2018年4月8日「あなたがたに平和があるように」

201848日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書201931

「あなたがたに平和があるように」

 

 

 

ヨハネによる福音書201931節《その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。/そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。/イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」/そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。/だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」/

 

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。/そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」/さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。/それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」/トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。/イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」/

 

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。/これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである

 

 

 

復活節

 

先週の41日、ご一緒にイースター礼拝をおささげしました。先週から、教会の暦で「復活節」に入っています。

 

また、新しい年度となってちょうど1週間が経ちました。先週は学校での入学式、始業式、また会社での入社式などが行われたことでしょう。新しい土地で、新しい生活を始めた皆さんの上に、神さまの祝福をお祈りします。イースターの喜びと希望を胸に、この新しい年度もご一緒に歩んでゆきましょう。

 

今年度からは、聖書日課に基づいて、礼拝の中のメッセージをしてゆきたいと思っています。聖書日課は教会暦に基づいて選ばれているもので、今朝はヨハネによる福音書201931節が選ばれています。

 

ヨハネによる福音書の終盤の部分。復活したイエス・キリストが弟子たちの前に現れる場面です。どういう場面か、改めて見てみたいと思います。

 

 

 

主イエスの手と脇腹の傷

 

それは、主イエスの十字架の死から三日目のことでした――すなわち、イースターの日のことでした。弟子たちは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。この弟子たちというのは、主イエスが逮捕されるとき、師を見捨てて逃げてしまった弟子たちです。

 

弟子たちは、「ナザレのイエスの仲間だ」ということで自分達も捕らえられるのを恐れて、家の中に閉じこもっていたようです。また、彼らが閉じこもっていたのは、愛する師を見捨てて逃げてしまったことの激しい罪悪感も関係していたことでしょう。自分たちは取り返しのつかないことをしてしまったという罪の意識を感じていたのではないかと想像します。

 

恐れと、失望と、激しい罪悪感の中で、弟子たちは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。「もうすべては終わってしまった」、そういう意識の中で、皆押し黙り、座り込んでいたのではないでしょうか。

 

そこへ、復活の主イエスが現れます。主イエスは彼らの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。そうして、手と脇腹とをお見せになった、と福音書は記します。

 

この手と脇腹には、十字架の傷跡が刻まれていました。手の傷は、釘を打ち込まれた際の痕、脇腹の傷は、槍で突かれた際の痕です。絵画でも伝統的に、主イエスの手と脇腹にはこれら傷跡が描かれています。

 

 これら傷跡は主イエスの十字架のお苦しみを象徴するものであり、また、人間の罪を象徴するものでもあります。主イエスは自分を見捨てて、自分を深く傷つけた弟子たちに怒りを発するのではなく、恨みの言葉を投げかけるのでもなく、「あなたがたに平和があるように」と言って、手と脇腹の傷跡をお見せになりました。主イエスはその傷跡をあえて見せることによって、弟子たちを「ゆるしている」ということを伝えられたのです。

 

 私たちは心に傷を負ったとき、それを「隠す」ようにしてしまうのではないでしょうか。もしその傷が表面化されれば、自分でもどんな怒りの言葉、恨みの言葉を発してしまうか分からない。ですので、普段私たちは心の傷をなるべく心の奥底に「隠す」ようにしています。「隠している」ということは、いまだ「ゆるしていない」ということでもあります。

 

 けれども、ここで、主イエスはご自分の傷を「隠す」ことはなさいません。「隠していない」ということは、「ゆるしている」ということにつながっています。自分に深い傷を負わせた弟子たちに、その傷跡をはっきりと見せることを通して、「ゆるし」のメッセージを伝えられたのです。

 

 

 

私たちにとって難しい主題 ~「ゆるし」

 

 本日の聖書箇所の主題の一つとして、「ゆるし」ということがあります。「罪のゆるし」というのは聖書全体の重要な主題の一つですが、同時に、私たちにとって非常に難しい主題です。

 

そもそも、「ゆるし」という言葉自体が、どのように受けとめたらよいのか難しい言葉です。

 

私たち自身は、なかなか「ゆるす」ということができません。人の過ちがなかなか「ゆるせない」し、自分自身の過ちも「ゆるせない」。聖書の「ゆるしなさい」という言葉を聴く度、それができていない自分を責める気持ちも湧いてきます。

 

また、私たちの社会には、ゆるしてはならないと思える事柄もあります。差別や暴力、さまざまな不正。聖書は「ゆるしなさい」と言うけれど、では、それら不正義をゆるしてしまっていいのだろうか、という疑問が湧いてくることもあるでしょう。

 

 

 

主のお身体から傷跡は消えない

 

まず一つ言えることは、聖書が語る「ゆるし」とは、不正を「なかったこと」にしたり、見過ごしたりすることではない、ということです。

 

