2018年4月29日「キリストの愛にとどまる」

2018429日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書15111

「キリストの愛にとどまる」

 

 

ヨハネによる福音書15111節《「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。/わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。/わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。/わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。/わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。/わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。/あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。/あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。/父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。/わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。/これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。…」

 

 

 

《平和求めて 主に生きよう》 ~南北首脳会談の実現

 

 一昨日27日、朝鮮半島の軍事境界線をまたぐ板門店で、歴史的な南北首脳会談が行われました。朝鮮半島の「完全な非核化」実現を目標に掲げるもので、北朝鮮の金正恩委員長と韓国の文在寅大統領が笑顔で抱き合い、手をつなぎながら軍事境界線を一緒に超えた映像が印象的でした。その光景を、韓国の方々、在日朝鮮人・韓国人の方々が涙を流しながら見守る姿もニュースで映され、心打たれました。この会談が、北朝鮮と韓国の分断を終わらせる一歩、統一への一歩となりますよう願います。朝鮮半島の和解と平和のために、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 偶然にも、今日の礼拝では韓国の讃美歌を2曲選んでいました。讃美歌397番の「主の教えのべ伝え」、讃美歌196番の「主のうちにこそ」という讃美歌です。この2曲について少しご紹介したいと思います。

 

 讃美歌397番「主の教えのべ伝え」は先ほどご一緒に歌った讃美歌です。『讃美歌第二編』にも収録されていました12番)。『讃美歌21略解』の解説によりますと、この讃美歌が作られた当時、韓国の教会では立場の違いによる対立が起こっていたそうです。その葛藤の中で、作詞者のキム・ヂェヂュン氏はこの讃美歌を書き、「これこそが教会の使命だ」ということを表した。その詞の内容に共鳴したナ・ウンヨンという方が曲を付け、誕生したのがこの曲であるとのことです(日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21略解』、日本キリスト教団出版局、1998年、251252頁参照)

 

 どのような歌詞であったか、改めて読んでみたいと思います。

 1番《主の教えのべ伝え、/主のさかえ歌いつつ、/三一なる神をほめ、/みめぐみを感謝する。/くすしき神の さかえは満ちる/たぐいなき教会よ、たぐいなき教会よ》。

2番《地に植えた木のように、/神の国育ちゆき、/その幹は主なるイェス、/その枝はわたしたち。/日ごとに育ち あかしをたてて/実を結ぶ教会よ、実を結ぶ教会よ》。

 3番《暗い世をてらしつつ/朽ちる世の塩となり、ひと知れずはたらいて/音もなく世を変える。/パン種のように みくにをたえず/ひろげゆく教会よ、ひろげゆく教会よ》。

 

2番の歌詞は、本日の聖書箇所ともつながる内容となっていますね。「ひと知れず働いて/音もなく世を変える」、そのような教会でありたいという歌詞が印象的です。

 

 もう一曲の讃美歌196番「主のうちにこそ」。この曲はメッセージの後に、皆さんで賛美したいと思います。作詞者はパク・ソンムン氏、作曲者はオ・ソウン氏。この曲では韓国の伝統的な音階とリズムが用いられているそうです(同書、130頁参照)

 

 1番の歌詞をお読みします。《主のうちにこそ 喜びあり。/平和求めて 主に生きよう。/不安ひそかに せまるとも、/平和 主にあり、ゆるがない》。

 主への信頼が力強く謳われています。そうして、主にある喜び、主にある平和が謳われています。

 

 2番の歌詞はこのような歌詞です。《主のうちにこそ 愛が育つ。/希望求めて 主に生きよう。/絶望おしよせ こようとも、/希望 主にあり、ゆるがない》。

 主のうちで育まれる愛と希望について歌われています。

 

《平和求めて 主に生きよう》と歌詞にあるように、まことの平和がこの世界に、一人ひとりにもたらされますよう、共に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

主イエスはぶどうの木、私たちはその枝

 

 本日の聖書箇所は、よく知られたイエス・キリストの言葉の一つです。本日の聖書箇所では、イエス・キリストは「ぶどうの木」、私たちはその「枝」であるということが語られています。ヨハネによる福音書155節《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ》。

 

 花巻でもぶどうが栽培されていますね。早池峰山の麓で栽培されているぶどうからはワインが作られています。皆さんもよくご存じの通り、ぶどうはつる性の植物です。主となる幹があり、そこから四方にたくさんの枝が伸びてゆきます。それら枝から葉が生い茂り、時が来るとたくさんの実を実らせます

 

 本日の聖書箇所では、イエス・キリストが全体を支える太い幹であり、私たち一人ひとりはその幹に結ばれた枝であると言われています。幹であるイエス・キリストにつながっていることにより、私たちは時が来ると豊かに実を結ぶことができるのだ、と。

 

 このぶどうの木のイメージを通して、主イエスは私たちに何をお語りになっているのでしょうか。主イエスが語っておられることの一つ、それは、「愛にとどまる」ことの大切さです。

9節には、このような言葉がありました。本日の聖書箇所の中心となる一節であると言えるでしょう。《父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい》。

「父」というのは、神さまのことです。神さまが独り子である主イエスを愛されたように、主イエスも私たち一人ひとりを愛してくださっている。この主イエスの愛にとどまっていなさい、ということが語られています。ぶどうの枝が、幹から離れないで、しっかりつながっているように。いつも愛に結ばれていること、の大切さが、ぶどうの木のイメージを通して伝えられています。

 

 

 

対立、分断が生じている現状

 

