる 永遠の朝。/その日、その時を ただ神が知る》。

 

「復活」という言葉が出て来ました。「いのちの始め」とはつまり、復活のことを言っているのだ、ということが分かります。

 

私たちはいつか生き物としての死――「いのちの終わり」を経験します。その「終わり」は私たちの心を悲しみでいっぱいにします。しかしそれが、すべての「終わり」ではない。私たちはその後、復活という新しい「いのちの始め」を経験してゆくのだ、と『球根の中には』は歌います。

 

「死は終わりではない」ということ――。これが、イースターが私たちに伝えてくれているメッセージです。イエスさまは死からよみがえられることによって、私たちにそのことを示してくださいました。

 

私たちはいつ「いのちの終わり」を迎えるのか、そしていつ新しい「いのちの始め」を迎えるのか、それは、分かりません。《その日、その時を ただ神が知る》、ただ、神さまだけが知っています。しかし、新しい「いのちの始め」の時は、きっと、必ず訪れる。春が来て、球根が新しく、芽を出し花を咲かせてゆくように。さなぎの中から新しく、チョウが羽ばたいてゆくように。

 

 

 

「終わり」に見える現実の中にも「始まり」が隠されている

 

この讃美歌を歌っていると、私たちの目には「終わり」に見える現実の中にも、「始まり」が隠されているということに気づかされます。

 

私たちが経験する最も重大な「終わり」の一つは、生き物としての「死」でありましょう。と同時に、私たちは日々の生活の中で、さまざまな「終わり」と感じる経験をします。心が死んでしまったかのように立ち上がれなくなってしまう経験や、「もう駄目だ」「もう終わってしまった」と失望してしまう経験をすることがあるでしょう。

 

そのように、辛く、真っ暗のように思える現実の中にも、しかし、光は宿されていることを、イースターの出来事は私たちに伝えてくれています。「終わり」に見える現実の中にも「始まり」が隠されている。どれほど悲惨な現実の中にも、新たに芽吹くものがあるのだということを伝えてくれています。

 

 

 

「わたしはいつもあなたと共にいる」

 

本日の聖書箇所の最後に、《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》というイエスさまの言葉がありました(マタイによる福音書2820節)。マタイによる福音書を締めくくる言葉です。

 

暗闇の中に、光をともしてくださっている方、それがイエス・キリストのその方です。よみがえられたイエスさまは、すべての日々において、私たちと共におられます。「わたしはいつもあなたと共にいる、だから、大丈夫だよ」と語りかけてくださっています。そうして、「終わり」の中に「始まり」が宿されていることを語り続けてくださっているのです。

 

どれほど暗闇のように思える現実の中にあっても、光があることを。荒れ野のただ中に、芽吹くものがあることを。悲惨な十字架から三日目に、復活の新しい命が芽吹き、花開いたように――。

 

どうぞここに集ったお一人お一人の心に、イースターの喜びと希望とがともされますように。