福音書には、人間の尊厳がないがしろにされている現実に対して激しく憤られた主イエスのお姿が記されています。尊厳がないがしろにされている現実を神は決して見過ごされない、「なかったこと」にはなさらないということは、聖書が一貫して伝えている真理です。

 

聖書が語る「ゆるし」とは、不正を「なかったこと」にしたり、見過ごしたりすることではない、ということは、弟子たちが主イエスを見捨てて逃げたことやペトロが主を「知らない」と否認したことが福音書にはっきりと記録されていることからも分るでしょう。それら過ちは「なかったこと」にはされないのです。

 

また何より、主イエスのお体の傷跡が、そのことを物語っています。人々の罪責により、主イエスは十字架の死に追いやられました。主イエスを激しく虐待し死に追いやった罪は、「なかったこと」にはされません。私たちが忘れてはならないのは、「主イエスのお身体から傷跡は消えない」ということです。たとえ私たちが自分の過ちを「知らない」と否認しても、主イエスのお体には負わされた傷跡が厳然と残されているのであり、それは何より、神がご存じでしょう。

 

この社会において起こった不正、また教会において起こった不正を、私たちは「なかったこと」にすることはできないのです。

 

 

 

「ゆるし」――「あなたは生きていてよい」という神の声

 

私たちの犯してしまった過ちの事実は、消すことはできない。「なかったこと」にはできない。と同時に、その過ちゆえに、「すべてが終わってしまう」のでもありません。私たちには必ず再出発する道が備えられている、ということも、聖書が力強く語っている真理です。

 

聖書が語る「ゆるし」とは――私なりに言葉にすると、「あなたは生きていてよい」という神の声を共に聴くことです。さまざまな過ちを犯してしまう私たちが、不完全な私たちが、それでもなお、「生きていてよい」のだと。

 

 

 

罪悪感は私たちの内から生きる力を失わせてゆく

 

自分が他者に対してしてしまったひどいこと、そのさまざまな過ちの記憶を思い起こす度、私たちは辛い気持ちになってゆきます。頭から血の気が引いたようになり、体から力が失われてゆきます。時には、「自分には生きる資格がないのではないか」「自分はもう生きていてはだめなのではないか」とまで思い詰めてしまうこともあります。

 

また、他者にされたひどいことをどうしてもゆるせない自分がいて、そのゆるせない自分をゆるせない、ということもあるでしょう。他者からされたひどい言動を思い起こす度、私たちの傷口はうずき、激しい怒りがこみあがってきます。また怒りと共に、そのような自分に対して、罪悪感がこみあがってきます。

 

このような怒りや罪悪感は、私たちの内から生きる力を失わせてゆきます。自尊心を失わせ、やがて自分で自分を価値のない存在のように思わせてゆきます。「もうすべてが終わってしまった」かのような感覚にさせてゆくのです。

 

そのように、否定的な感情の渦の中でうずくまり、立ち上がれなくなっている私たちに対して、神さまは「あなたは生きていてよい」と語りかけてくださっています。この声が、聖書が語る「ゆるし」の声なのではないかと私は受け止めています。そのように、自分の経験を通して感じ取っています。

 

十字架の死よりよみがえられた主イエスが、そう語りかけてくださっている。手と脇腹の傷跡を見せながら、そう語りかけてくださっている。なぜなら、神さまの目から見て、あなたという存在が、かけがえなく貴い存在であるからです。決して失われはならない存在であるからです。

 

この愛とゆるしの声こそが、私たちに生きる力を与えます。私たちに再び立ち上がってゆく力を与えてくれるのだと信じています。

 

 

 

《聖霊を受けなさい》 ~命の息吹を内に宿して

 

 主イエスは弟子たちに「平和があるように」と言われた後、彼らに息を吹きかけて、《聖霊を受けなさい》とおっしゃいました(ヨハネによる福音書2022節)

 

「聖霊を受ける」とは、「あなたは生きていてよい」というこの神さまの声を受けとることであると本日は受け止めたいと思います。この声は命の息となって、私たちの内に宿り私たちを生かしてくださいます。私たちを新しく生きる者としてくださいます。創世記において、アダムが神さまから命の息を吹き入れられ、新しく生きる者となったように(創世記27節)

 

家の中に閉じこもっていた弟子たちもまた、主イエスからこの聖霊の息吹を受けて、再び立ち上がり、主の平和を告げ知らせる者となってゆきました。

 

「あなたは生きていてよい」――この命の息吹は私たちの内からあふれ出し、互いを支え合うものとなってゆくでしょう。自分の周囲に、この社会に、少しずつ平和を創り出してゆくことができるでしょう。この主の「ゆるし」の声を私たちの真ん中に置くとき、私たちは自らの過ちにも、社会のさまざまな罪責にも、勇気をもって向かい合ってゆくことができるのだと信じています。

 

 どうぞここに集ったお一人おひとりの心に、キリストの平和がゆき渡りますようにと祈ります。