 このぶどうの木のイメージの特徴は、常に、ぶどうの木全体がイメージされているところです。全体を支える主となる幹があり、そこから伸びるたくさんの枝がある。それら全部を含めて、一本のぶどうの木が形づくられています。

 

 私たちは日々の生活において、ついつい自分だけの世界で完結してしまっていることが多いのではないでしょうか。ぶどうの木で言うと、自分の枝の部分しか見えていない。もしくは自分と周辺の枝のことしか見えていないことが多いように思います。自分の枝の付近から生える葉について、そこから生じる果実にばかり関心を向けてしまう。まなざしをより広くして、ぶどうの木全体のことを考える、ということは少ないかもしれません。

 

 また時に、自分とは別の枝を何か不要なもののように感じてしまうこともあるかもしれません。離れたところにある枝を、自分たちとは無関係なものと思ってしまうこともあるでしょう。実際には、それら枝は皆、同じ一本の幹に結ばれている関係にあるにも関わらず……。

 

 このぶどうの木でイメージされているように、私たちは本当は一つであるはずなのに、なかなかそれを実感できない。なかなかそれを現実に生きてゆくことができない、という状況があります。私たちの生きる社会にはさまざまなところで対立、分断が生じてしまっています。互いの違いを認め合うことができず、傷つけあっている状況があります。

 

 

 

賛美歌「キリストの愛で」 ~We are many, we are one

 

 今日はもう一曲、賛美歌をご紹介したいと思います。「キリストの愛で」というワーシップソングです(『ジャンピング ジーザス :ニュージーランドの創作賛美歌集』所収、日本賛美歌学会、2012年)。作詞・作曲をしたコリン・ギブソンはニュージーランドの方です。この曲は花巻教会でも何度も歌っていますので、よくご存じの方も多いと思います。正教師就任式の際は、振り付けと共に、この曲を賛美しましたね。

 

この曲は1998年に、同性愛を受け入れるか否かで教会が対立する中で生まれた賛美歌であるそうです。歌詞の中では、「いろいろな人と 違いを超えて 認め合い 共に生きよう」と呼びかけられています。そしてこの曲の中心に、本日の聖書箇所のぶどうの木のイメージが用いられています。(どのような曲であったか、1番を歌ってみたいと思います)

 

 1番《キリストの愛で 生かされるとき 私たち一つになれる。/夜空いちめん 輝く星や つらなるぶどうのように/幹から伸びる たくさんの枝 つらなるぶどうのように》。

 2番《いろんな人と 違いを超えて 認め合い 共に生きよう/色とりどりに 編まれた糸や つらなるぶどうのように 野原いっぱいに 広がる花や つらなるぶどうのように》。

 3番《創造の歌を 共に歌おう 新しい世界をつくろう/心ひとつに 奏でるハーモニー つらなるぶどうのように/大空にかかる 虹の七色 つらなるぶどうのように》。

 

 この曲においては「共生(共に生きること)」が大切な主題の一つとなっています。それぞれ違いのある私たちが、いかにして共に生きてゆくことができるか。対立や分断を超えて、いかに生きてゆくことができるか。これはいまを生きる私たちにとって、切実な主題です。

 

 この「キリストの愛で」という賛美歌の原題は、「We are many, we are one」となっています。私たちは多様であり、同時に、一つであるということ。新約聖書には、「多くの部分、一つの体」という表現がありますが(コリントの信徒への手紙一131231節)、そのメッセージが踏まえられているのでしょう。

 

歌の中では、「多様性」を表すさまざまなイメージが登場します。夜空一面輝くたくさんの星、色とりどりに編まれた糸、野原いっぱいに広がる花、大空にかかる虹の七色……。一つひとつの存在には違いがあり、多様性があります。それがこの世界の真理です。同時に、そこには調和があります。それら違いがある存在同士が、一つに結び合わされています。このことも、この世界の真理です。そのことを表現しているのが、ぶどうの木のイメージです。たくさんの枝は、一つの幹にしっかりと結び合わされている。このぶどうの木のイメージが、曲の全体を貫いています。

 

 

 

違いがありつつ、一つ

 

聖書が語る「一つ」とは、互いの違いを忘れて、違いを消し去って一つになろう、というものではありません。そうではなく、聖書が語る「一つ」とは、「違いがありつつ、一つ」であるというものです。違いを受け止めあい理解し合ってゆく中で実現されてゆく調和が、聖書が語る調和であるのだと信じています。

 

 この「キリストの愛で」という歌は《キリストの愛で 生かされるとき 私たち一つになれる》という言葉で始まっています。私たち一人ひとりは、大いなる愛の中で、共に生かされている存在である。そのことを思い起こすとき、私たちの目の前には「違いがありつつ、一つ」である道が開かれるのかもしれません。

 

 ぶどうの木で言うと、たくさんの枝を支える幹の存在に気づくこと。たくさんの枝を根底から支え、「一つ」に結び合わせている太い幹。この幹がイエス・キリストの愛であり、そしてキリストの十字架である、ということができるでしょう。私たちはそれぞれ、この大いなる愛に生かされ、支えられています。

 

 この愛の中では、もはや上下関係が生じる必要はありません。互いに、対等な存在です。またこの愛の中では、一人ひとりがかけがえのない、替わりがきかない存在とされています。誰一人、必要ではない存在はいません。一人ひとりが、神さまの目から見て、替わりがきかない存在である。だからこそ、あなたという存在は価高く、貴いのです。私たちは常にこの愛に立ち帰り、この愛にとどまり続けることが求められています。

 

 主の愛に生かされ支えられながら、「違いがありつつ、一つ」である世界の実現を目指して、一歩一歩、共に歩んでゆきましょう。